23時59分52秒_中世の夢が覚めて、まだわずか8秒。

23時59分52秒_中世の夢が覚めて、まだわずか8秒。

損得勘定は捨てられないけれど・・・

「近代社会」の萌芽が西洋の片田舎で芽吹いてから500年。世界はグローバリゼーションとIT革命に覆われている。21世紀の日本に生きるわたしたちは、普段、「近代」という特殊な時代に生きているということを意識することすらなくなっている。これを称して「思考停止」というのだが、その意味するところすら変質してしまった。「脳みそフル回転で有利な立場を獲得せよ。有名校・有名職業=いい人生」なんだから・・・脳みそフル回転の思考停止である。ベンチャー企業で成功している社長の中にも「思考停止の輩」はいるのである。「目的のために全力で考える思考停止」。この30年で急速に増えた気がしてならない。

有利な社会的ポジションを獲得するためにする努力は端的に「近代社会」という構造が要求してくる圧力である。自分の意志で思考しているのではない。しかし、この構造的圧力から逃れられる人間はいない。誰一人、いない。その意味で、私たち近代人が生活のために合理的計算をするのは致し方ない。問題は、それを、無邪気に自覚なしにやっていないか?である。それが思考停止か、否かを分ける分岐点である。

あえて言う。このポジション獲得の(カッコ付き)『希望』や、失業を恐れる『恐怖』によって突き動かされる『合理的思考』は、単なる思考停止の損得勘定である。猿山のサルがボス猿に擦り寄る浅ましい本能とその本質においてなんら変わらないのであって、人間の人間としての教養の働きではない。「正義」ではない。人間としての正義=アンチ思考停止とは、この損得勘定を相対化する感受性である。この感受性を歴史的には人間性と呼んだ。日本でも、日本以外でも、それは歴史が証明している。近代は人間を損得勘定に駆り立てるが、その近代を形成したエネルギーはプロテスタンティズムという宗教思想であった。

お金は稼がなければならない。それを誰かに頼るのは卑怯者である。しかし、人生を座席争いにしてはならない。それが人類が生き延びてきた知恵の照準である。

どうせ100年経ったらみな死んでしまうのである。死ぬことがわかっていながら世俗に執着することを、人類史(日本でも世界でも)は潔しとしない。それが近代を相対化する健全な実存構造である。人類共通の教養である。

人間社会は人々の記憶で出来上がっている。世界は意識で作られている。だから、肉体が死んだ後もその人は他者の記憶の中に生き続ける。いや、生きている間も、突き詰めればその人は他者の記憶の中に存在するのでしかない。人間は、自分以外の他者の記憶の中にこそ生きる。ゆえに「どう記憶してもらうのか」がその人の価値を決める。動物としての価値ではない。人間としての価値である。浅ましい損得勘定に無邪気に生きた人間として人類の阿頼耶識の集合に刻まれるか、損得勘定を相対化し、あえてロマン主義に身を投じるか。人類共通の価値を見失った近代社会に、あえて価値合理的な(=無意味だが意味を感じられる)「ロマン」を内発的な動機によって生み、育てるか。

そう、人生はとても短い。せせこましく、世俗の座席争いにのみ勤しむには、人生は短すぎる。永遠に「生きる」方法をこそ考えたい。

 

「時代」に思い込まされている作法

「時代」というものを相対的に意識したことがあるだろうか。私たちが棲む今の「時代」は、人類史上、どんな位置に置かれているか知っているだろうか。

200万年という人類史を考えた場合、この「近代」という時代はとても特殊である。フランス革命やアメリカの独立以降を仮に「近代」と区切るなら約200年、ザクッと近代は人類史の1万分の1の時間的スケールでしかない。1日24時間に換算すると200年は約8秒。夜の11時59分52秒まで近代以前が続いていたということになる。しかし、この非常に短い8秒間に人類から宗教性が枯渇した。もちろんいまだ、宗教を奉じる民族は多いが、近代の特徴は構造的に宗教性を喪失させるメカニズムである。この先もどんどん、生きる意味は失われていくことだろう。代わりに、肉体を維持するための目的合理性が極度に発達していく。生き残るためには、もはや意味など考える必要がなくなった特殊な時代、それが近代なのである。いずれ完成を見る。肉体を維持するための「すべて」はAIがやってくれるようになる。2045年シンギュラリティ―の本質はここにこそある。シンギュラリティ―を無邪気に超えると、そのまま人間は、「人間性」を失い、みな虫になる運命である。内発的な動機が枯渇した本能のプログラムのままに蠢く昆虫のような存在になる。芸術作品が減り娯楽であふれる時代、それが近代化のメカニズムである。

これがエネルギーが枯渇する原因である。社会でうまく生きれば生きるほど私たちから内的動機を奪い去る構造である。世界で自殺が増える根本原因である。生きる意味を失った人間は、健康な肉体を抱えながら無気力になる。どうしてもやる気がでない。それでテレビやYouTubeを浴びて内面を埋めるしかなくなってしまう。残念だが、ヒカキンの閲覧数は近代社会の病の結果でしかない。

近代という時代的構造は、人間から生きる意味という輝きを略奪していく。座席争いからは本質的に生きる意味は生まれない。時代を相対化し、社会的地位の獲得以外の価値を「あえて」生み出さない限り、他者をマウントする以外に生きている実感は得られないのである。生きる意味は自らが紡ぐ。それ以外は他者の魂の収奪か、もしくは自殺しかない。これは論理的な帰結である。ニーチェに触発されてマックス・ウェーバーが警鐘を鳴らしたものの本質である。すでにウェーバー没後100年である。

社会的地位の獲得競争は人間性を奪い取る必然である。「生き残る」ために便利であるのだが、同時に「生きる意味」を奪い去る。私たちはそれを自覚するべきである。それが「思考停止ではない」ということである。近代という時代が強制する構造的帰結を捉え返さなければならない。そうでなければ生まれてきた意味を失ってしまう。自分自身、どんどん元気がなくなるのである。もし元気が減らないとしたら、他者をマウントしている証拠である。みな、ひとごとではない。それは空気の如く私たちを一人残らず支配するメカニズムである。

 

アメリカが世界一であるワケ

アメリカはなぜアメリカなのか。アメリカがなぜ、今、世界一の経済力と軍事力と政治力を持っているのか。考えたことがあるだろうか。もちろんたくさんの研究がされているのだろうし、理由は一つではないのかもしれない。しかし、20世紀の社会科学の成果としてマックスウェーバーの宗教社会学の研究は外せないものである。アメリカの強さは『キリスト教「予定説」』にあり。どういうことか。(小室直樹著の『痛快!憲法学』を下敷きに解説する)

キリスト教予定説は、人間を英雄的行動に駆り立てる動機を無限に補充する、そういう物語りである。子供のころから予定説を植え付けられると、その人は、めちゃくちゃ働き者になる。それを集団で起こした人々がアメリカを建国したのである。これがもっとも簡単な説明であろう。

「予定説」という教義は500年前、中世の西ヨーロッパで起こった宗教改革にその起源を見ることが出来る。当時、キリスト教は教会の中に閉じた存在だったのだが、それがためもあってかなり腐敗していたらしい。それを「聖書の本義に戻れ」と改革したのがプロテスタント(新教徒)である。

予定説は日本人にはなかなかわかりずらい。そもそも一神教を奉じる西洋人は神頼みを厳格に禁じられている。プロテスタントの場合、それが宗教改革で明確に信者たちに示された。それまではキリスト教徒(旧教徒)も神頼みをしていたのである。それが宗教改革で180度ひっくり返った。

「あなたの運命は神がすでに決定している。最後の審判で救われるかどうかは世界が生まれた時にすでに神が予定してしまわれている。」これが予定説の核心である。端的に「現世・世俗否定」の教義である。一方、旧教徒(日本人も)は神頼みを是とするのだから「現世・世俗肯定」の教義である。「どうかわたしの願いをかなえてください、この世で生きているうちに幸せになりたい」これが現世肯定派。180度逆さである。それがポイントである。

社会に英雄が生まれるとき、そこには必ず「現世拒否」の思想がある。日本の明治維新でも、中国の三国志でも、現代のユダヤ人の活躍においても、そこには必ず「この世ならざるもの」を優先する思想があるのである。アメリカは、それを社会全体で起こした人々が作ったのである。働きものの集団がアメリカを作った。

そのプロテスタンティズムという新教徒の思想が民主主義も、資本主義も、形作っていった。そして科学的思考を生んだ。労働こそが救済であるとして懸命に働く人々を生んだのである。そして、アメリカは建国から150年あまりで世界一の座に駆け上がった。第二次世界大戦のことである。

 

人間は「今ココ快楽」を求めると生きる動機を失う。現世社会を天上から捉え返さなければエネルギーを失う。動物的欲望の自然な流れに身を任せるのは中世の作法である。自らの内面に意思を持たないのは、中世時代のグータラ人間の作法なのである。アメリカ建国の英雄的精神とは180度逆さまの行動規範である。アメリカがアメリカである理由、それは一言で言うと「意思する心」である。それが強さの秘密である。

 

今の日本に必要な事業・会社

近代とアメリカとここ日本。近代社会という意志する時代に位置付けられた、意思なき日本という無気力or損得社会。今の日本人は、無気力か、損得勘定か、それがデフォルトである。英雄的に生きようとする人間がいかほど存在するのだろう。「立派に潔く、凛として生きる」は死後かもしれない。

しかし、社会は、英雄的にいきる人間を必要とする。こと近代という時代においては必須である。そうしなければ国家社会は営めない。早晩、崩壊の道を辿る。損得デフォルトでもダメ。無気力に生きるのもダメ。こうした巨大な課題に立ち向かえる事業とは、会社とは、どんなカタチをしているのだろうか。

 

お金儲けは必要である。資本主義社会に生きる以上、お金は必須である。お金を嫌悪してはいけいない。それは近代の第一鉄則である。ゆえに会社の業績は黒字でなければならない。財務も健全であることが必須である。そのうえで、中世から近代を打ち開いた予定説のような「現代の神話」づくりに没頭すること。それが今の日本社会に必要な事業・会社である。

いくらアントレプレナーシップを標榜していても、近代を相対化できない事業は思考停止事業である。市場戦略や財務戦略、人事・組織戦略などMBA的な枠組みは必須ではある。しかし、それだけでは思考停止状態から抜け出したことにはならないことを知るべきである。業績を上げ続けるのは最低限の必要条件であって、いまの日本では十分条件たりえない。それでは社会は崩壊するままになる。経営者は、歴史や思想、文学などをこそ学ぶ必要があるのである。財務や戦略思考をマスターしたら、詩集を読むべし。旧約聖書や武士道を学ぶべし。SDGsが問うている「持続可能性」は、こと日本の場合、環境問題にあるのではない。世界と日本の課題は180度逆さを向いている。日本の経営者は、そのことに自覚的でなければならないのである。

 

卑小、すなわち、損得勘定=業績のみの経営だけに時間を費やすには、人生はあまりにも短すぎる。現世だけを見つめていては時間がいくらあっても足りない。現世は、前世と来世の間に位置付けられてこそ輝くことを知りたいものである。そうして事業・会社は初めて輝きを得る。それは歴史が示してくれていることである。人間の生を永遠にする、人類、数千年の知恵である。

 

「卑小に生きるだけでは人生はあまりにも短すぎる」

「現世拒否の思想が人間を英雄にする」

 

23時59分52秒。日が変わる、わずか8秒前。

時代はようやく「近代」になった。

人類が「中世」というまどろみから目覚めて、まだわずかである。

肯定的に、前向きに、この「近代」という時代を捉えたい。そう思う。