勇気は何に宿るのだろうか?

勇気は何に宿るのだろうか?

強い人というのは「強くなってしまっている」のである

社会には強い人と弱い人がいるように見える。今の日本でも多くの引きこもり(一説では500万人ともいわれる)を生んでしまうその一方で、批判や中傷をもろともせず正義のために邁進する勇気の人がいる。一般に「強い人」というのは、どうして強くなれるのだろうか。それは生まれつきか?それともほかに何か理由があるのだろうか。その強さの源はどこから来るのだろうか?

論理思考だけではないだろう。論理には必ず穴があるのだから。パラドクス問題は数千年前、ソクラテスの時代から指摘されているのだから。もともと強いDNAを持っているということでもないだろう。人間のDNAはチンパンジーとほとんど変わらない。人間同士ならなおさら。そこに、見た目や行動ほどの違いはない。頭がいい人が強いということでもない。本当に心臓に毛が生えている人がいるわけでもない。ではどうしてか?

極論、強い人というのは、他者からの承認を全身に受けているのだ。ある一定以上の精神共同体に支持されているといってもいい。その共同体の歴史を含めた分厚い他者に強く支えられている。つまり、同胞の意識の集まりが、ある一人の人を「強い人間」として現象させ、押し出しているのだ。その人は、単独で強くあろうと念じているというよりむしろ、ある精神的な紐帯をこそ強く感じてしまい、強く「なってしまって」いる、のではないだろうか。

 

社会に硬い岩盤は存在しない

そもそも人間社会は、思い込みで出来上がっている。正しさの座標軸など存在しない。誰か頭のいい人がどこかで世界を操っているわけでもない。昨今のコロナの事例を思い浮かべればそれはわかるだろう。コロナ以前の世界とコロナ後の世界で、社会はガラリと変わってしまった。多くの人々があることを思えば、この社会は一気に変わってしまう、そうした事例を私たちは目撃した。それによって巨大なメカニズムである世界経済も動いた。この社会で一番強いのは、政府や巨大企業ではなく、人間の群れである「消費者」であることを知った。なぜなら、あれだけの巨大グローバル企業であったボーイング(世界の航空機の半数を生産している)が、皆が飛行機に乗らなくなっただけで、一瞬で倒産(実質という意味)したのだから。

政府もそれほど正しくないということを知らしめさせた。あのアメリカ政府でさえ、コロナで苦しむ人々を前に右往左往するだけであった。準備など何もできていなかったに等しい。うまくいったかに見える台湾やニュージーランドの政府でさえ、必死に対応したにすぎない。はなから正解を知っていたわけではないだろう。この社会にはもともと、足場となる硬い岩盤があるわけではない。正解となる知識が蓄積されているわけでもない。どんなに高名な学者や政治家、経営者だって、正しい知識をストックしているというわけではないのである。論理的に整理された「正解」としての知識を、コンピュータの如くインストールしているわけではないのである。だから、どんな人間でも、その人を、「こうした人」というラベルを張ってわかった気になっても仕方ないし、それこそ、それでは何も分かったことにはならないのである。人間にもともと備わる資質など存在しない。普段私たちが目にするごとく、変わらない何か確固としたものが、強く見える人間に備わっているわけではないのである。少なくとも、正義や社会性の観念は、生まれたときには白紙(タブララサ)なのではないだろうか。

 

正しさは作り続けなければならない

哲学的にいまだ決着のつかない議論があるのも承知している。自然科学系の研究者はなおさら、私の議論に賛同できないかもしれない。しかし、私は実用主義者、実際主義者だ。観念だけを操って生活している学者ではない。事実、眼の前のこの社会が、この組織が、そして、私の大切なこの人々が、幸福であるかどうかが最も重要だと思う。300年後に責任は持てない。それは傲慢というものでしかないと思う。自身が創業したこの組織が、善き組織として健全に今の社会に埋め込まれ、支持される資質を持っているかどうか、それが重要なのである。組織を通じて、私は善き社会に貢献する。

ドラッカーはそうした私のような態度を推奨してくれる。マーケティングとイノベーションという言葉で経営というものの使命を定義している。売上や利益は、善きことを社会に行った結果生まれるものでしかない、とする。もちろん短期的なそれだけではなく、長期的な業績もバランスさせてこそ、である。業績は基本、社会からの支持である。

社会に底がある、正しさの座標軸があると考えるとそれは、ヒトラーを生んだ啓蒙主義の芽を育んでしまうとドラッカーは、その処女作『経済人の終わり』で言う。人々は正しいイデオロギーを探しがちだが、それも危うい。『自由からの逃走(エーリッヒ・フロム著)』が、ひとびとの本性かもしれないが、そうしてすがった社会の「底」や「座標」は、必ず私たちを裏切り、踏みにじってきた。ここ日本においても、つい80年前、正しいと信じた社会の「底」は、実は見事に抜けていたのである。その「底」を支持した大手新聞社も実は、その「底」を目で見ていたわけではないだろう。ただただ、そこにある、と思い込んでいただけである。社会は人々の思い込みでいとも簡単に動いてしまう。正しさは作り続けなければならない。

 

勇気は共同体が生み出す「現象」である

人間は社会的生き物である。社会があるから個人が存在する。ゆえに社会の構造を描き、また、「弱さ」や愚かさを照射することで、逆にくっきりと「強さ」というものも見えてくる。

そう、「強さ」にも目に見える基盤など存在しない。そこに強い人間がいるのではない。そうではなく、多くの人々の集まりである精神共同体に支えられた個人が、その共同体が抱く正義を一心に集め「現象」しているのでしかないのだ。強さを生み出すメカニズムがそこに存在しているだけなのである。こう考えると、実に多くの示唆を私たちに与えてくれる気がする。肌感覚に近い形で人間というものが描ける、そんなリアルな感触が手に入る。勇気は人間の思いが生み出すメカニズムである。