「科学的思考」とは「神の目」で現象を見ること_科学的思考❹
「科学」は「神の目」で現象を見ることから始まった
会社で行っている精読会の題材は『痛快!憲法学』(小室直樹著)である。現代思想・現代社会、そして、わたしたち現代人の心の習慣の成立ちの歴史を分かりやすく書いた本である。たくさんの本を読んできたが、私のおススメNo.1の本である。中学校の歴史の教科書は、即、この本に変更すべきである。日本全国の中学校・高校・大学が使うべき本である。社会がよくなること間違いない。(こんなことを書いても実際に読む人などいないことを知っているが・・・とても残念である:ただ実際、心ある学者・弁護士は使っている)
この本の趣旨は、今の日本の社会問題(その原理・原因となっている私たちの心の習慣)を科学的に解き明かすこと、と言っていい。キリスト教のプロテスタンティズムの心の習慣(=エートスという)をモデルに近代社会を完璧に説明し尽くしている。日本と世界の今(=課題)が透けて見える。
その第6章。ジョン・ロックの社会契約説の裏の主題が「科学的思考」の始まりについてなのである。ロックがやった思考手段は自然科学のそれに非常に似ていた。社会現象をその「事の始まり」まで思考シュミレーションし、原理=モデルを析出して見せた。目の前の現象をそのまま見るのではなく、その奥に隠れる原理=モデルを抽出した。「現象を抽象化して」考えたのである。そのモデルが社会契約説であるが、のちにその思想はアメリカを建国する。「モデル=原理=科学的思考は時空を超える」という最高の事例である。キリスト教プロテスタンティズムが民主主義・資本主義、そして、科学的思考方法に代表される近代社会を作り出したのである。それを余すことなく説明している。
仕事で成果を上げるには、よく、「もう一人の自分が自分を見ることだ」と言われるが、これは正確には「神の目」で目の前の現象を見ること、である。キリスト教の神が科学を生み出したのである。それが歴史的な事実である。
「神の目」で見ることが本当の「客観的思考」
よく会社の会議などで「客観的に言うと・・・」と前置きして意見を述べる人がいる。なんとなく「客観的」と言えば許されるような雰囲気が現代日本にはあるように感じるが、そこを正確に理解してみたい。「客観的」とは本来、「『神の目』で現象を見ると・・・」という意味である。神の目で見て、目の前の現象はこういうメカニズムで動いている!そういういい方(視座)である。科学は一神教の神が生み出したもの(日本の神様ではない!)。神という非合理が近代という合理を生んだ。歴史の皮肉である。
アメリカ人は「神の目」で見るのが得意である。それに比べ日本人は一神教的「神の目」という観念そのものがない。ゆえに、科学的思考がつとに苦手である。「主観・客観」という言葉の意味がよくわからない・・・
「神の視座」から「客観的に」に見るとメカニズムが見えてくる
「客観的思考」と「メカニズム思考」は同じものである。これは仏教の十二支縁起思想と同じ視座、諸行無常・諸法無我と同じ視座である。世界を、社会を、「神の目」から見る、世界を「無機質な機械の連関」のように見る視座である。神の目から見れば、人間の感情などどうでもよい。正確に言うと、神は私たち人間の感情をも自由にコントロールしているはずだ、そう考える思考法である。感情もほかの現象と同列で見るのである。それがプロテスタンティズムにおける「神の目」の本質である。
「神の目」から見れば、人間の感情すら神が意図したものに過ぎない。人間の意思も神の計画に過ぎない。意思は神がそう思うように仕向けたものである。となると、人間の感情はすべて「メカニズム」という発想が出てくる。なんだか味気ない気もするが、それが科学的思考を生んだのである。そして、社会を、上限を知らない発展にいざなった。それが良いことか悪いことかは別として、どんどん巨大化し複雑化していった。そして20世紀の中盤、「システム思考」というまとまった学問体系も生まれることになる。
「自分」も含んだメカニズムが見えてくる
「神の目」がないと、「自分の目」がとても大きなものに思えるだろう。自分の感情、それまでの経験・習慣がとても大事なものに思える。何かを判断する時も、たいてい過去の経験に沿って・・・となる。しかし、こうした思考パターンからは決して科学的思考は出てこない。そして、自分の気持ち(=私心)を外すことも叶わない。「客観的意見」を言うことは出来ないのである。
必然的に意見は自分の人格と同じ、という感受性がこびりつく。ゆえに討論は不可能となる。建設的「批判」も、個人攻撃の「非難」に聞こえてしまう。意見を戦わせて、よりよい解決策を生むことなど期待できない作法である。これが今の日本人の思考習慣であり、「非科学的思考」の典型的パターンである。
プロテスタントの「神の目」の特徴は、「神に何かを頼む」というものでは決してない。神に支配される、人間は神の道具、神の栄光を表すために人間は、私は存在するという思想である。日本人の思考とは180度真逆である。日本人は「神は人間を助けてなんぼ」そう思っている。だから、神の目というとすぐに「やさしいまなざし」を思浮かべることだろう。しかし、近代科学を生んだ「神の目」は違う。もっともっと厳しい目なのである。人間の感情など気にしていない。人間は神の道具である。人間は神が操るメカニズムの一部でしかないのである。極端な言い方を許してもらえるならば、人間を家畜の群れのように見る目である。
こうして初めて、「自分を含んだ全体」がメカニズムとして見えてくることだろう。自分の感情も含めて世界の一部だと感じるきっかけが生まれる。自分の感情を愛おしむ、非科学的な思考を突き放すことが出来る。
そうして「科学」は、急速に発展していくことになる。
まとめ
「主観」は伝統主義、今までの習慣に従って私心を大事にする判断につながる。一方「客観」は「神の目」。自分の感情をも外界のメカニズムの一部と捉えてその原理を見抜こうとする。どちらが真理なのだろうか。
その答えは、いまだに解き明かされていない、である。現代科学でもそれはよくわかっていない。
ひとつだけわかっていることは、両方とも捨てられない、ということである。人間はそんなに単純に出来上がっていない。
しかし、である。いいか悪いかは別として、その極の一方、「客観」に振り切って考えたからこそ「科学」は生まれたのである。世界は客観的に出来ている、そう「仮説」したからこそ急速に科学的思考方法が広がった。それは、人間の複雑さをいったん棚上げし、単純にそのモデルを考えたからこそである。その結果、分業が生まれ、協働も発達することになった。単純化するモデル思考=仮説思考とは、かくも威力のある「モノの見かた・考え方」であるのだ。
日本人にはあまり馴染みのない一神教的「神の目」という視座。
そして、それをやりやすくする「極を考える」という手法。
仕事をするうえで議論の土台にしてみてはどうだろうか。
きっと、何かが変わるはずである。