「科学的思考」を否定できるか_❸

「科学的思考」を否定できるか_❸

「科学的思考」は「勘」の20倍以上の労力がかかる

「科学的思考」は“やはり”面倒ではある。イチイチ要素還元的に分析(目的有効的に分解して、よきものとモデル・部分メカニズムを比較検討すること)しなければならない。仮に5つの要素に分解したら、勘でやるのに比べて「5の3倍」以上、すなわち15倍以上の労力がかかる。ざっと20倍だとして、勘でやると1日かかるとしたらおよそ20日。営業日換算するとまるまる1か月である。しかも、その集中力たるや「勘」の場合と比較にならないほど深い。それぞれを比較検討するのだから当然である。5つの要素それぞれが「何%大きいか小さいか」、「それはなぜか」。そして、それらすべてを時間軸に乗せて、未来を含むストーリーにまで仕上げるのである。淀みない文章にまで仕上げる。「根気!根性!」以外の何物でもない。脳みその消費量は20倍じゃとてもきかないだろう。おそらくその2倍。40倍の脳みその消費量となろう。怠惰な人にはできようもない。

だからこそ、「科学的思考」を「やる」か「やらない」か、はっきりさせたい。「科学的思考は果たして否定できるのか」、それを明確に考えてみたい。否定できないのなら、40倍大変でもやるしかないのである。誰しも「自分は誠実でありたい」と思うとして、自分や仲間の幸福のために40倍の大変な知的作業=「科学的思考」をやるかやらないか。それをはっきりさせてみたい。

 

「科学的思考」を否定するとは近代社会を否定すること

「科学的思考」は近代の産物である。つまり、我々が日々、享受している「安心・安全・便利・快適」を生む道具(思考方法)そのものである。「安心」は、将来不安がないこと。「安全」は、不当な暴力から守られていること。「便利」は、欲しいものがすぐに手に入ること。「快適」は、心地よい空気と湿度が保たれていること。ちょっと荒っぽいが仮にそう定義しよう。それぞれ何によって守られているのか。

「安心」は、救急車や消防車などの緊急対応の仕組み、年金制度などの社会保障制度、義務教育制度、はては民間の生命保険・医療保険までも含む社会制度などが担保してくれている。「安全」は、警察・検察・司法などの暴力装置を国家が法律に則って独占していることである。これで「ヤクザ」などの不当な暴力から私たちは守られている(ことになっている)。「便利」や「快適」は、端的に経済の発展に依存する。この社会に「株式会社」が多数存在することそのものが「便利・快適」を確実なものとしてくれている。自由主義経済の国であれば「衣・食・住・遊」のほとんどは民間の株式会社が、金銭と交換で提供してくれる(ことになっている)。

これらのすべてが、「科学的思考」によって運営されているのである。すなわち、複式簿記の「運転資金」を真ん中に置いて「目的合理的」にマネジメントされている。そして、運転資金の合理性では手に余る場合、公的機関が税金で運営することになる。近代社会は「科学的思考」によって、「安心・安全・便利・快適」を作り出す。

すなわち、「科学的思考」を否定するとは、この「安心・安全・便利・快適」をすべて、自分自身で調達しなければならないということである。「生きがい」などの前に、「生き残る」だけで日が暮れそうである。しかし、それもひとつの選択肢ではある。要は、自覚的に選んでいるかどうか、それが重要であろう。

 

「分業」と「協働」は私たちの「信頼」で成り立っている

少しく、近代社会の「原理」に目を転じる。「科学的思考」すなわち、近代社会が発展するとは、社会全体で「分業」が際限なく進み、そのそれぞれが「協働」することである。すなわち、それぞれの機能が、ひとつのメカニズムとして目的合理的に連関されている、ということである。その「原理」とはいったいなにか。それは、ひとりひとりの参加者が「知らない他者」を無条件で「信頼」することである。自分や仲間に危害を加えない、と明確な根拠なく信じること。それが、近代社会が成立するための「根拠=絶対的な必要条件=近代社会が効率よく回るための原理」である。

私たちは毎日、電車に乗って通勤・通学する。知らない人と空間を同じくする。これは、隣の人がいきなり襲ってこないことを「信頼」しているからである。私たちはレストランで食事する。これは知らない人が作った食べ物に毒が入っていないことを「信頼」しているのである。

これは突き詰めて考えると、わたしたちは多くの他者によって行われる「分業」と「協働」を信頼しているということにほかならない。みず知らずの他者を根拠なく「信頼」しているということに他ならない。「安心・安全・便利・快適」の裏には、こうした「信頼」の原理が隠れている。

 

ところで・・・最近流行の「陰謀論」は近代社会の否定

最近、トランプ大統領(いやもう元大統領か)の影響もあってアメリカ社会を中心に「陰謀論」が盛んである。もちろんこの「陰謀論」、“イルミナティ”などを考えても昔からあるのはある。でも、最近、どうも以前より盛り上げっているように見える。なぜなのか?

端的にそれは近代社会の成立条件である「信頼」が失われてきているからである。その社会を代表する「公人」に信頼感がない。日本で言えば政治家やジャーナリスト・マスコミ・学者・芸能人・経営者などの「有名人・著名人」に「論理一貫性」と「現実妥当性」を伴う発言・態度が希薄であるということである。特に罪深いのは時の政権担当者の言動である。日本の国会答弁や記者会見における首相や大臣の発言がめちゃくちゃであること。平たく言うと、何を言っているのかさっぱりわからないこと、その長年の積み重ねがこの社会から「信頼」を徐々に失わせてきたのである。アメリカではそれはトランプによって引き金がひかれた。

そもそも近代社会は底が抜けている。どういう意味かというと、社会メカニズムを支える「論理」に、「よって立つもの」などない、ということである。すべて、「仮説」に過ぎない。科学的知識も法律も制度も、すべて現実世界でその妥当性を絶えず確認する必要がある「仮説」にしか過ぎない。そこには目に見える確固とした岩盤はないのである。みんながそう「信じている」からそう回っているに過ぎない。

だから、「陰謀論」は「近代社会」が崩壊する予兆かもしれないのである。単なる流行やガス抜き程度なら問題ない。しかし、今のアメリカの「陰謀論」は、日本でもYouTubeなどで拡散されているようで、それに日本国の政府の信頼のなさが重なるとどううなるか、その帰結(行きつく先)は誰にも予想出来ないだろう。

もし「陰謀論」を支持するなら、あなたは同時に近代社会を否定していることに気が付かなければない。「安心・安全・便利・快適」などいらないと言っているに等しい。その覚悟があればそれはそれで立派な態度だと思うが、それ以外は単なるお調子者=タダ乗り野郎である。近代社会を謳歌しながら「陰謀論」を楽しむのは論理矛盾である。娯楽以上にしてしまったら、それは結構ヤバいことになる。

 

純粋な「思い」はどこに置けばいいのか

話しを戻す。

では、なんでもかんでも「科学的」に、つまり分析的・論理的に物事を進めなければならないのか。勘はいけないのか。根性論は死語なのか。分析以前的な純粋な「わたしの思い」はもういらないというのだろうか。近代は、絶対的に支持しなければならないのか。近代社会は100%の正義なのか。人間を幸福にしてくれるのか。

それはさすがに「否」である。

「科学的思考=目的合理」と「純粋な思い=価値合理」は論理的に直行する。つまり、同時には考えられない。そして、われわれ人間にはどちらも必要なのである。「安心・安全・便利・快適」も「生きている実感」も、どちらも捨てられない。どちらか一方を取る「いいとこどり」は許されない。たとえそこに一瞬、矛盾を感じようが、ふたつをバランスさせるしか私たちに生きる方法はない。「いいとこどり」は出来ないのである。

ではどうするか。

私は「近代という土台の上に純粋な思いを乗せる」または「純粋な思いを動機に科学的思考法を道具として駆使する」以外に方法はないのではないか、と思う。要は、両者をバランスさせる。両者の矛盾を知りながらバランスさせ続ける。それしか、責任ある大人として生きる術はないのではないか。どちらも捨てずに我慢すること。どちらかを完全に誰かに頼るのは卑怯であろう。「近代社会」は「機能」を「分業」させたが、「目的と価値」を分業させたわけではないだろう。「価値」だけ取る、または「目的」に埋没しそれに価値を感じる、両者とも、即、フリーライドである。

バランスの割合は、作業ベースで言うと7:3程度ではないか。近代という分析的・メカニズム思考的部分が70%、そして、その上に自由に、それぞれの「思い」、すなわち人生の意味・価値を乗っけることではないかと思う。しかし、これは私の経験値からくる勘である。そこに「科学的な」根拠は示せないのだが・・・みなさんの意見はどうだろうか。

 

今、はっきりわかるのは、どちらか一方に寄ってはダメだということ。それでは、社会を崩壊させる方向に圧力をかけていることになる。やはり、それは罪である。つまり、いくら「科学的思考」が環境を破壊しようと、イスラムとの衝突を引き起こそうと、それを全面的に否定することは出来ないということ。100%の賛美ではもちろんないが、だからといって「科学的思考」を投げ捨てることは、正義の観点からも決して出来ないということである(世界の半分は死ぬだろう)。

 

「科学的思考」を否定することはやはり出来そうもない。

われわれは根気強く、バランスを取りながら、われわれの社会を作り続けるしかなさそうである。