シニフィエ・ノート© その3:自身を覚醒させる必殺の問い
大前提:「数字を作る」という作為あってこそ
「近代社会で何かを企てるとき」のお話である。企画なり事業経営なり、難題突破の方法論=自身を科学的思考に追い込む5つの問いである。急に頭がスッキリすること請け合いである。
ただ、「問い」の前にひとつ大前提がある。「数字を真ん中に置くこと」これである。「数字を作ろうと必死になっていること」それが大前提。これは何もビジネスに限った話ではない。NPOという慈善的な事業であっても同様である。活動の継続性を担保し、近代社会の中で発展させ影響力を拡大していこうと考えるならば必須の前提である。個人でやる時にも変わらない。なぜなら、近代社会は数字で構造化されているからである。近代=資本主義である。マーケットのメカニズムが社会の真ん中にあるのである。まずは、それを認めるところから。
数字とは端的に財務3票の事。B/S、P/L、C/Fの3つである。「数字という作為」とは、この3票を作ろうとすること(「活動」と「数字」を表裏の関係として考える)。最低でも活動を継続させるための最低ラインは確保する必要がある。大きな利益を出す必要は必ずしもないが、利益は必須である。ゼロというわけにはいかない。利益は目的ではなく活動を継続させるための手段。赤字などもってのほかである。損益が赤字ということは、即、何かに負担をかけているということ。それは過去の自分かもしれないが、そのほとんどは取引先や関係者である。自分が赤字であることで他者に迷惑をかけている。
「数字」とは、近代社会における「目的合理」の枠内の話。価値とは関係ない。しかし、成し遂げたい「ある価値」を実現するために最低限維持しなければならない責任が運営者にはある。まずはこの自覚が重要。近代社会では誰も逃げることができない構造的前提である。
数字に責任を持ちたくない人の口癖は決まっている。特にNPOの運営者に多い。曰く「企業が助けてくれない」「寄付を募っても集まらない」・・・、すべて運営者の責任・力不足である。他者を責める前に自分を振り返らなければならないだろう。
これを前提に、「シニフィエ・ノート」を活用するコツをまとめたい。それは「5つの問い」に真剣に答えていくことである。前回の「CEOの内省:シニフィエノートその2:メタ要素」で触れたメタパターンを自由自在に活用するために「自身の脳を活性化させるための問い」だと位置付けている。
すなわち、
①「それは何問題なのか?」
②「極単に振って考える」
③「事の始まりを考える(原始モデルを考える)」
④「論理的帰結を考える」
⑤「それは本当に“問題”なのか?」
の5つである。それぞれについて考えてみたい。
問い1:「それは何問題なのか」
近代社会はメカニズムで動く。シニフィアン・シニフィエでいえばシニフィエ(意味)のメカニズムで動いているといえる。シニフィエが絡まり合い、構造をなしている、その力学(圧力の相互作用)で動いているのである。(目に見えるシニフィアンと目には見えないシニフィエの割合は、シニフィエが圧倒的要素で90%以上である。水面下のシニフィエの力学で人間の感情は動かされている。その人間の感情が社会を動かす!)。
だからリーダー(マネジャでも運営者でも呼び名はどうでもよい)は、まず、状況(シニフィエの絡み合いの世界)を正確に意味づけることが求められる。歴史的に積み上げられた形式論理的なアーキテクチャーと未来へ向けて変化する「空(くう)」的な意味付けの双方に気を配り、「今ココ」を鮮明に意味づけて(言語化して)あげる必要があるのである。そうしないと、チームの認識はまとまらず(自分自身も何をどうしてよいのかわからず)活動に力がこもらない。状況の意味付けを明確にしようと仕向ける問い、それがこの「①それは何問題なのか」である。
数字という目的合理の枠内と、数字の外にある価値合理の問題と、現場現実では双方が予告なく現象する。現場ではたいてい現象に、反射的・慣性的に反応してしまう。問題を全体に位置付けることを端折る。そして、すぐに手を動かして状況を悪化させてしまうのである。近代社会のメカニズムは人間の善意など寄せ付けないほどに複雑なのである。現場の即座の勘で解決できる問題などほとんどないことを知らなければならない。普通の人の善意や努力など役に立たないばかりでなく、さらに問題を悪化させることがほとんどであることを知りたいものである。近代社会は複雑である。
だから問う。「それは何問題なのか」と。いち早く現象の変化を察知し、状況を意味づけてあげること、そう言い換えてもいいかもしれない。記憶に残りやすいことばとして覚えておきたいものである。
あなたが今ぶつかっているもの、それは何問題なのか?
問い2:「極端に振って考える」
①の問いに答えることは、必然的に自分自身の視野を限定することにつながっていることに気が付くだろうか。世界は広いが、①の「それは何問題なのか」という問いに答えることで世界をある目的に向かって切り出している。①の問いに答えることで、すでに広い世界を、人間に扱える範囲に切り出してしまっている。
そのうえで「②極端に振って考える」である。これは現象を科学的に抽象化するのを前提に、その幅を確定してあげる問いである。ここからここまでを考えればよい、と思考の幅を限定してあげる。一番右に振ったらこう、一番左に振ったらこう、とまずは両極を考えてしまうのである。選択肢の幅を先に考えてしまう、と言っていい。問題を前にして(数字を作ることを前提にすると)、出来ることはここからここまでの範囲だな、と考える。
極端に振って、極致を先に考えよ、である。
問い3:「事の始まりを考える」
次に、②の思考の幅の中でモデルを抽出する段階である。それにはこの「③事の始まりを考える」という問いが威力を発揮する。要は、対象の原始モデルを考えてみるのである。そうすると、複雑に見えていた現象が急にシンプルに見えてくることに気が付くだろう。事の始まり・原始モデルを考えることで余計なものを簡単に捨てられることに気が付くだろう。抽象化・科学的問題解決アプローチという方法論を無理なく行うコツである。
この現象はどんなメカニズムで動いているのか。その背骨は何か。その構造(アーキテクチャ)はなにか、を問う。
事の始まり、原始モデルを考えよ。
問い4:「論理的帰結を考える」
すると自然と「④論理的帰結」が見えてくる。もし、何も手を施さないとしたらこの現象はどうなってしまうのか。メカニズムが動き続けたら時間の経過とともにどんな現象が起きるのか。それを考えるのである。
それが大したことない、受け入れ可能であるとするならば何もしないという選択肢もあるのである。あわてて手を付ける必要などどこにもない。理想的には、目的に近づけるかどうか、そうしたメカニズムになっているかどうか、それを検証するのである。
そうでなくとも、数字を予想する際にとても役に立つのがこの問い④である。社会科学上の予測もすべてこの「論理的帰結」を考えるところからの発想であろう。ソビエト崩壊を予想した小室直樹博士の慧眼も、ビジネスなど比べ物にならないくらいの複雑さではあるが、その思考の型は同じである。まさに科学的思考のスタンダードである。
論理的帰結を考えよ、である。
問い5:「それは本当に“問題”なのか」
そして、最後に⑤「それは本当に”問題”なのか」。
この問いだけほかの4つに比べて少し特殊である。それは、他の4つが現象を集中的・分析的に見る思考を引き出すものであるのに比して、そうした自分自身の思考を相対化し、より大きな視座の存在に気づくための問いであるからだ。
人間誰しも、普段は無意識に世界を切り取って見ている。見たいように見ているのである。世界すべてを一気に眺めている人は皆無である。ロシアの哲学者ミハエル・バフチンが言ったように「真理・摂理は大きすぎてテーブルには乗らない」のだ。人間は常に世界の「部分」に自分勝手な光りを当てて見ているのである。色メガネを外すことは容易ではない。問い⑤の「それは本当に“問題”なのか」は、そんな私たち自身の思考そのものを相対化してくれる問いである。大きな気づきを与えてくれる。
うまく問題が解けないときは、自分の視野の範囲の中をうまく抽象化できないということもあるにはあるが、可能性としては、そもそもの視座・視野・視点が間違っている可能性もかなり高いのである。もっとデカく考えなければならないのかも知れないのである(経験上はこちらの方が多い気がする)。例えば・・・、システム開発の問題がうまく解けないとき(SEとの議論がうまく進まないときなど)、実は予算や組織に課題が潜んでいるかもしれない、そうしたことに気が付くための「問い」が「⑤それは本当に“問題”なのか」である。システム以前的問題、そこに課題が潜んでいたらSEといくら話し合っても解決は望めないのである。
また、これは若い社会人によくみられる現象であるが、近代社会の目的合理の内側の問題(例えばマーケティングの課題)に対処しなければならないときに、無意識に自分の価値観や感情に意識をフォーカスしていたりする時に使えるのである。客観的現象ではなく、自身の感情のモヤモヤに意識がフォーカスされてしまっている人は案外多いのである。こういうときは、そもそも問題のありかにまったく気が付けないことの方が多いのだが、なんかモヤモヤうまくいかないとき、この問いを自分自身に突きつけて見ることをお勧めしたいと思う。何人もの若い社員に向き合ってきた経験からして、この問いはかなりの威力を発揮するはずである。近代(資本市場)は自己疎外のシステムであることの裏返しである。いくら自身の感情を労わっていても何も解決しないことを知ってほしい。目的合理の内側は、感情など寄せ付けないのだ。
なんだかうまく進まないときの伝家の宝刀「それはそもそも”問題”なのか?」である。
まとめ
シニフィエ・ノートこそ、企画者のレベルアップの最高のツールである。そのシニフィエ・ノートを活用する際の5つの問いをまとめてみた。前回の「メタ要素」の使い込みと合わせ技で慣れ親しんでほしいものである。
私は創業以来、この5つの問いをそれこそ何度も何度も自分に突きつけてきた。今でもそれはあまり変わらない。創業時より頻繁に使っているかもしれないと思う。今も、何か現場現実で突破できない、解けない・わからない現象にぶつかったときは、かならずこれらの問い(ツール)を思い浮かべる。それこそもう、習慣化・血肉化している「相棒」である。
近代社会における企てには、必ず答えがある。少なくとも目的合理の範囲ではそうである。科学的にアプローチすれば解けない問題など論理的には存在しないはずである。その世界に誘う必殺の問い。
お試しあれ!