「作為」のモデル_やったことがないことを企画できるか?

「作為」のモデル_やったことがないことを企画できるか?

経験をバラ売りしようとする人々

長く会社経営をやっていると、「やったことがないのでできません」という社員とたくさん対面することになる。それこそ無数に。それは今でも変わらない。唯一、新卒は「やったことのある」ことがないのだから言わないが、3年目ともなると多くの社員が言い出すのである。30歳ともなると半分以上が口にする。40歳だと7割り。50を超えるともう99%だろう。でも、なぜ、経験したことがないとできない、と人は思い込むのか?確かに、ひとには向き・不向きはある。そんな私もかなり偏っていると思う。しかし、そこは数字責任。会社を潰さないために「未経験分野は不安です」などと言っていられない事情があるのである。うん、やっぱり、常にすでに追い込まれている経営者とは意識の高さが違うということか・・・ため息が出てしまう。

「経験を生かす」。一見、いいことのように感じるが、そもそも経験とは「生かす」ものではない。必死に結果を求めるとき結果的に「生きてしまう」ものである。そうした自分自身の心の習慣をこそ考え直してみたいものである。

 

気を取り直して・・・科学的にアプローチすることでそうした人間の性(さが)を突破できないか?多くの普通の危機意識の人々でも未経験分野に挑めるようなモデル(モノの見かた・考え方)を考えてみたい。

 

「人類最初の人はどう考えたのか?」

やったことがないと出来ないのだろうか。

まったくの経験がないことは人間には企画することは出来ないのだろうか。

でも、ちょっと待てよ。

ならば、人類最初にその問題にぶつかった人はどう考えたのだろう?

なにか考え方のアプローチ方法があるはずじゃないか。

俺もそれを考えればいいのだ!

 

そもそも、年齢を重ねるごとに未経験分野への挑戦意欲が低下するのは、瑞々しい「生きるエネルギー」が枯渇しているからだろう。端的にそれを取り戻せばよい。人生が楽しいと思える状態を、自分の内面に取り戻す。子供のころのような新鮮な感受性を取り戻す。青春を、年齢に関係なく、こころに宿す方法をこそ考えるべきポイントであろう。そう、サミュエル・ウルマンの詩のように。

 

青春とは、人生のある時期を言うのではない

心の若さをこそ指す言葉である

・・・・

 

未経験分野に挑む、モノの見かた・考え方_結局、どうなればいいのか?

未経験分野を前にしたとき、気持ちの若さは十分に持っているとして、さて、どう考えればいいか?

「結局のところ、どういう状態・状況になればいいのか?」

「究極、どういう結果を手に入れたいのか?」

「最終的に顧客がどう思えばいいのか?」

それを考えればよいのである。

さらに点検したいのなら、

「それで数字は作れるのか?」

「得たい数字は得られるのか?」

「すべてハッピーなのか?」

それも考えればよい。

 

別に難しいことはない。

「結局、どうなればいいのか?」

その究極の姿を必死で想像するのである。

 

 

意味・意義を考える

まずは、そのものの「意味・意義」をじっくり考えるのである。

それもしっかりと言葉にして、淀みなく意味が通る言葉にしてみるのである。

しっくりくるまで繰り返す。

それは事業においてどんな意味・意義があるのか?

それを考える。

 

「顧客接点を洗い出せ!」_付箋紙ブレスト

技術的なことを言うと、顧客との接点がすべて理想的ならそれでいい。

これはなにもビジネスとか、事業とかだけの問題ではないだろう。

学校の授業を企画する時でも、

病院をよくしようと企てるときでも、

生徒や患者との接点を洗い出せばいいのではないか。

それが付箋紙を使ったブレーンストーミング」である。

何人かが集まって「お題」を出す。「CS、カスタマーサービス室を新設したい。顧客との接点を思いつくままにどんどん付箋紙に書いていってください。制限時間は1分間。よーい、スタート!!」

これを2~3回繰り返す。足りないようなら4回、5回とやればいい。たいてい、すべて、出きってしまう。

それを壁に貼り、似た者同士をグルーピングする。そうして、種類を浮かび上がらせていく。

 

個別の内容をどう詰めるか?「あるべき姿を考える」

種類が出切った後、個別の内容をどう考えるか?それには大きく2種類ある。「事例研究」と「あるべき姿を考える」の2つである。

しかし、理想の姿とは何なのか?その施策における私たちらしさの表現とは何のか?競合の事例を見る前に「理想形」を考える方がよい。

なんにも理想形がない時に、自分たちが何者かがわからないときに、事例研究、いわゆるベンチマーク先を探してしまうと、自分を見失ってしまうから要注意である。わざわざ、個性を失うように自分を仕向けてしまうことにもなりかねない。

だから、まず考えなければならないことは、「あるべき姿・理想形を考える」のである。

※フレームワーク「3C」の優先順位は本質的に「①自社、②顧客、③競合」の順番である。弱い会社が多いゆえ(または、そう思い込んでいるゆえ)、②の顧客から考えることが多いだけである。

その目的はなんなのか?先に、全体の企画を始める際に考えた手法、それを個別具体的なものに適用するという方法である。要はどうしたいのか?個別の対象ごとに考えていく。

 

「ベンチマーク(事例研究)から考える」

それでも事例研究は、自分を刺激するいい方法である。漏れなく・ダブりなく、問題点・課題を抽出するには、先行者を研究するのは悪いことではない。しかし、やはり、自分を見失わないように気を付けなければならないだろう。

盲目的に、すなわち、自分たちとは何者なのか?何がしたいのか?という理念やミッションの深い議論を経由しない事例研究は、どんどん競合に寄って行って、結局は、マーケットでの自社の存在意義が失われる。そのことには気が付いていなければならない。

事例研究・ベンチマークは、便利ではなるが、油断すると危険な方法であることも心しなければならない。

 

事例研究で気を付ける点は「体系的に分析すること」であろう。それこそ科学的に、漏れなく・ダブりなく対象を切り刻む。

 

後は作業である_ラフスケッチから考えていく

あとは作業である。しかし、この段階でも大きなところ、上から考えていく。つまり、目的を見失わないようにする。企画者・ディレクターにとって最重要課題である。最後の最後まで、その目的・コンセプトを忘れないこと。その状態を維持し続けなければならない。

忘れた!うっかりしてました!は許されないのである。「忘れました・うっかりしてました!=作為がありません!」である。そう自分に言い聞かせて集中力を保ちたいものである。

 

まとめ

「やったことがないことを企画しようとした時、どうすればいいのか?」

つまり、「作為のモデル」を考えたかった。

 

やったことがない。経験したことがない。

そういって恐れおののき(または知的怠惰に安住し)、思考を止めてしまう人が多いが、そんなことでは事業など、はなから成り立たないのである。そのことに気が付きたいものである。どんなことでも、最初はみな初めてなのである。当たり前だが、生まれつきそれをやったことがある人などこの世にいない。

 

わたしたち日本人は、学校で教えてもらうことにあまりにも慣れ切っている。教科書に書いてあること、先生が教えてくれたこと、それなら出来ると思い込んでいる。「これは4年生の漢字だから出来なくてもいいんだもん!」3年生の子供がよく吐くセリフである。それを大人になっても繰り返す。日本人の悪い癖。

日本人には「作為の契機」が存在しない。

政治学者・丸山真男が嘆いていった。

でも、その意味するところを本当にわかっているか?

 

「やったことがないので」

そういって安全地帯に逃げ込むとき、あなたは典型的な日本人である。その時、あなたに「作為」はない。民主主義の原点である「作為」は、そのとき、あなたの中には存在しないのである。

 

自分の中に「作為の契機」を無理やりにでも芽生えさせる方法。

作為そのものを科学的に考えたかった。

「作為のモデル」

あなたはどう感じただろうか。