「笑い」の分析_自虐 vs 他者性

「笑い」の分析_自虐 vs 他者性

「笑い」の種類

世間の内側にいる日本人は、自分自身を貶めることで笑いを取ろうとする傾向が強い。自分自身を蔑むことで皆に安心感を与え、自分の居場所を得ようとする傾向が根強い。目的は座席の確保。笑いの動機が浅ましい。「自虐ネタ系(自虐系)」と呼ぼうか。

一方、国際標準のユーモアは、近代社会の「鉄の檻」が前提になっている。「社会構造系(社会系)」とでも言っておこうか。近代社会という「鉄の檻」の圧力を常に感じながら日常を過ごしているわたしたち。ゆえに、常にすでに頽落せざるをえないわたしたち。そんな、我々近代人が置かれている構造的前提に対して、一瞬、「それそのものが下らないですよね」と肩の力を抜いてくれる、そんな笑いがユーモアであろう。一瞬、あくせくした日常という「箱」の外(Out Of Box)に私たちを連れて行ってくれる。私たちが置かれている「箱」(=鉄の檻)の存在を軽快に示してくれる。そんなことばを発して人々をリラックスさせてくれるのがユーモアである。近代なんて所詮、フェイク。「生き残る」ために一生懸命やらなければならない運命だけど、そんな自分自身も含めた人間たちを皮肉る(と同時に労わる)、慈悲深い「笑い」なのである。私たち近代人共通の日常の一生懸命さを笑い飛ばす。

 

「自虐系(自分を下げる笑い)」と「社会系(鉄の檻を茶化す笑い=ユーモア)」。「自虐系」は、なんだか後味の悪さが残る。「社会系(=ユーモア)」は、なんだか爽やかな印象が残る。少しじっくり、その構造的な違いをおさらいしてみたい。(もちろんこれは「笑いのモデル」であって、両極の右左。現実はいつもグレー色である。それを前提に構造を考えてみる。)

 

「後味の悪さ」と「爽やかさ」の正体

「自虐系」はなんとなく後味が悪い。どうしてそう感じるのか、一瞬では説明できないのだけれども、その場にいる人が誰しも感じる感覚ではある。端的にそれは、「構造」と「動機」の問題である。ことばに出来なくても、ひとはその「構造」と「動機」を感じとる能力を持つ。(これが「霊感」であろうか)

まず「構造」。「自虐系」の場合、捉えている世界が「物理的に見えている範囲」のみでとても狭い。今そこにいる集団を全集合として暗に前提している。その中で、自分のポジションを下げることで、しかも、ネタはその集団でのみ通用するもので、笑いを誘う。だから必然的に「動機」も浅ましいものとならざるをえない。要は、自分の安心・安全のための笑いなのである。手っ取り早く「自分」を蔑むことでその集団における自分の居場所を確保しようとする。ゆえに、地道な努力を必要としない、インスタントな笑いである。「自虐ネタ」を多用する人は、集団でのポジションが大概、低く据え置かれる。尊敬というよりおもちゃ、よくてマスコット。時に「笑い」は「苦笑」になってしまう理由である。

一方、ユーモアは、爽やかな感触が後味として残る。それは、構造的には、物理的に見えている集団ではなく、その集団そのものが置かれているプラットフォーム全体を指し示していること、そして、そのプラットフォームの存在そのものを茶化すことで皆をリラックスさせようとする動機が働いているからに他ならない。私的な動機ではなく公的なメッセージが隠れている。周囲の人々は、それを暗に感じとる。結果的に、世間という名の集団でのポジションも尊敬や敬意となって現れてくる。アメリカなどでは、ユーモアの巧拙が大統領選挙の勝敗を握るともいわれるほど。それくらい社会における地位を左右する。

 

(大阪などでは「自虐ネタ系」を駆使できない奴は「いけ好かないやつ」というレッテルが張られるように見えるが、私の見るところ「自虐系」とは微妙に異なる。「大阪系」はその人の胆力を試すもの。自分を蔑むのではなく、チームへの加入儀礼に見えるのだが・・・このあたりは、もっと考えてみる必要がありそうである)

 

公(おおやけ)=他者性を意識しているか否か

日本人は総じて「自虐系」を操るケースが多いように見える。欧米では「自虐系」は軽蔑の対象である。もう少し深堀りしてみよう。

それは、その人がどんな風に普段、社会を見ているかにかかっている。その人の視線にはいつも何が見えているのか。その範囲・大きさが最大の問題である。その人の視野が常に社会全体、世間が乗っかっているプラットフォームを意識しているのなら、会話も自然と「社会系」になる。そこに健全な「動機」が育ってくると、思考は戦略的・仮説的になってくるのだろう。日本でもどこでも、世界中で嫌われる「知識ひけらかし系」というのではなく、品よく教養を伝えることもできる。(自虐しつつ横文字専門用語を多用する典型的マウント型という最悪のケースとは決定的に違うことに注意したい)

まとめて言うと、「公的な貢献」を自分の生きるミッションにしているか、ということであろう。携わる仕事が公(おおやけ)を前提に考えられているかどうか。そこに、「自分だけ」ではなく「他者の人生」をどれほど包摂しているか?世間ではない。社会を意識できているか、であろう。

 

憲法(=社会構造・建付け)の理解の有無に行きつく

うちの社員ならもう気が付いていると思うが、これは憲法を理解しているかどうか問題でもある。憲法の条文ではない、憲法というものの歴史的生成過程、そして、その社会的な機能である。

他者性を備える人は、「建付け」ということばを多用する。それは、構造化された近代社会が仕事の前提になっているからであろう。構造化された近代社会を抜きには、仕事での成果はなにも語れない、それが、私たち近代人が置かれた前提である。「仮説」を実現しようと懸命になる時も同様である。ぶつかる壁は、必ず構造化されている。その構造を語り、その構造の変え方を語ることになる。それが近代社会における公(おおやけ)を意識した仕事の作法である。

その意識が「笑い」の質をも左右する。

 

日本人には公(おおやけ)という概念が存在しない

社会学的にいうと、日本人には「公(おおやけ)」という概念が存在しないということになる。社会学者宮台真司さんがよく説明されていることである。テレビや新聞を中心とした巨大マスコミの報道が、目的がはっきりしない意味不明な数字やグラフしか使わないのも、政府がコロナ対策をうまくできないのも、この公の欠如が原因である、と。

当然、笑いは「自虐系」である。

公を抱く人間なら「全体の目的」を忘れないはずであるが、部分にこだわってワクチン一つ打てない政府。医師会の利権を犯す、ただその一点のみの理由で意思決定すらできない。(医者は36万人。注射を打つ資格は医者が独占する。それを歯医者にまで拡大しようとしたら医師会が反対した。注射は医者の権利だそうである。歯医者は10万人いるのである。世界では整形外科医や看護師もバンバン注射を打っている。それでアメリカでは1日100万人を達成。すでに累計1億人に達する。)

選挙に受かってどんな公的なことをしようとするのか?その意識がないのだろう。受かることが目的である。日本はこのままだと、ワクチンを全国民に打ち切るのに10年はかかる計算である。その陰で、貴重な起業家精神は潰されていく。マスコミは政府を批判しない。計算すればわかるものを、NHKも「今日は何人打ちました」と努力した様子のみをアピールする。責任を果たすという意識がない。すなわち、公(おおやけ)の欠如である。

それでいて、国民は、「菅さんは悪い人ではない」という。

「ワクチン接種、始まったんですってね」と、「今日は天気いいですね」みたいな話し方をする。

まったくどうかしている。

私は思う。全体を掴めず、結果的かもしれないが、人々に害悪を及ぼす無邪気な善意を持つよりも、悪意で人を貶める方がマシである、と。「ろくに考えない善人」より、「論理的に考え抜く悪人」の方がマシである。社会にとっては有益ですらある。論理的であれば悪事を働いたとしても対処のしようがあるのである。それで社会は学習し改善する。善意であっても、論理的ではない人間がいる場合には、対抗する術は存在しない。

日本の最大の問題は、「無邪気な善意」を盾に勉強しない国民が圧倒的に多いことである。

 

「自虐系」集団からは、そっと離れよう

話しを戻そう。

でも、こう思うかもしれない。自分の周りには「自虐系」を善しとする人しかいない、と。確かにその確率は高い。なぜなら、日本社会全体が、いまや「自虐系」そのものだからである。大正デモクラシーの頃に芽生えていた「他者性」は今や遠い過去。政治家のほとんども「自虐系」に成り下がる。というより、「自虐系」でなければ、今や、公的な職には着けなくなってしまった。政治家も、政府の専門家委員会も、テレビのコメンテーターも、同様である。そんな中、「自虐系」集団(世間)から離れるのは至難の業かもしれない。しかし、「自虐系」会話が自分に染みついている間は、自分に自信を持つことなどできはしない。動機は、次の動機を育て、時間と共にその人の性格を規定していってしまう。やがてそれは強固な自我となり、人格という鎧となる。人間は、周囲から影響を受ける動物なのである。

 

もしも「カッコいいオヤジ」になりたいのなら、「聡明なオトナの女性」に憧れるのなら、自虐系集団とは距離を取ろう。それが、かっこいい自分をつくる最低限の方法だと思う。そして、ひいてはそれが、日本社会全体のためになる作法なのではないか。

 

「笑い」を分析する過程でいろいろなものが見えてきた気がする。

皆さんはどう感じただろうか。