シニフィエ・ノート©_読解力を高める練習場
真理・摂理と形式論理
世界を読み解くこと。それが読解力ということであろう。田原総一郎のように話を無秩序・ぐちゃぐちゃにするのではなく、誰にでもわかるように秩序立てて提示できる力。「誰にでも」が自分になったとき、それはそのまま読解力・理解力である。
読解力のための道具が形式論理である。頭の中の道具である。形式論理とは、「AはAである(同一律)」を直和的に積み上げること(矛盾律・排中律)。シニフィエ(意味)を漏れなくダブりなく捉える方法論である。あいまいさや混乱を排するように組み上げること、といってもいい。頭の中のゴミを取り除き、スッキリさせる方法論。世界を「そのように」取り出すことである。
世界の真理・摂理は、あいまいさや矛盾、「AはBであってBではない」ということはいくらでも起こりうる。それをいったん排除して表現することは「仮り」でしかないが、そうした仮定のもと世界を切り分けていくと、人はなぜかわかった気になれる。なぜ“わかった!”という感触を得られるのかよくわからないのであるが(おそらく人間という生命が秩序を愛でるゆえ)、それが、それのみが、世界を捉える方法であり、他者と世界を共有する作法である。あたかも現実世界の「骨組みだけ」をやり取りするかのように、大事な部分のみを取り出し(抽象)、その他の部分を捨て去る(捨象)ことで、他者と同じものを指し示して共有しようとする。この時人は、認識した、共通の認識を持った、そう感じるのである。生命のリズムが一致したように感じる。人間は初めて集団で暮らすことができる。世界は形式論理で秩序づけられている。
形式論理は真理ではない。しかし、真理は共有できないし、人間には認識できないようなのだ。形式論理で「仮り=モデル」を設定することでしかなぜか人間は世界を認識できない。それが人間の能力なのであろう。「一瞬の瓦礫に星座を見る(アレゴリー)」ように、どうしても人間は世界をある秩序(文脈・物語り)で見てしまう動物でもある。人間という生命は完全なる無秩序に耐えられない。「東西南北・前後左右」という仮の座標軸を置いて世界と一体化(把握)しようとする。
読解力をモデル化する_シニフィエ(意味)を直和分解し再構成する力
捉えたいのは、目に見える・音に聞こえる「ことば」ではない。その目に見える部分が引き連れている目には見えない「意味」である。それをシニフィエという。ソシュールが『一般言語学講義』で使ったモデルである。目に見える部分をシニフィアン、目に見えない部分(意味)をシニフィエとして区別して見せた。これで人間は、ことばの「意味」だけを取り出して考えることが可能になった。
「読解力」とは「シニフィエ(意味)をわかりやすくする力」と言える。目には見えないことばの意味を、人類共通の方法論である形式論理のルールに従って分類・整理する力のことである。漏れなくダブりなく分解・グルーピングすることを数学用語で「直和分解(ちょくわぶんかい)」という。つまり、「読解力」とは
「シニフィエを直和分解し再構成する力」
と定義できそうである。
「読解力」という目には見えない能力も、これでなんとかモデル化できる。そのための素地が整ったと言えそうである。これをもとにして議論を進めたい。
シニフィエはマトリョーシカ
対象であるシニフィエは、実はマトリョーシカ構造になっている。正確には、マトリョーシカ構造で取り出すしか、現実世界は理解できない、というべきか。形式論理の「漏れなくダブりなく」は、さらに階層構造になっているようなのである。
人間はなぜか、この階層構造も理解できるようだ。その時、どれくらいの階層構造をイメージしているのかは、なかなかすぐには意識できないことが多いだろうが、ゆっくり考えていくと、それでしか世界を表現できないことに気が付くことだろう。ラッセルのいう「論理の階梯(はしご)」である。
論理的なコミュニケーションを交わしているとき、人は自然とこの階梯(はしご)を上ったり下りたりしている。しかも、一瞬で。読解力上級者は、この「論理の階梯」の上り下りがスムーズだ。顕微鏡のような目で物事を見ていたかと思うと、次の瞬間、彼の目は宇宙のかなたにズームアウトされる。そして、また、一瞬で焦点はある一点にフォーカスされる、というように。自分自身が今、どこにいるのか、どこにいて世界を説明しているのか。「読解力」を磨く場合、それはとても重要である。
世界から何を取り出しているのか_「視座×視野×視点」を定める
「真理はテーブルには乗らない」ロシアの哲学者ミハエル・バフチンのことばである。世界の真理は複雑で、しかも、巨大である。とても人間の能力ですべてを一気に把握することは出来ない。人間に出来るのは、部分の骨組みを少しづつ取り出すことのみである。
ゆえに「世界のどこを取り出しているのか」、それを意識することが重要である。世界の意味(シニフィエ)は、広くて複雑な無限マトリョーシカ。そして、そのすべてを一気に捉えられないとしたら、「今、自分はどこから見ているのか(視座)、どの範囲を見ているのか(視野)、どこに意識を集中させて見ているのか(視点)」を明確にすることが求められる。視座・視野・視点をいつもはっきりさせる。そうしないとシニフィエの境界がぼやけてしまうだろう。スッキリ理解するという現象は起こりようがない。
巨大な真理の世界から、切り出す範囲を明確にすることは、それ以外の世界を切り捨てることでもある。そうして、仮の世界は手の内にいったん収まるのである。そして、その取り出した世界を、同時に、直和分解して再構成してあげること。形式論理の手法で漏れなくダブりなく秩序立ててあげること。あたかも一つの建築物のように骨組みを設定してあげること。モデル化してあげること。これが「読解する」ということである。世界を“わかった!”気になれる科学的アプローチそのものである。これで他者との共通の土台が浮かび上がる。はじめてコミュニケーションが可能になる。
訓練を繰り返す_シニフィエノート©
あとは実践を繰り返す。白いキャンバス(ノートや白版)に理解しようとしているシニフィエを書いてみる。なんにも書かれていない白い紙は、読解力を練習する最高のフィールド(練習場)である。
試しに以下のことばの「シニフィエ」を絵にしてみよう。直和分解(再構成)を忘れずに。視座・視野・視点を忘れずに。
1.「12か月_1月~12月」
2.「縦・横・高さ」がある箱
3.マーケティングの3C(Customer・Competitor・Company)
4.市場の大きさと競合性
5.運転資金
6.バランスシートの社会的連鎖
7.商流
8.バリューチェーン
9.5フォース(取引に働く5つの力)
10.財務循環と事業のスパイラルアップ
どうだろうか。ちょっと事例が難しいかもしれない。
実際の仕事の現場では、それこそ無数にシニフィエは存在する。人に何かを伝えるとき、必ず、ことばを発する前にシニフィエを絵にしてみよう。キャンバスがなければ頭の中のキャンバスでもいい。何度も何度も、白いキャンバスに自分を対峙させる努力をしよう(練習場に足を運ぼう!)。それが読解力を高める一番の近道である。まずは自分だけの「シニフィエノート©(練習場)」をこしらえよう。
仕事が出来る人(説明が上手な人)は、すぐに絵を描く
私の知り合いの仕事が出来る人は、バッグにいつも小さなホワイトボードを持ち歩く。スケッチブックを持ち歩いている人もいる。ミーティングの際、何かというとホワイトボードにイメージを描く人もいる。みんな仕事が出来る、説明が上手な人たちである。
仕事が出来る人の共通点は、「はじめにことばありき」ではなく、「はじめにシニフィエの図ありき」である。シニフィエの図柄を先に思い浮かべ、それをまず叩く(分解・再構成する)。まずシニフィエを整理整頓してから、そこにことば(シニフィアン)を置いていく。だから、ことばの選択が自由自在で軽やか。例え話やアナロジーが自在に使いこなせるのも特徴である。そこに時間軸を加えると論理的帰結が導き出せる。世界がこの先どうなるか、それをもわかってしまうのである。シニフィアンよりシニフィエが大事である。
その絵はかなり適当な、殴り書きのようなものであることも共通点である。細部を細かく正確に再現することより、今、頭の中にある「図柄」の全体感を写し取ることに集中する。時間をかけていたら、頭の中から消えてなくなるかもしれないことをよく知っているのである。正確性よりスピード。細部は後で書き足せばいいのである。
はじめて取り組もうとする人は、最初は、直和分解・形式論理がうまくつかめないかもしれない。シニフィエが頭の中に存在することすら捉えられないかもしれない。しかし、人間にはその能力が備わっている。毎日、家を出て会社に通勤することが出来るのなら誰しも、訓練次第でシニフィエをくっきり絵にすることはできるはずである。そもそも社会はすべて「シニフィエ」で出来ているのだから。毎日、そのシニフィエの森の中をかき分けて目的地までたどり着く。
読解力を高めるには、数多くのシニフィエを絵にする訓練あるのみ。筋トレのように、地道にトレーニングを重ねてゆきたいものである。
会社としては、シニフィエノート©の使い方をもっと開発していく。社員の皆が、近代社会を生き抜く力・自力で稼げる力を身に着けることを信じて。
それは大きな社会貢献だと思っている。
シニフィエノート©、お試しあれ!
何度も何度も「素振り」を繰り返す。