老婆と美女

 だまし絵「老婆か美女か」

世界を一瞬で書き換える

有名な「老婆と美女のだまし絵」である。「うつむいている老婆」か、「振り返っている美女」か。同じ絵が「老婆」にも「美女」にも見える、アレです。どうして切り替わるのか、どうやったら切り替えることができるのか、どうもパキッとわからない。でも、確かに私たちは1枚の同じ絵を、まったく違う2つのものとして切り替えて見ることができる。対象物は変わらないのに、そこにまとう「物語り」を変えることが出来る。対象が老婆か美女か、その切り替わる瞬間、私たちは自分自身の「物語り」を確かに切り替えている。それも一瞬で。私たちは世界を一瞬で書き換えている・・・

見ているつもりの対象物の絵が変わっているわけではない。そこをしっかり確認したいと思う。切り替わっているのは自分がまとっている「物語り」の方である。常にすでにわたしたちが浸されている「文脈」である。思い込みである。ものの見方・考え方のパターンである。癖である。水が入った紙コップも、破れて横たわっていればゴミに見える。パソコンも赤ん坊が見ればただのプラスチックの板きれでしかない。ハスキー犬は不安にさまよう森の中で見ればオオカミに見えることだろう。私たち人間は「私たち自身が使うことばで出来ている」というそのメカニズムである。しかし、これが人間存在の真理だと思う。世界の摂理だと思う。

誰もが出来るこの「物語り」の書き換え。実はここに幸せに生きられない謎が隠れているのではないか。なかなか逃れられない不愉快な感情のワケが隠れているのだと思う。逆に、自分の人生を幸せに生きるコツ、自分を好きになる方法、そして、英雄になるために枯れないモチベーションを手に入れる源が隠れているのではないか。自分もきっと、坂本龍馬やココ・シャネルになれるはず。

 

感情が沈んでいるときは「老婆」を見ている、歓喜に沸くときは「美女」を見ている

世界は複雑だから、毎日は忙しいから、日常触れるその世界をこのだまし絵のようには単純に考えられないかもしれない。しかし、原理はだれしも理解できる。私たちは、この意識ある限り、一瞬たりとも「だまし絵観察的存在形式」から逃れることが出来ないのである。それが人間という存在なんだと思う。

普段、通う通勤路が憂いを帯びるのは、その時、自分が憂いの物語りを纏っているからであり、路傍の石が時に輝いて見えるのは、その時、自分が心躍る文脈を帯びているからである。「老婆と美女のだまし絵」の如く、見ている対象はなにもかわらないにも関わらず、何気ない日常の一こまは、沈んだり輝いたりする。それは誰しも経験があるにちがいない。客観的世界は物語りを持たない。世界を自然科学的に観察すると、そこに意味は見いだせない。要素還元主義的分析では世界は意味を失ってしまう。物語りは、人間の存在形式そのものにある。意味も無意味も、私たち自身の存在形式が作り出しているにすぎない。それを「老婆」と見るか、「美女」と見るかは、私たち自身が決めている。私たちは、きっと自分自身の感情を選ぶことが出来る。

 

市場をメカニズムと見るか、顧客の声の集積と見るか

マーケティング活動もここにコツがあるのだと思う。対象物を、物語りをもつ顧客の声の集積として眺めるか、無機質なメカニズム・運動として眺めるか。データを分析し市場の力学を読み解くとき、私たちは市場を無機質な運動として眺めている。一方、商品に対するレビューやお客様の生の声に触れるとき、市場は物語りの絡み合いに見えている。物語りが複雑に絡むとき、セグメンテーションはうまく機能させられない。それはほつれて絡み合う糸を解こうとして途方に暮れるのに似ている。マーケティングは顧客の声を聞くこととはちょっと違う。それは「老婆」と「美女」を切り替えるメカニズムであろう。今、あなたは、対象市場を何と見ているのか、意識してみよう。

朝、起きるのが辛い時、人間は肉体の疲れを「老婆」の物語りとして捉えてしまうのだろう。肉体の疲れは客観的世界だろう。しかし、疲れにも心地よい疲れとうんざりするような疲れがある。心地よい疲れは充実感・達成感物語りであり、うんざりする疲れは、ふてくされて引きこもる物語りである。

 

仏教の「空」=「老婆」、一神教の「神話」=「美女」

近代というメカニズムはキリスト教が作った。仏教でも、イスラム教でも、ヒンドゥー教でもなくキリスト教プロテスタントの「物語り」が作った。プロテスタントたちの集団的・英雄的行動様式が時間をかけて資本市場という渦を形成した。伝統主義が支配していた人間社会を、資本を中心として循環する終わりのない回転に書き換えてしまった。その源は宗教的神話だったが、その末流は、自然科学的メカニズムとなった。地球上の一握りの狂信的物語りが、世界を支配する潮流を起動させたのである。そして、今、世界はそのひとつのメカニズムに覆いつくされつつある。私たちはそれをグローバリズムとかと呼ぶ。

出現した資本主義やグローバリズムは、仏教の「空」に似るメカニズムである。それは客観的で感情のない世界観である。人間の集団である社会を、星の運航の如く無機質な運動として見る。そこに意味は見出さない。物理学で言うエントロピー、医学・生物学としての人間の肉体観である。自然科学的人間観である。その時、人間の脳は電気信号の集積にしか見えない。仏教的世界観である「空」は世界をありのままに記述するが、私たちに生きるエネルギーは与えない。

私たち人間は、「空」のような単純モデルで真理や摂理を見定めたのち、「あえて」、一神教的神話を作り上げなければならない。客観的メカニズムとして現代の世界を“わかった!”ら、イノベーションのタネである「物語り」を妄想しなければならない。「あえてするロマン主義」「あえてする武士道」「あえて作る英雄伝」である。私たち自身が世界を「美女」としてみるように仕向ける「浸りたい神話」創造である。

仏教は世界を「老婆」として捉え、キリスト教は世界を「美女」として捉える。真理は仏教=老婆の側にある。しかし、生きる意味はキリスト教=美女の側にある。世界に客観的生きる意味はない。生きる意味は私たちの物語り、ことばが作り出す。

 

ぼくらは昼間から夢を見る

世界を「老婆」と捉えるか、「美女」と捉えるか。それはマーケティングとイノベ―ションの関係にも似る。マーケティングで摂理を掴み、イノベーションで世界を刷新する。人々が気が付かず描いている「あたりまえ」の世界観を、歓喜の物語りで書き換える。小さくとも、共感と納得のことばが紡げれば、世界は一瞬で書き換えることが出来るのである。

だから私たちは、昼間から夢を見る。そして、夢をことばに置き換える。世界はスマホでつながった。21世紀、世界はひとつに絡み合う。もはや、切り離すことは叶わない。だから、世界は一人の妄想が書き換える。一瞬で人々の物語りを書き換えてしまう可能性を常に秘めるメカニズムである。

I don't dream at night. I dream all day. ;I dream for a living.

「わたしは夜夢を見るんじゃない。いつも夢を見ている。生きる糧として夢を見ている。」

(スティーブン・スピルバーグ)

 

「老婆」と「美女」のだまし絵のメカニズム。それが人間存在の真理なのであろう。世界はものの見方・考え方で出来ている。幸せや感動は、私たちの隣に、いつもすぐそこにある。

世界は一瞬で変えられる。人間にはその能力が備わっている、そう思う。