「作為」を心に宿す_「科学的思考」のためのレッスン_❷

「作為」を心に宿す_「科学的思考」のためのレッスン_❷

レッスン1:心に作為を宿す_「社会は自分が変えられる」と思うこと

レッスンその1は、「社会とは、自分が変えられる」と思うことである。この社会は人間が意図して作ったものであるから、人間がいかようにも変えられると思うことである。まずはそう強く思うことである。特に私たちが棲む近代社会は、そうした「作為の契機」を前提に作られた社会である。法律やルールも人間が作ったものであり、いくらでも修正できると考える。神の目から見れば、人間社会など間違いだらけであり「大そうなもの」などではない。ミスがあって当たり前。そう強く思うことから「科学的思考」は始まるのである。決して誰か偉い人が考えてくれる・くれている、と思ってはいけない。つまり、心に「作為(=意図・企て)」を宿すこと。それが、「科学的思考」を身に着ける第一歩である。

これがないと、そのあと何を思おうが、何を学ぼうが無駄である。すべての思考は無に帰する。どんな「いい本」も理解することはできない。まずは、自分が社会をどう捉えているか、社会を所与のものと考えてしまっていないか、内省することから始める。(上司は間違っていない、そう思うことも不作為の典型)

日本人は、この時点でいきなり挫折することが多い。それは日本人、そして、日本社会に「作為の契機」が不在だからである。それは有史以来、つまり、2000年も前から変わらぬ原理である。これは21世紀の今も相変わらず根強く残る日本人の性質である。日本人は、社会は、地形や天気と同じで与えられたものと考えてしまう。社会とは昔からそこにあったものと考えてしまう。まずは、そうした自分の思考の癖を自覚し、解除しなければならない。自分自身の思考の癖の相対化である。それが第一のレッスン。そして、最大重要なレッスンである。「社会は自分が変えられる」と思うこと。「社会を自分が変えよう」と思うこと。そして、その延長で「会社は、事業は、私が作るもの」そう思うこと、思ってみることである。

アメリカ人を代表とするアングロサクソンは、みな「社会は人間が変えられる」と思っている。これはキリスト教プロテスタンティズムの影響である。「神の下の平等」「内面における神との契約が最も重要」というプロテスタントの宗教改革以来のエートス(行動規範・心の習慣)である。生きる上で最も重要なのは「神との契約」であるから、人間同士の契約・約束は、論理一貫性さえ貫いていればいつでも変えられる、そう思っている。不都合があったらいつでも変えればいい、そう思っている。日本人とは180度違うのである。

ネットフリクスで人気の海外ドラマ『SUITS(スーツ)』で、主役のハーヴィーが宣誓下での偽証を最も嫌うのも「神との契約」を破ることを恐れるからである。または、見ている視聴者から、そうした振る舞いこそ「あたりまえ」と思われると作者が知っているからである。偽証(=神との約束を破ること)さえしないならば、ライバルをボコボコに論破することなどなんとも思っていない。事務所の同僚とも喧々諤々、論争してケロッとしている。人間同士の約束は神の上に来ることはない。人間の意見など、所詮は大したことなどない、そう心の底から思っているから激しい論争が可能になる。

俗社会に正解などあるわけがない。そう心の底から思っているのがアメリカ建国の精神である。アメリカ人は「作為」のカタマリのような人々である。それが「科学的思考」を可能にする心の習慣を生んだのである。「科学的思考」は宗教改革・プロテスタンティズム(予定説)の産物である。

 

レッスン2:社会はメカニズムで出来ていると考える

だからといって、どんなことでもしていい・言っていい、そう思っているわけではない。“何でもあり”となれば社会から秩序が消える。完全なる相対主義・陰謀論である。そうではない。そこには一定のルールがある。それが「論理一貫性」と「現実妥当性」である。近代社会が積み上げてきた、ひとつの大きな「物語り」を参照する。歴史を参照する。

近代社会に重奏低音のように流れるのは、「論理一貫性」という名の説得力と、人々の生活水準と幸福度を高められるかどうかの「現実妥当性」である。つまり、社会の刷新をリードするのは「神の目=メカニズム思考」そのものであり、その結果、近代社会は目的合理的にシステム化するのである。

始まりは、16世紀、17世紀ごろのキリスト教における宗教改革である。その根本教義を予定説という。人間は神の栄光を現わすための道具であり、自分がキリスト教を信じるのは神に「そうさせられた」からである、そう考えた。職業は天職であり、一心不乱に仕事に打ち込むことは隣人愛の実践である、そう考えた。最後の審判で救われるために行動的禁欲に浸りきる。お金を使わずに一心不乱に働くことでお金がみるみる溜まっていった。それが「目的合理性」のエートスに洗練されていく。複式簿記もここから発祥した。近代資本主義の発祥である。合理的精神の発祥である。神の存在(神の目)という「非合理」をエンジンに、世俗社会が徹底的に「合理」化されていった。

だから、基本、近代社会は目的合理的にシステム化されようとする。どこかに不合理なメカニズムが見つかれば、誰かが合理的なシステムに刷新しようと目論むことになる。それが近代社会である。

そうして社会は次第に複雑に、しかし、自動機械のように、勝手にぶん回るようになった。今や、近代社会はひとつの巨大なメカニズムである。

そもそも西洋の一部の人々が「メカニズムのモデルを抽出しようとする」ことで社会科学が成立した。そして、その社会は圧倒的に経済的・政治的に強かったので他の国々が次々真似したのである。

社会学・経済学・心理学などの社会科学も宗教改革以降の近代社会の成立とともに生まれた「メカニズム思考=神の目」による「体系=モデルの系(コロラリー)」である。人間社会そのものを「メカニズム」として見ようとする試みの蓄積である。「メカニズム思考=神の目」で社会の様々な現象をモデル化しようと考えたのである。

ゆえに、レッスンの第2は、社会をメカニズムとして捉えることである。近代社会はメカニズムであり、また、メカニズムであると人々が思うことによって発展を遂げてきた。相互作用のスパイラルである。

 

レッスン3:目的を設定する。現状を確認する。

社会は人間が作ったもので、ゆえに、自分の手で変えられると思うこと。そして、その社会は、完璧にわかるかどうかは置いておくとしても、一つの複雑なメカニズムであり、今も完成に向けて動いている、と考えること。それが「科学的思考」のための準備である。とっくりとイメージしてほしい。

ここから先はビジネスの教科書でもたくさん書かれていることである。そう、次は当然、あなたの意図を明確にすることである。あなたは今どうしたいのか。それを明確に決めること、それがレッスン3である。

平たく言うと、「こうしたい!」と具体的に描くこと。売上を100億円にしたい。給料を10倍にしたい。10年後出版社を経営したい。地元の高校で野球部の監督になり10年で甲子園に連れていきたい、など。できるだけ具体的な方がいい。数字も明確に使うほうがいい。

その上で、目的に沿って現状を整理する。事業であれば、事業部ごとのP/LB/SC/Fを作ることであるし、活動分析、そして、商品・市場分析を行うことである。現状をバラバラにして力学的に整理する(メカニズムを要素に分解する)。そうして課題を整理するのである。

この時、数字は思い切って理想を置く方がいい。中途半端に現実的な数字を置かないほうが得策だ。120%UPとか、コストを8%削るとか、ちまちま考えることは逆効果である。自分の中の「伝統主義」や「保身」「照れ」が頭をもたげてしまう。平凡な日常の自分が頭をもたげてしまう。どうせ無理かな。出来ない理由が浮かんできてしまう。だから、数字は思い切って10倍とか、コスト半分とか、ざっくり願望を置いてみる。自分の中の「常識」が外れる音がするはずである。シャキーンッ!!

 

レッスン4:現状と目的の差異を作るメカニズムは何か?そのモデルを析出する

次はレッスン4。目的達成のための「概念モデルを析出する」である。つまり、目的達成のための動的メカニズム(=イノベーション)の原理となる(と考えられる=仮説)「型(=静的モデル)」を取り出すのである。

 

レッスン5:現実のデータで検証する

レッスン5。取り出した「型」を現実世界に当てはめて行動を起こしてみる。そして、実際の結果を検証する。

 

・・・と、ここまで書いてこれまでの20年間の経営の経験を思い出していた。

レッスン2以降は出来るやつには教えなくても出来るが、出来ない奴にはいくら教えても出来ない。そのことを20年間、一時も休まず考えてきたのであった。ここでまた同じことを文章にしていることにハタと気が付いた。問題はレッスン1である、レッスン1をクリアすれば、その後はすべてうまくいく・・・レッスン1「作為の契機」。その強さ。それが重要。強烈な「作為」のみが日本人にとっては決定的に重要である。

 

作為の契機:「まず、そう思うこと、社会は自分の手で変えられる、そう思うこと」。こう言うと、8割がたの日本人は「内面への干渉」だと感じるようだ。自由の侵害だと感じてしまう。権利の侵害と思うのか、毎日、就業時間にちゃんと言われたとおりに会社に来ているのだから頭の中まで指示しないでほしいと思うのか・・・。完全に間違っている。80%間違っているのではなく、100%完全に間違っている。自由の侵害が出来るのは、時の権力(国家の行政権力)だけであって、会社ではない。会社は労働を買っている立場なのだから、要求していいのである。単に、法人である会社と労働者である人々、ABが自由に契約しただけでしかない。望むことを相手が拒否するならば契約を解除するだけである。それがデモクラシー。

近代社会の根本原理として「作為の契機」なき人間は生産には貢献できない。IT革命の進展でその原理もそろそろ貫徹される。ただ単に指示されることだけを忠実にこなす人間はAIに代替えされる。シンギュラリティはITが人間の能力を超えるというより、「作為の契機」なき人間がITを下回る現象である。ITは「作為」できない。ITは入力があって出力する装置である。指示に忠実に従うマシーンである。「作為」は人間性の最後の玉なのだ!

人間であろうとするならば、「作為」を手離してはいけない。そして、社会をメカニズムとして捉え、少しでも善きものに変えようとすること。少なくとも、変えようとしている人の足を引っ張らないこと。近代デモクラシー社会において、「不作為」はそれだけで罪である。

日本は今だ、デモクラシー社会ではない。「作為の契機」が存在しない、神頼みの社会「シオクラシー」である。「社会主義や独裁主義の方がまだましである」そうとも言えるかもしれない。独裁主義なら敵が明確であるから対策も立てやすい。でも、制度だけデモクラシーで実態がシオクラシー(不作為社会)では、敵が見えない。「科学的問題解決アプローチ」が使えない。敵は人々の「不作為」という名の不気味な「善意」である。

 

「科学的問題解決思考」「科学的アプローチ」、それを考えるとき、どうしても今の日本の問題に突き当たらざるを得ない。巨大な脱力感と底の見えない深い絶望が心を満たす。会社は何が出来るのだろうか。

心に火をともせ。諦めることもまた、罪なのだから。