論理や数字を使うこと、それは「砂に線を引く」行為_科学的思考❾
分析(科学的思考)とは「砂に線を引く」行為
砂に線を引くとどうなるか。時間と共に、その線は消えてなくなってしまうだろう。風が吹けば儚さに拍車がかかる。線は一時的、刹那に浮かぶ輪郭である。科学的にものごとを考えていくというのは、砂に線を書いて仕分けていくようなものである。科学的思考とは、あくまで便宜的、その場を考えやすくするための方法論でしかない。科学が真理だというのは事実に反する。世界の真理・摂理は、決して二元論の範疇にはない。
モデルを抽出していく際に使う「分析」とは、「あえてする」方法論であり、それで真理がわかるということではない。この世界は、巨大で複雑であり、また、一時も同じ形を保つことはない。人間が一気に見通せるようなものではないのである。しかも、常に変化の中にある。しかし、そうした世界をできるだけ捉えたいと思い、いったん静止画のように仮定して、小分けにして考えようとしたのが「分析」であり、科学的思考である。世界をありのまま、そのままの形で捉えることなど出来ないからである。
ゆえに、分けて考える、つまり、分節(=直和分解=分析)そのものが本来、ムリスジなのである。なかなかうまく線が引けないとき、そのことを思い出すべきであろう。線はあくまで便宜的な行為である。分析を、気軽な道具として使いたい。
分けられない・分けにくい「場所」にこそ
変動損益計算書を考えてみる。管理会計の現場で頻繁に起こる現象がある。販売費および一般管理費を事業別に配布する場面、必ず割り切れないものにぶつかる。総務の費用はどちらにどれだけ割り振ったらいいのか。電気代はどうか。経営陣の人件費はどうやって割り振ればいいのだろうか。答えは一向に出ない。
また、マーケティングのセグメンテーションの現場。商品市場をグルーピングする場合、その商品がどちらの市場に属すると考えるべきか迷うことがある。ソファベッドは、ベッドなのか、ソファなのか。これは大物商品なのか、中もの商品なのか。いつまででも考えていられる。
実はそんな、分けにくいという現象にこそ、真理は隠れているのである。分析作業をしていると忘れがちではあるが、先にも言った通り、この世界は実は分けて考えられない。この世はすべてつながっているのである。真理・摂理は、そちらの方にこそある。
だから、分けられない・分けにくい場所にぶつかったとき、その時が、本質的な理解を進めるチャンスである。思考を止めてやみくもに分けることばかりを考えてはいけない。分けることばかりに執着して、いつまでも無駄な時間を過ごしてはいけない。その時、ちょっと立ち止まる勇気が欲しい。立ち止まって、自分の立ち位置を俯瞰してみる。そっと、箱の外に出てあげる。それが世界の真理に触れるコツである。
「科学的成果(分節された要素)」はコミュニケーションの道具である
分けて考える、という要素還元主義を基本とする科学的思考方法は、あくまで世界を記述するひとつの方法論である。すべての方法論を包含する手段ではない。科学的表現も一種の表現である。その意味では、文学的な表現とレイヤーは変わらない。ただし、世界共通の言語である数字を使用していることから、どんな言語を使う地域でも通用するということである。数学はいわばエスペラント語のような役割を果たす。ゆえに、翻訳よりわかりやすい。世界共通の言語なのである。
科学の言語が文学よりも、厳密だというのでもない。真理や摂理を的確に表現しているわけでもない。そうではなく、「他者との認識の一致に優れている」、そういうことである。人間同士の認識は、決して一致することはないことが知られている。でも、認識の一致を見ないと近代社会での共同作業は完成しない。認識の一致感は、共同作業に必須の条件である。
人間の実存を考えた場合も、科学的思考は有効である。究極、自分自身が他者にわかってもらえているかどうかは、結局のところ確認できない。せいぜい、他者のあからさまな承認を目撃するしか術はない。「拍手」や「いいね」くらいしか承認を確認する術もない。数字やモデルは、そうした側面にも重宝なのである。シニフィアン(音)とシニフィエ(意味)の乖離が少ないため、誤解の起こる余地が少ない。世界の真理を表現しているかどうか、というよりむしろ、こちらの方に重点があるのである。「論理」も同じ理屈である。中世では、世界の人口はほとんど増えなかったらしい。しかし、科学的思考が近代を切り開き、人口は爆発的に増加していった。それは、私たちが共通言語をこしらえたからに相違ない。複数の人間がひとつの目標に向かって働くことが可能になり、多くの仕事をこなせるようになったのである。
カイシャの「数字」も共同作業のためにある
協働で仕事をするときにはコミュニケーションをスムーズにすることがとても重要である。それは誰しも経験したことがある事実であろう。日本人は、話せばわかる、話をしすぎて悪くなるということはない、と言うけれど、本当にそうなのだろうか。私はそうは思わない。「いくら話しても通じないモノは通じない」、のではないだろうか。日常使う言語など、いざというときには役に立たないことが多いものである。しかし、数字ならそんなことはない。線を引いたそのカタチが、いつまでもいつまでも残るのである。場所や時間を超えて、他者とのコミュニケーションがしやすい。それが数字というものの特徴である。
「数字が苦手」という人も多い。私たちの会社でもそうだった。しかし、中期経営計画合宿でそれはかなり緩和された。それは、常に、数字の裏のストーリー(現場の活動)を想像するように促したからであろう。数字は所詮、世界を表現する一手段に過ぎない。世界の真理を現わす唯一の言語でもない。真理はむしろ、文学的表現の方にあるかもしれない。要は、数字を「神」の位置に置かないことである。そうではなく、数字から見えてくる「未来」への「いける感」の方をこそ考えるべきである。それを合宿の現場では中心に据えたつもりである。
数字を代表とする「論理的コミュニケーション」は、本質的に「砂に線を引く」行為でしかない。だからこそ、その線が出来るだけ消えないように、私たちは数字という「仕切り版」を使うのである。そうすることで世界は一瞬、止まったように感じることが出来る。複雑な現象も、単純明快な物語りとして私たちの目の前に浮かび上がるのである。
論理を「神」とした功利主義が大量虐殺を正当化したのである
論理(数字)は、あくまで世界を知るための道具である。それは真理ではない。それを真理と勘違いしたのが19世紀・20世紀の侵略の原理であることを知ってほしい。
功利主義とは簡単に言うと「終わりよければすべてよし」という発想である。最大多数の最大幸福とも表現される。これは使い方によっては正当性を調達できる考え方ではあるが、使い方を間違えるととんでもないことになるのである。最大多数の幸福を達成するためなら、一部の犠牲はやむを得ないではないか、という自分勝手な考え方を正当化する。西洋諸国が他国を侵略していった思想的背景には、この功利主義が根強く存在していたのである。東京大空襲、原爆投下もこの理屈で正当化された。そして、現在も、金融工学などを駆使するウォール街的な思想に通奏低音のように響いている。
功利主義も一面の正義ではあるのだろう。全体を考える発想がなければ、この世界は「タダ乗り野郎」ばかりになってしまう。日本人には功利主義を学んだ方がよさそうな人も多い。しかし、思想はイデオロギーになった瞬間に害を及ぼすものである。それに執着し、崇拝する対象になった瞬間に、周りが見えなくなるのも人間であろう。それは歴史が嫌というほど証明してくれている。思考停止がやはり最大の罪である。
それでも「論理」や「数字」を道具として使うこと
数字を恐れることはない。論理思考など便宜的なモノである。それは「砂に線を引く」行為でしかない。しかし、現実を改革するとても有効な道具でもある。コミュニケーションをスムーズにし、未来を見えやすくする有効な道具でもある。
大事なのは、数字の裏側にある物語りを見逃さないことであろう。論理や数字を道具として使いこなしながらも、詩的・文学的な英知も忘れないことであろう。哲学などにも数学同様4000年の歴史がある。詩や文学も同様である。どちらも人類の英知を運んでくれている。
そう考えると、数字も広い意味でことばであることがわかる。私たち近代人は、数字を恐れることなくコミュニケーションの有効な道具として使いたいものである。