時代を捉え返す力をこそ_科学的思考❼(合宿報告⑥)

時代を捉え返す力をこそ_科学的思考❼(合宿報告⑥)

カイシャはもはや共同体にはなりえない、と言うけれど・・・

年功序列・終身雇用が崩壊していく中で、カイシャはかつての共同体的雰囲気を喪失していった、とはよく言われる言説である。「ブラック企業」や「正規・非正規」批判もすでに耳にタコである。日本はOECD先進国クラブですでに経済指標では下から2番目、メキシコの上。韓国にもすでに平均賃金で抜き去られたらしい。しかし、今だ、日本人には危機感が足りない、という。それはその通りなのだろう。しかし、いつもそこに処方箋はない。

実は誰しも、肌感覚ではこの日本の「おかしさ」に気が付いている。なんかヘン、な感覚はすでに一般の人々の間でも常識である。問題は、私たちのような経営者が新しいスタイルに踏み出せているかどうか、「上場のみ」「株主価値の最大化のみ」を目標に設定するような「近代の枠組の内側」的な発想に拘泥していないかどうか、それこそ重要なのではないか、そう思う。

「カイシャはすでに共同体ではない」、これまでの文脈ではその通りだろう。終身雇用や年功序列を復活させることは困難である。しかし、である、経営者自身が変化を受け入れれば、カイシャはまだ、未来への共同体としての役割を果たせるのではないか、そんな感触を私はこの合宿で手にした。中期経営計画というコーポレート・ファイナンス的視点の合宿の中で、社員を「取り換え可能な機能」として感じ取るのではなく、「なくてはならない唯一無二の存在」として光をあてられた気がするのである。社会メカニズムにこだわることで社員の実存が光った、それを目撃した。

 

日本社会では「作為の契機(科学的思考)」はご法度である

「カイシャ員」という立場は構造的に守られているがゆえに、目の前の問題に自分の能力を超えてまで立ち向かう動機がそもそもない。それは私たちの組織においても変わらない。日々、ぶつかる問題を、徹底的に解き明かそうとする努力を続けている「カイシャ員」などまず、いない。吐き気を催すような困難には怯んでしまう。しかし、何人かでチームを組み、問いを設計してあげさえすれば、ほとんどの社員が懸命に努力を始めるのである。自身の脳みそフル回転で、難問にチャレンジする。それをこの合宿は証明してくれた。

それはわたしたち日本人が、「作為の契機」不在の社会に生きていることと深く関係している。私たち日本人は、何かのきっかけがない限り、作為の契機(すなわち、「神の目」「Out Of Boxの視座」)を持つことが出来ない社会で暮らしている。日本社会では、作為の契機は、周囲の知人に疎まれる在り方になってしまっているのである。社員も同様である。決して、日本人の能力が劣っているのではない。作為の契機はご法度である、そういう社会に私たちは棲んでいる。

でも、組織全体を「そのように」設計すれば話は変わる。みんなで「科学的思考」を善とする空気を醸成していけば、論理思考を中心に据えた「空気読めない感」は一掃されるのである。合宿ではそれが証明された。日本人もみな、自分たちの棲む社会を自分の手で変えられると思いたいのである。その具体的な方法論を手にしたいのである。

 

「学習する力」とは「時代を捉え返す力」

この時代にカイシャが出来ることは、一人一人の社員に、この「時代を捉え返す力」を与えることではないだろうか。与えるというのが傲慢に聞こえるならば、その機会を提供すること、と言い直してもいい。会社の金と公式な時間を使って、社員に本質的な学習の機会を提供すること。それが、今の時代の最大の公的貢献になるに違いない。

なんども繰り返すが、「学習する力」とは「科学的思考」のことである。それは、対象を「神の目」で見る視座から生まれるモノであり、他者との協働行為を可能にする方法論である。慣れてくれば、一人で集中的に考えるより、誰かと議論しながら考えをすすめたほうが楽だということにも気が付く。モデルの使い方をマスターすれば、一人で考えるより、チームで議論したほうが生産性が上がるのである。

それは、科学的思考がモデルという道具を使うからこそである。何とはなしに考えているのではなく、モデルという公理を使って、対象をバラバラに分解しながら組み立て直していくからである。道具はチームで共有できる。ゆえにスピードも上がる。

 

近代社会はメカニズムが構造化したシロモノ

「近代社会」全体も、このモデルが作ったシロモノである。時代と共に複雑に絡み合っていくことになるのだが、基本構造は変わらない。どこの地域でも、「国民国家」「資本主義」「民主主義」という枠組みがその構造の原理である。

もちろん、そのモデルがうまくハマらないという場合も多い。いやむしろ、ハマっている国はないというべきか。それでもモデルは有効である。モデルをその極に置くことで、現状が認識可能になるのである。その差異を考えることで、他のものとの比較も初めて可能になる。

どの国にも、一応「憲法」なるものが存在することも象徴的である。憲法とは近代国家では「Constitution」という。その意味は、まさに「構造・建付け」である。近代社会では、その根本である法律そのものの名前からして「構造」なのである。合理的で、理屈で説明可能になっている。

 

プラットフォームを疑う力を!_近代そのものに掉さす力

ゆえに、目の前で起こる問題のほとんどは、この「構造」が引き起こすことになる。商品が売れるかどうか、お客様から問い合わせが来るかどうか、SEO対策に成功できるかどうかなど、すべて、近代社会の構造的問題が深くかかわっている。

日常、問題にぶつかると、すぐに解決しようとばかりに、焦って手を付けることが多いが、それは「科学的思考」を駆使した近代の作法とは程遠い。空気に支配される日本人は特に意識しなければならないのだが、問題は「世間」ではなく「社会」にあるのである。メカニズムとしての社会構造にこそ問題の根は隠れているのである。

野球の試合に勝つためには、その試合そのものに意識を集中させるのではなく、その試合そのものがのっかっている「野球盤」の方にこそ意識を向けること。敵チームのフォワードにクリスティアーノ・ロナウドがいることに目を奪われるのではなく、ルールそのものを変えられないのか?と思い返すこと。そう、プラットフォームそのものに考えを及ばせるのがコツである。近代社会の神の目は、人間社会のルールなど変えてもいいモノ、として私たちに提示したのである。敵にクリスティアーノ・ロナウドが出てくるのなら、こちらはフォワードを100人前に並べてあげることを考えることである。

 

科学的思考・科学的アプローチ方法とは、プラットフォームそのものに意識を向ける思考法である。物理的なモノではないので想像しにくいかもしれにないが、抽象的世界におけるプラットフォーム、それがモデルというものと理解したい。私たちは、多くのモデルの重なり合いの中で暮らしているのである。

 

誰しも時代を捉え返す力を得たいと思う。

それには科学的思考を身に着けること。科学的思考とは、その構造、私たちがのっかっているプラットフォームそのものを考えること。そう意識したいものである。