ニーチェ『ツァラトストラかく語りき』、ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

ニーチェ『ツァラトストラかく語りき』、ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

近代という自己疎外を促す「ぬるま湯」

ニーチェはかつて『ツァラトストラかく語りき』でこう叫んだ。『人間とは克服されなければならない何かである。おのれ自身の幸福を軽蔑し、理性を軽蔑し、徳を軽蔑し、正義を同情を軽蔑せよ。』そして、ニーチェの思想に傾倒したウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で近代という時代の持つ構造的困難を「鉄の檻」と称し、次代のわたしたちに警鐘をならした。

端的に私たちが棲む「近代」という時代は「幸福を追求し、理性を誇り、徳を自慢し、自身の正義感と同情心に安心する」ことによって自己疎外を促すシステムである。生命を維持することにかけては大きな安心を手に入れた一方で、自分から自分を疎外し戦う意思を枯渇させるメカニズムである。

でも、人間はタタカッテ、タタカッテ、苦しくて、苦しくて仕方がないとき、そして、それにギリギリのところで耐えているとき、もっとも輝く。ある人が心から好きで、しかし、その恋は成就しないと理性では知っているとき、今にも崩れ落ちそうなほど苦しむとき、それでも理性を保とうと最後の力を振り絞る、その時、ひとはもっとも美しく現象する。「人間は動物と超人との間に渡された一本の綱だ」ニーチェのことばである。

 

人間とは矛盾した存在である。近代とは端的に、その人間存在の矛盾を解消するメカニズムである。矛盾を解消し美しさを失った。人間は、安心・安全に浸るとき最も醜い。にもかかわらず、私たちは近代を選んだ。

近代は進む。

これに抗して美しく生き、そして、死ぬか。

近代を謳歌し醜く老い、朽ち果てるか。

誰ひとり逃げることが出来ないニーチェからの「問い」である。

 

「あきらめる」とは、きっとポジティブな意味である

人は不安を避けたがる。何か大きな力に寄り添っていたいと思う。この心を打ち破ることは至難である。どろどろとした水あめの浴槽から抜け出すように、安心・安全を求める心は、私たちを捉えて離さない。

前頭葉で認識することは「ぬるま湯」から抜け出すこととは違う。安定は「一本の綱」とは対極の何かである。肉体と精神の喜びは、同時に動物への回帰を意味してしまう。どこまで行っても矛盾したままである。

もうすでに「近代」は熟してしまった。安心・安全は極致まで達した。私たちの生命を脅かすものはほとんどない。20世紀の戦争の世紀を思えばそれは思い半ばにすぎぬ。安定はすでに停滞の域である。

 

不安を自ら迎え入れてはどうだろうか。安心・安全を「あきらめる」ことは、きっと、ネガティブな意味ではない。人間存在をまっすぐに見つめるとき、それはネガティブからポジティブに変わる。

 

創業前夜の不安

20年前の創業前夜を思いだす。それまでの人間関係を勇ましいことばで断ち切っても、夜、不安でパソコンの前で計画書を書き続けた。若さは、未来のわからなさを解消してはくれなかった。世間は冷たい。他者は若い起業家の志など迷惑な存在でしかない。自分の安全を脅かす異物を見るような目で見られた。何度も何度も跳ね返される。社会が起業家を求めているなんて日本では嘘である。

自らの意思で「ぬるま湯」から抜け出したにもかかわらず、カッコよさとは無縁の時間だった。今にして思えば、やめなかったことだけが唯一、誇れる何かである。ただただ、ひたすら耐えていた記憶しかない。

創業前は、水あめのような「ぬるま湯」の浴槽に浸かっていることに耐えられなかったにも関わらず、いざ出てみると自分の力のなさに慄いていた。わたしは何も知らない。何の技能もない。人脈と呼べるものもすべて虚構に過ぎなかった。集まるのは同情の声だけ。懸命に正気を保ってはいたが、毎晩の片頭痛はひどくなる一方だった。そして、その非力な自分に追い打ちをかけるように詐欺に騙された。

 

でも、その記憶に恥ずかしさは微塵もない。人に語って聞かせたいくらい、誇らしい感情しか浮かばない。なぜだろうか。これがニーチェのいう「一本の綱の上を渡る」ということだったのだろうか。内面はずっと酸っぱいレモンを噛みしめているようでありながら、その時、人間存在としては美しく輝いていた、そういうことなのだろうか。だとしたら人間とはやはり矛盾した存在である。苦しみや逆境の中に身を置くことは、容易いことではない。

 

わたしはいま、創業当時の「あきらめ」を持っているのだろうか。醜い存在に成り下がってはいないだろうか。いてもたってもいられなくなる。私はいまだ、逆境を欲している・・・

 

資本主義を開いた予定説の奥義

資本の社会的蓄積が資本主義を発展させたわけではない。マックスウェーバーの慧眼である。批判もあるのは承知だが、私はウェーバーを支持したい。ニーチェは晩年、気が狂ったとされている。あまりにも矛盾に正直に向き合いすぎたからなのだろうか。彼は、常人にはうかがい知れぬほどの正直さを持っていたに違いない。そのニーチェに感化されて、ウェーバーは資本主義の精神を時代から抉り出した。資本主義の核心は、カネではない、と。そこに必要なのは超人としての精神である、と。

もとになったキリスト教予定説は、ジャン・カルバンが当時の人々に課した現世拒否の思想である。結果的に「今」に集中して生きることにつながる、「今」を拒否する思想体系である。永遠の命を手に入れるために、現世で自らを英雄に駆り立てる。残りたいのは神の御心の中。聖書をつぶさに研究して、予定説の奥義は浮かび上がった。それは、人間を英雄にするメカニズムだった。

 

もし、この世界が人々の思い込みで出来上がっているのなら、仏教の奥義である唯識論が正しいのなら、人間存在の真理は、カルバンが生んだプロテスタンティズムの倫理(奥義)と同型である。形而上の存在が私たちの生を美しく豊かにする。これは偶然か。必然か。

 

人間を怠惰に、醜く現象させる「近代」という時代の中にどっぷりと浸かる私たちが、それでも「美しく」生きるすべはあるのだろうか。後世から振り返ったとき、感謝されるような生き方は残されているのだろうか。ニーチェやウェーバーに今こそ教えを乞う。

 

人の可能性を信じて「ぬるま湯」から飛び出した自分は、いま、数字という損得勘定に縛られたままである。でも、今でも、そこから一歩でも外に出たいと願う。私はベンチャーということばが嫌いである。そこに一縷の望みをかけて、今日も、次代に善きものを残そうと願う。

 

人間はとことん矛盾した存在である。

それを自覚することしか、醜い自分から逃れる方法もまた、ないのかもしれない。

 

わたしは、依然、矛盾を抱えたままである。

ニーチェとウェーバー。彼らが語るメッセージは、現代でこそ光り輝く。