世間の意見をいいとこ取りする「立派な」人々_科学的思考❽

世間の意見をいいとこ取りする「立派な」人々_科学的思考❽

日本人の心に巣食う科学的思考を阻害する典型的な在り方

この人は、界隈では「立派な」人として通っている紳士であった。有名な大学を出て、新卒で大企業に入社し身なりも「ちゃんと」しており、日本社会の座席的には上層階に位置する人である。喋り方にも落ち着きがあり、いわゆる信頼されている人であった。私の古い知り合いである。この人と、ある時、ある企業の買収ニュースについて意見を交換しようとした際の一言である。私曰く、「この会社の合併劇、どう思いますか?私は違和感があるのですよね。ニュースで言われている理由ではない別の理由が裏にあるような気がするんです。そもそも、この合併は合理的ではないように思うのです。だって、似たような業態に思えるけど本質は全く違うんですから。2つの会社が一緒になっても相乗効果など見込めないと思うのです・・・どう思いますか?」その時、その「立派な」人が言った一言である。曰く「もうすぐ新聞などで意見が出揃うと思うので、それを見てから考えます。」私は開いた口がふさがらなかった・・・。その人は「世間の意見が自分の意見」、そう思って露ほども疑っていないようだった。

でも、これは私たち日本人の心の中に巣食う典型的な「在り方・存在の様式」なのである。心当たりがある人も多いのではないか。いや、むしろ、良心のある日本人なら大概はこうなるのであろう。日本の「世間体社会」で仲良く暮らそうと思ったら、原理的にはこうならざるを得ない。しかし、この心の在り方そのものが、私たちを「科学的思考」から遠ざけ、自分の頭で考えるチャンスを奪っているのである。幼き頃からこうした心の在り方を社会全体から学ばされる日本人は、大人になるとより巧妙に世間に溶け込む方法を学ぶ。「他者に迷惑をかけないこと・世間から非難されないように暮らすこと」が至上命題である日本社会で、手っ取り早く「低い評価から自分を守る」最高の知恵なのである。いわゆる「頭のいい人」が辿る帰結である。

日本社会では、自分独自の見解だけは持ってはいけないのである。意見は日経新聞を読んでよさそうなものを選ぶ。「日経は教科書みたいなもの」、まじめな顔でそう言う人もいた。恥ずかしいことである。

 

「何が悪いのかわからない」という人のために

家族親戚と平和に過ごしているだけなら問題ないだろう。または、今が中世社会、日本で言うなら江戸時代で鎖国の世であるのなら全く問題はないだろう。もっと言えば、世界が日本のような「世間体社会」ならこうした振る舞いはむしろ賞賛されるべきものではある。近代が開かれる以前、世界中の社会はこうした振る舞いこそが求められていた。マックスウェーバーが言うところの「伝統主義」である。ヨーロッパ諸国でもギルドなどの職業協同組合がカトリック的宗教意識と結びつき連帯をしていたのである。今の大企業の労働者意識と近いものがあったのである。その内側にいると「何が悪いのか?」としか思わないだろう。

問題は、「箱の外」から眺めた景色がないことである。経済全体、日本社会全体、世界の中の日本、という視座を持った途端、こうした態度は「罪」以外の何物でもなくなってしまうのである。いわゆるスティーブ・ジョブズのいう「Out Of Box」「Think Different!」に反しているのである。イノベーションとは対極にある存在様式だといえる。

それでも百歩譲って、うまくいっているときは「打って一丸」となるからいいのかもしれない。それで成功できる時期も一瞬はあるかもしれない。しかし、やはり結局はうまくいかない。うまくいったとしたら単なる偶然である。それは、今の時代が「作為の契機」を基本原理とする近代社会だからである。「箱の外」に出る視線(=神の目)で作り上げられたメカニズム一貫性を原理とする近代社会であるからである。近代は「神の目」が富を生む。私たちの生活水準は、「箱の外」からの視線が生み出すのである。それをジョブズはイノベーションの根本原理として説明したのである。ドラッカーもまた同じことをいう。

近代社会においては、時折り、心地よい「箱の中」から出る必要がある。

 

あなたが見ているのは「世間」なのか「社会」なのか

日本は今だ「社会」より「世間」を重視する世の中である。「世間」とは、顔の見える範囲の人々から嫌われないようにすることが至上の価値であるようなメカニズムが働く世の中ということ。「社会」とは、全体のメカニズムを優先することで顔の見える範囲の人間関係をもうまく回そうとする世の中ということである。じっくり振り返ってみてほしい。あなたは無意識にどちらを重視しているか。多くの日本人は「世間」をこそ重視する。進学先を選ぶときや、就職先を選ぶときに、親や親戚などの顔を思い浮かべて「なんて言われるかな?」と想像することで決断する人は、明らかに「世間」を重視する典型的な日本人だと思って間違いない。「世間」の中においては、自分の意見を持つと嫌われる。

「もうすぐ世の中の意見が出揃うと思うので、そうしたら、自分の意見を固めますよ。」というのは、「世間」をよく眺めた発言であることが、これでわかるだろうか。典型的な「立派で」「頭のいい」日本人は、こうした態度を無意識に取ってしまう。この呪縛から逃れるためには、単なる努力ではどうしようもない。自分が居心地の良い「箱の中」にいることに気が付かなければどうしようもない。

これが「科学的思考」を困難にしている最大の要因である。

 

科学的思考は「自分の」意見を持つための方法論である

「科学的思考」とは、世の中にオーソライズされた意見・知識を吸収しようとすることではない。「立派な」人々にありがちな、世間体を気にする思考方法とは真逆の在り方である。世間という名の「箱の中」から出ること。それが科学的思考の契機となる。

つまり、科学的思考の基本作法は「Out Of Box(箱の外)」である。ジョブズのいう「Think Different!(人と違うことを考えよ)」の「違うこと」とは、「何かいいことないかなぁ」的に代替策を探すような思考ではなく、「常識・思い込み・世間」という自分の潜在的な「思考枠組みの箱から外に出る」ことを意味するのである。進路を決めるとき・重大な決断をするとき、親や親戚の顔など思い浮かべない思考方法である。そうして初めて、自分の意見を持てる心の準備が整い始める。学習しようというモチベーションが生まれるのである。「社会は自分の手で変えられる」、初めてそう思うことが出来るようになる。

「箱の中」にいる人間にとっては、世の中を変えることは「悪いこと」、独自の意見を持つことは「罪なこと」、そう感じる内的メカニズムが働く。

 

「箱の中」にいると「学習の生産性が落ちる」か、「マウントのために暗記に邁進するか」になってしまう

私たちの心はひとつのメカニズムである。「論理思考が苦手」と自身を評価する人でも、必ず、全体では論理一貫性が保たれている。私たちはランダムには耐えられない生命である。私たちは、「太陽が西から昇る」ような事態には耐えられない。同じ理由で、自分の感情や癖、存在の在り方というものと、真の「動機」もつながっているのである。論理一貫性を保ちながら、説明可能な側面を有してつながっている(もちろん、複雑すぎて実際には説明することはかなり困難ではある)。

もし、あなたが、先ほどのわたしの知人のように、「もうすぐ世の中の意見が出揃うと思うので、そうしたら、自分の意見を固めますよ。」という言説に共感できるなら、あなたは「箱の中」にいる可能性が高い。精神的な安全を確保しているつもりでいながら、近代社会では、実はかなり危険な在り方である。イノベーションをその活動原理とする近代において、イノベーションに背を向ける「箱の中」思考は、「生産性を落としてしまう」か、「座席争いのための学習」という浅ましいマウントにならざるをえない。論理一貫性を保って考えるとそうした結論が出てきてしまう。恐ろしい論理的帰結である。

働けば働くほどに消耗していくのも、「箱の中」にいる人の特徴である。本当は、仕事はすればするほど元気なるはず。それが近代の「神の目」である。自分がなんでもできるような気がしてきて楽しくなるはず。それがないなら、あなたは「箱の中」にいる典型的日本人である確率が高いだろう。

 

「自分の意見を持とう」と力むより、爽やかに「箱の外」に出よう

では、どうすればいいというのか。今日から、臥薪嘗胆・粉骨砕身、気合で本を読め、とでもいうのか。それなら、自分には出来そうもない・・・。

そうではない。「力んで出るのは○○○だけ」、そんなに力を入れても長続きはしない。そうではなく、逆に、自分を縛っている「世間」という呪縛を手放し、「箱の外」に出てみることである。コツは「親や親戚の顔を思い浮かべないこと」である。なんだそんなこと?と思うかもしれないが、そんなことである。「箱の外」とは「世間」の外。それは「親や親戚関係」の外ということと等しい場合がほとんどである。妻や夫や恋人ではない。親や親戚である。妻や夫や恋人は、日本人にとっては「社会」である。ゆえに、精神的にはもともと「箱の外」。そうした傾向が今だ根強い。グローバル化やIT化に直面して、不安な気持ちでいっぱいの日本人像である。

 

まずは、実家から出てみることであろう。一人暮らしをおススメしたい。大人になってしまったひと、結婚している人などは、精神的な一人暮らしをすることである。一人の時間を大切にすることである。テレビなど見るのではなく(最近はYouTubeか?)、音楽も一時的に止め、スマホも手にせず、ただ、一人の時間を楽しむ。過去を振り返り、自分の真の動機に思いを馳せるのである。そして、素直に、素直に、もうひとりの自分との対話を楽しむ。論理一貫性に気を付けながら(=自分に言い訳しないこと)、ゆっくり振り返るといいと思う。自分固有の意見とは、そんな、精神的一人時間から生まれるのだと思う。

 

みんなで「精神的な実家」を出よう。それがすなわち「箱の外」に出ることである。それが自分の意見に自信を持ち、また、自分自身に自信を持つための第一歩になる。

 

皆さんはどう思われただろうか。