「勉強は自分のためにするもの」という罪深い勘違い

「勉強は自分のためにするもの」という罪深い勘違い

近代では「勉強は自分の将来を豊かにするためにする」のではない

今の日本社会において、これほどの「罪深い意識」は他にないのではないか。それが「勉強は自分の将来を豊かにするためにするのだ!」という意識である。世界でも珍しい。日本固有の現象である。近代社会において「勉強」とは社会のためにするものである。自分自身が勉強して知識や知恵をつけることは決して自分のためなどではない。すべて、社会のため、民主主義の世の中をよくするため、近代社会の生成・発展のために必要だからである。

欧米先進国では子供の義務教育でも高校・大学・大学院の高等教育も「自分の将来のためにする」という感覚はない。もちろん、そう思っている人はいるだろう。しかし、そう思うことは「恥ずかしいこと」という社会的な合意が形成されている。もちろんグウタラな奴はいる。むしろ日本より多い。言いたいのは、そこに規範意識があるかどうかである。

自分が勉強するのは「自分のため」という規範が存在するのか、「社会のため」という規範が存在するのか。そこを純粋に比較するべきである。日本では明らかに勉強は「自分のため」であって「社会のため」ではない。でも、「社会のために自分が勉強しなければならない。それが巡り巡って自分の大切な人の人生を豊かにする。子々孫々のためになる」という規範意識こそがデモクラシー社会を育てる基盤となる。それが近代社会におけるベーシックな公共心である。必要最低限の社会貢献なのである。それがデモクラシーを原理とする近代社会のメカニズムである。近代においては「自分が勉強すること」もメカニズムの一部である(勉強しないこともメカニズムに悪影響を与えるという意味で立派に一部ではあるが・・・)。

 

「わたしはもういい。大人だから。子供には将来のために・・・」???

でも、日本人にあるのは、「勉強は将来の自分の人生を豊かにするため」という意識である。でもこれはよく考えるとわかるのだが、とても浅ましい身勝手な意識である。それは「社会でいい座席を確保するためにする勉強」という意味以上にはなりえない。「いい学校・いい会社・いい人生」というやつである。とても浅ましい。社会貢献などどこにもない。公共心のカケラもない。でもこれが、日本ではスタンダード。小中学校の先生も、高校の先生も、大学教授でさえ、こう思っている。生徒にもこう教える。なんと悲しいことか。

「勉強しなさい!あなたのためなんだから。」

これで、やる気が起きるはずがないではないか。子供はみんな「アンパンマン」や「ウルトラマン」「セーラームーン」が大好きである。正義の味方が大好きである。でも、学校に上がるころには、それは忘れなければいけないこと、となる。それは漫画の世界でのお話し。現実社会はそんなに甘くない。

「それが社会というものです」。

これでは純粋な子供には、親や先生が偽善者に映る。尊敬などできない。ことばにはしない・できないかもしれないが、その深層心理には、大人社会に失望するメカニズムが形成される。あたりまえである。人間の心は常に、一貫性を求める。それは子供でも同じである。結果、たくさん「お勉強した」日本のエリートには「公(おおやけ)」の心がなくなっていく。学校秀才=浅ましい人、になる必然である。今の日本社会で東大にストレートで入って公共心や正義感が残っていたら、それはまさに奇跡である。

 

だから日本は教育費を税金で賄おう、という発想にならない。義務教育は一応、仕方ないけれど、その上は自分で稼いで払うのが当たり前でしょ、そう思っている。自分の将来のために学校に行くんだから、自分で払うのが当たり前(これが自己責任論の正体である)。そして、そうした子供が親になると、「子供の人生のために勉強させなければ!私は大人なんだからもういいわ。」となる。典型的な日本人母(父もそうか?)の発想である。子供の純粋な心はスポイルされ、社会的に植民地化されてしまう。ろくな大人は育たない。従順な意思のない「いい人」が大量生産されることになる。「母の愛は偉大で神聖なもの」、近代ではそんなことはないのである。

日本社会の一番深い場所にある恥部だと思う。

 

科学的思考がないから「勉強は社会のため」とならない

日本の学校には、先生にも親にも子供にも、

・なぜ勉強するのか?

・そもそもなんで苦しい勉強という努力をしなければならないのか?

・なぜ子供に努力を強要しなければならないのか?

・本を読むのはなぜか?

という問いだけがない。それはすでに「わかっていること」という無意識の前提が置かれている。だから、改めて問わない。そんなのあたりまえだろ?「自分のため」に決まってるだろ?と思っている。自分たちがいかに浅ましいか、それに気が付く「契機(=作為の契機)」がない。

それもこれも、「科学的思考(=Out Of Box=神の目)」の発想が社会にないからである。「3択問題もんだい」「ダブルループ」「状況の意味付け」「そもそもなんで?」「鳥の目」・・・なんと言ってもいいのだが、こうした俯瞰した視座が日本社会にはない。歴史的にないのである。

でも、だから、日本人はおとなになると勉強しなくなるのである。「自分のため」なんだから「自分がそれでいい」と思えばそれでいいではないか、そうした意識が生まれてしまう。そして、たいがいが「会社が勉強を強要するなんてウザい」となってしまう。その人が”いい人”であれば、「ありがたい。自分ではなかなか出来ないから、多少、強要してもらえるとありがたい・・・。」となるかもしれない。でも、”いい人”のその「ありがたい」も、一見、いいことのようだがそうではない。「勉強は社会のため、デモクラシーのため」そう思っていたら、「会社に勉強しろ、なんて言わせるのは恥ずかしい」としかならないはず。「首相こそ、日本人に向かって勉強するように促すべき」そうとしかならないはずである(スウェーデンの首相のように)。日本、いまだ、近代の作法が不在である。

 

科学的思考は、人間の公共心をも育てる

『痛快!憲法学』という本を使って社内で精読会を行ってきた。この本の趣旨は、デモクラシー・資本主義のエートス(=心の習慣)がどういうもので、どういう歴史的経緯で育ってきたのか、そして、それは今の社会(特に日本社会)にどんな影響を与えているのか、というものである。「なぜ勉強するのか?」という視点は、直接的には書かれていないが、本が寄って立つ理論的な枠組みを敷衍すると、先の結論が導かれる。日本にはやはり、まだ、デモクラシーは育っていない。日本、今だ、シオクラシー社会(神頼み・お上頼み)である。

日本人は科学的思考を頭で理解しようとしてしまう。しかし、科学的思考・発想というのは、その人の「在り方」そのものでしかない。いうなれば「存在形式」「生活様式」そのものである。だから、家族の「モノの見かた・考え方」にとても強い影響を受けてしまう。親のそれから逃れることなど、ほとんど不可能なのではないか、そう思えるほどである。しかし、である。本当に学びたいのなら、本当に、社会貢献したい、そうした人間になりたいのなら、「親という一番近しい世間」の呪縛から離れることであろう。精神的な親離れこそ、科学的思考・科学的アプローチを自らのものにする方法論・原理である。

私が言いたいのは、親を大事にするな、ということではない。その逆である。大事な親(または子供でもいい)を大切にするためにこそ、精神的な「親離れ・子離れ」が必要だ、ということである。「世間」という箱の外に出て、「神の目」で社会を眺める必要があるということである。居心地のよい「世間」の内側にいて、科学的思考は身に付きようがないのである。日本人は基本、「勉強は自分の人生のためにするもの」と思っている。もし、親が「100%の善意で」そう思っているとしたら、そして、それでもしかし、自分が科学的思考を身に着けて社会貢献的な仕事がしたいと思っているのなら、精神的な離脱は最低限必要である。

親や子供を大切にしたい、大事に思う、そうした「愛」も、メカニズムをはき違えると、とんでもない帰結を招いてしまう。それが近代社会なのである。

 

近代を理解しない日本人の公共心は間違っている。近代を理解しない日本人のボランティアは偽善である。科学的思考なき公共心は、偽善にならざるを得ないのである。「3択問題もんだい」を忘れた善意など、迷惑な話でしかないのである。それが近代社会というものである。

 

身につまされる日本人が多いのではないだろうか。

私もそうだった。

 

しかし、これが、善き近代社会を考えた時の論理的帰結である。

「近代社会」には「近代教育」が必須である。

近代社会では、個人が「勉強する」のは、社会のためである。

「勉強は正義のためにする」それが正しい理解である。

 

みなさんはどう思われただろうか。