「科学的」と「非科学的」 の違いを考える_科学的思考❶

「科学的」と「非科学的」 の違いを考える_科学的思考❶

大前提となっている2つのこと

「科学」とは「方法論」である。「方法論」ということは「ある状況の中で何かをしようとしている」という図式の中に位置付けて理解すべきということである。「科学」という「対象」がそこにあるのではなく、「問題解決のための“モノの見方・考え方”」という『道具!』である。目には見えないが「道具」である。ある特定の道具の種類を指し示す。だから「科学」という言葉は名詞ではなく形容詞として使うのが正しい。正確には「科学的思考法」「科学的問題解決アプローチ」であろう。つまり、社会や自然を人間の手でコントロール・刷新しようとしていることが「前提」にある。「非科学的問題解決アプローチ」にはこれがない。「これ」を「作為の契機さくいのけいきと呼ぶ。それが「科学的」であるとは、その人が「作為の契機」を有するということ。外界を意思をもって制御・コントロールしようと意図して思考・行動するときの方法論である。「科学的思考」をスキルとして学ぶ前に、自分に社会を変える作為(意図)があるかどうかを問わなければならない。

日本人は総じて受け身だから、ここで早速挫折してしまう。「科学」とは「世間で認められた正解・知識」のことだと感じてしまう。教科書に書かれるような知識だと感じる。だから「非科学」とはその反対で、「世間に認められていない説や知識」「邪道な知識」と考えることになる。「科学的な知識」を誰かに教えてもらおうとする。この時点ですでに「科学的」ではないのだが。日本人に典型的な態度は、”伝統主義”という古代・中世に生きていた人々の”モノの見方・考え方”である。マックスウェーバーがいう「永遠の昨日」である。昨日の社会がそのまま永遠に続くような気がする感覚。自分以外の誰か偉い人たちが何とかしてくれるだろうという感覚。日本には今だ「作為の契機」が不在である。日本人には社会が人為の結果、出来上がっているものだとは思えない。日本人にとって社会は与えられるものである。

太平洋戦争時もそうだった。嵐が過ぎ去るのを待つように、戦争が過ぎ去るのをただ祈って待つだけ。政府や軍部がみなそうだった。東京裁判では皆が戦争には反対だったと言った。しかし、とても言える空気ではなかった、と。どこにも科学的に俯瞰する人間がいなかったのである。そうして戦争に負けてしまった。「科学的」ではなく「非科学的・感情的」だったから戦争に負けた。「失敗の研究」の結論である。

その支配層が戦後、そのまま日本政府の中枢に残って今日に至っている。今はコロナに負けている。

 

科学とは「方法論」である。まずは図をとっくりと見てほしい。

 

ⒸUeda Kietaro

 

図は、人間の意識の中における「世界」と「社会」と「人間自身」の関係を現わしている。「わたし(自分)」を真ん中の「現在地」に置いてイメージする。大きな横広の楕円が「世界の真理・摂理=法則の存在」を現わしている。小さな縦向きの楕円は社会(特に近代社会のメカニズム全体)を現わしている。そして、上向きの矢印を伴う赤い縦軸が「目的合理」の軸。上が「目的」で、下が「事の始まり」である。青い横軸は「目的合理」とは論理的に直行する「価値合理」の軸である(”論理的に直行する”とは「だまし絵」の老婆と美女の関係のことだと思えばいい)。目的合理とは端的に「生き残る」こと、生存しようとお金を稼ぐことと考えればわかりやすい。価値合理とは「生きること=自分の存在に意味を感じようとすること・感じたいと思うこと」である。目的合理と価値合理は水と油のようなものである。つまり、決して混ざらない。決して同時には考えられない。だまし絵の老婆と美女のように、自分自身の「その瞬間」の物語りによって自由自在に書き換えられる、または、勝手に書き換わってしまう、そういう関係である。(老婆と美女を「同時に」見ることは不可能である)

これを前提に議論を進める。

 


だまし絵【老婆と美女】

 

【「科学」「非科学」はどこに位置づけられるか?】

図の背後に隠れる前提_生命は無秩序になれない

図には背後に隠れる決定的に重要な前提がある。

人間という生命の生きるエネルギーの発生メカニズムである。

次に、それを考える。

「そもそも人間はサイコロになれない」養老孟子さんがよく使う言い回しである。これは正しい。つまり、人間は無秩序(完全なるランダム)には決してなれない。私たち人間という生命はどうしても「一定の秩序」を求めてしまうということ。それが「生きたい」という衝動の源である。それは、その反対側に「死」があること=物質として分解され自然に帰ること、を本能的に知っているからである。私たちはそうプログラムされてこの世に生を受ける。

つまり、人間は適切な秩序を感じられないと「死にたくなる」動物である。「木の葉は川の流れに浮かび、石ころは沈む」必要がある。「太陽は東から一定のリズムで昇り、西に沈む」必要がある。「水の流れに木の葉が沈み、石ころが浮かぶ」そういった自然の摂理に逆らうような状況に置かれることに人間は耐えられない。そして、この世界には「始まりと終わり」があり、「東西南北・前後左右」が打ち立てられていること。自分がこの宇宙の中に適切に位置付けられていること。それを無意識に求めてしまう。人間という生命には「位置」と「方向」が必要である。

裏側から見ると、人間の生きていくエネルギーは秩序を求める行動が生む。生命は無秩序に逆らう運動である。エントロピーに逆らうネゲントロピー。「淀みない文章を書くこと」「イメージを図解すること」「まとまった意味を持つ音楽を演奏すること」「コンセプトのある絵を描くこと」、それらの活動が、人間の生きるエネルギーを生み、同時にそのエネルギーを高めてくれる。

人間は秩序を愛で、感じ取る。だから人類は、無秩序から逃れ、秩序を生む方法を考えてきた。それが人類の歴史である。そして、その「方法論」が大きく二つあるのである。すなわち、「科学的」と「非科学的」。

 

科学的と非科学的

科学とは秩序を形成する方法論の一つである。モデル(型)を抽出し、形式論理的に積み上げていく方法論である。だから、常にそれは「仮説」である。地球が太陽の周りをまわっているということも、光の速さが最速であることも、市場が人間疎外のシステムであるということも、GDPは「消費+投資」の式で表されるということも、すべて「仮説」である。モデルを現実に当てはめ、「わかろう!」とする。出来れば現実で実証しようとする。

厳密に「型=モデル」を取り出すことで「分業・協働」をも可能にした。他者が行った仕事を他の誰かが引き継ぐことが出来るようになったのである。そして社会は巨大に、そして、複雑になっていく。その歩みはいまも止まらない。

歴史的にはそれはキリスト教、しかも宗教改革を経たプロテスタンティズムから生まれたものである。フランス革命を起こし、アメリカを建国したエートスである。だから科学的思考とは、近代的思考法である。

唯一絶対神である「神のもとの平等」「神との契約」という概念が決定的に重要である。そうしないと人間には、この社会を「意図して変えていいもの」となかなか思えない。「作為の契機」が浮かび上がらない。近代は主権在民。私たちひとりひとりの意思が社会を作り、修正する。神の目から見れば、人間社会なんてそんなに大したものではない、そうした感覚が近代社会、ひいては科学的思考を生み出した。そもそも大したものではないのだから、意見を言ったって、今までのやり方を変えたっていいではないか!そんな感覚が生まれてくる(すなわち作為の契機)。

 

そう考えるとわかりやすい。「非科学的」とは、「作為の契機」が不在の問題解決アプローチである。何か問題が起こっても、主にやることは神に頼むか他者に頼ること。偉い誰かが考えてくれているはず、これが典型的な「非科学的態度」である。会社の業績が悪いと神棚に手を合わせる。支持率が上がるか下がるかだけを考えて政策を決める(ただの損得勘定、動物でもする)。典型的な「非科学的」態度である。

大きな津波が襲っても、景気が悪化して職を失っても、ウィルスが人間社会を襲っても、決して自分の頭で考えることはない。きっと「偉い人たち」が何とかしてくれる、そう思ってしまう。「目的ー手段図式」に位置付けた「課題」を分析するのではなく、周りが気に入るような解決策(=空気)を読み取ろうとする。自分が所属する会社の業績が悪化しようが、基本、どこ吹く風。自分は関係ない(=自分の意思は関係ない)、そう思ってしまう。そこに悪意はない。あるのは「非科学的」な生き方・在り方である。でも、複雑化した社会では、「非科学的」は「無責任」という意味になってしまう。近代においては「非科学的=無責任」というメカニズムが働く。悪意のないフリーライダー(タダ乗り野郎)が横行する。

「非科学的態度」が善しとされ、主流を占める社会では(今の日本がそう!)、「科学的」な奴は、「理屈っぽい」嫌みな奴、というレッテルをはられることが多い。「優しくない奴」「面倒な奴」「嫌みな奴」・・・、極端には「女を捨てた女」、言い方はいろいろ開発されているが本当に酷い状況である。最近はHSPなる言葉まで出てきたらしい。ハイ・センシティブ・パーソン、つまり「気にしすぎる人」というような意味らしい。「非科学的」な人間が自分を正当化する方法論である。・・・浅ましい人たちである。こういう人々の意識が社会を土台から蝕んでいる。

 

科学的であることは生きる意味を生まないのか?

科学的な態度は本当に冷たい態度なのか。人にやさしくない人々の事なのだろうか。多くの日本人が潜在的にイメージする「科学的」という言葉は、やっぱりあまりいい意味では使われない。

そうした社会的な空気の圧力は巨大である。NHKも民放も、すべての新聞も「非科学的」な態度を貫き通す。だから結局、政治家たちもみな「非科学的」に問題解決にあたろうとする。今回のコロナ禍への対応は一貫して「非科学的」。科学に必要な現状分析もモデルの抽出も、責任ある意思決定も何もない。だから対策が右往左往。無意味な「緊急事態宣言」を連発して、「科学的」であろうとする心ある個人事業主たちをいじめている。この国は、そうした心ある小さな事業主たちの「科学的思考」という努力で辛うじて持っているのである。科学的思考=近代的思考=民主主義的思考=資本主義的思考=起業家精神である。個人事業主たちの作為の産物=小さな事業=起業家精神のみがその国の経済を大きくしてくれる。私たちの生活水準を高めてくれる。

しかし、それを「非科学的」な国民は「菅さんは頑張っている」という。「小池さんは政府とよく戦っている」という。

 

典型的な日本国民は、こうした自分を「優しくて人間的な人」と思っているらしい。

まったく、日本人はどうかしている・・・。

そう思うのは罪なのだろうか。。。

 

「科学的」とは、問題解決のための「方法論」に過ぎない。だから、そこに「価値」が入り込むスキはない。あくまで道具。モデルを抽出し、論理的に分析し仮説を立てることで、問題をわかりやすく、取り組みやすい状態(=モデル)に捉え返す方法論である。

結果、どういう答えが欲しいのか?それは、別で議論すればいいだけである。大震災の後、どんな社会を再生したいか?それは科学の入る領域ではない。地域の人々が話し合い(それを決めるのが議会である)、こういう社会にしようと決めればいい。すなわち価値合理。そして、目的が決まったあかつきに、そこにたどり着く「方法=戦略」を「科学的」に計画するだけである。

 

これのどこが「冷たい」というのだろう?

どこが「人間的でない態度」なのだろうか。

これのどこが「女を捨てている」ことになるのだろうか。

私にはまったくわからない・・・

 

図の横軸である「価値合理」、つまり、「生きる意味」を求めることと、図の縦軸である「目的合理」、つまり、「生き残る」ための戦略的な「方法論」は論理的には重ならない。だまし絵の「老婆と美女」の関係だといった。同じ対象を見ているので、混乱するのは理解するが、やはり別のものである。どうして切り替えられるのか、どうしたら意識できるのかは今だ謎だが、でも、誰しもが理解できる「人間の能力」である。

 

「科学的であるということは生きる意味を生まないのか?」

その答えは、

「それとこれとは関係ない」

である。

「科学的であること」と「生きる意味」は、関係ないのである。

生きる意味を達成する道具として「科学的思考法」を使うだけである。

二つは論理的に直行するのである。

「論理的に直行する」とは「関係ない」ということである。老婆と美女の関係である。

「カナヅチを使うことは生きる意味を生まないのか?」

「それとこれとは関係ない」、と言うだろう。「それは使う人の問題だよ」と。「カナヅチを使えるようになると生きる意味を失ってしまうよ」そんなことも言ったりしないだろう。科学的思考とは、この「カナヅチ」である。身に着けても何の損もない。身に着けるのに訓練が必要なだけである。訓練は何でも少しは辛い。それだけである。

 

人間は「価値合理」と「目的合理」を分けられる。それが「科学」「非科学」の仕分けに関係しているのである。

「目的合理」を「価値合理」と混同してしまうこと、うまく仕分けて使えないこと。それが「非科学的」な態度を取ってしまう原理である。

 

まとめ

「科学」の反対は「非科学」。それは「民主主義」の反対が「神頼みの政治」であることと同型である。デモクラシーの反対はシオクラシー(神聖政治)である。わたしたち一人一人の意思で善き社会を作ろうと努力するか(民主主義)、神に頼むことで善き社会を作ろうとするか(神聖政治)の違いである。

だから独裁政治も社会主義も、民主主義の変形・派生に過ぎない。

日本は今だ、神聖政治である。空気を神とする「神聖政治」、そう思わざるを得ない。

 

科学・非科学を考えるとき、そんな私たちの姿も浮かび上がる。

私たちはどうすべきだろう・・・

皆さんはどう感じただろうか。