『13歳からのアート思考』を読んで

いい本に出会えた

社員のひとりから『13歳からのアート思考』なる本を紹介してもらった。読みやすい本だったので一気に読んでしまった。こんな本が売れてるんだなぁと、その内容に嬉しくなり、私なりに感じたこと、考えたことを書き記したくなった。

中学・高校の美術教師である末永幸歩さんが書かれた本である。とてもセンスがいい。いつか一緒にお仕事をさせていただきたいなぁと自然に思わせてくれる方である。「ビジネスだろうと学問だろうと人生だろうと、こうして『自分のものの見方』を持てる人こそが、結果を出したり幸せを手にしたりしているのではないでしょうか?じっと動かない1枚の絵画を前にしてすら『自分なりの答え』をつくれない人が、激動する複雑な現実世界のなかで、果たして何かを生み出したりできるのでしょうか?」プロローグで末永さんはこのように書く。同感である。人間の人生は自分が何かを作ることによってこそ豊かになるのであって、正解を探り当てることによっては幸せな感情は生まれない。とてもまっとうなことをまっとうに書かれている本だと嬉しくなった。

 

アート思考とは_興味の種、探究の根、表現の花

著者の末永さんは本書の中で「アート思考」というものを考えようとしている。アート思考とは生きることそのもの。まず、自分の中の「興味の種」を見つけ(殺さずといったほうがいいか)、「探究の根」を張り巡らし、時折、「表現の花」を咲かせるようなものだという。その「生きること」そのもののエネルギーが自分の中心にあって、しかも、大人になってもズーっと自らが育て続ける、そんな生き方そのものをアート思考といっている。ゆえにアート作品とは、大衆受けする作品を大量生産する「花職人」が作ったものではなく、作品を生み出すまでの探究の文脈が、ある物語りとして表現されたものである。試行錯誤の結果、実を結んだであろうひとつの意味の絡み合いをこそ想像力豊かに見たいものだ。

 

近代を生きる私たち

近代を生きる私たちは、生まれてからずっと「いい学校・いい会社・いい人生」という図式を社会から構造的に押し付けられて大人になる。親からも先生からもそう言われて育つ。自分が立ち止まって「あえて」自覚しなければ、この図式が崩れることはない。たいてい私たちはこの社会には正解なるものがあると思っている。自分の興味を自由に「探究する」のではなく、安心・安全・便利・快適につながる「正解」を求めてやまない。

しかし、それも度が過ぎると、生きる意味そのものを破壊してしまう。いや、生きる意味が感じられなくなってしまうと言ったほうが正確かもしれない。自分の中から感じる豊かな心がなくなってしまう。自分の頭で考える習慣が消え去り、この社会は誰かが正解を教えてくれると勘違いする。あたかも参考書の後ろのページにある「模範解答」を覗きに行くかのように。

13歳からのアート思考』は、そうした私たち近代人が陥りがちな生活態度・生きる姿勢そのものに警鐘を鳴らす。論調は穏やかだが、ことばの裏にはどうしようもない憤りのようなものが読み取れる。赤いものを見ながら、周りのみんながそれを青として過ごしている、そんな感覚を訴えたかったのだと思う。普段は言の葉にも上らない生活態度の前提そのものをこの本は問う。

 

理科系だけでは生きる意味を見出せない

21世紀に入り、ますます、理科系学問への傾斜が激しい社会であるが、理科系学問が身上とする論理思考・分析思考だけでは生きる意味は生み出せない。「生きる意味」というやつを、論理・分析思考のみで突き詰めると、究極、人間は死んだほうがいい、ということにしかならないだろう。論理的に言えば私たちは、息をしているだけで周りに迷惑をかけている存在だ。自らの「探究心」をなくせば、論理的にはいないほうがいいとしか答えは導けない。もっとも科学的だといわれる仏教は、生きることは苦だといいきっている。輪廻転生を断ち切り、二度とこの世界に生まれ出ないことこそが涅槃である。

ITそのものにも生きる意味は紡げない。システムはあくまで人間活動の補助でしかない。最初にあるのは「何がやりたいか、何を知りたいか」であって、それに答えるようにシステムは設計されるのみ。尊いのは人間のほうであってシステムではない。

分析思考の行きつく先に「生きる意味」が見出せるわけではない。そういう意味で人間社会は底が抜けている。生きる意味は、物語りの絡み合いの中に、時折訪れる現象でしかない。生きる意味は感じるしかすべがない。まさに「アート思考」の中で時折現象する「作品=文脈」、それが私たちに生きる意味を感じさせてくれる。

 

人間を好きになる心

織物のように文脈を紡ぎ、重ね合わせるように織り込んでいくことでしか、私たち人間が意味を感じることは出来ないのである。意味はどこかにあるはずと探すものではないのである。分厚いことば(意味)の絡み合い、重なり合いを作りこむことでしか死なない理由は手に入らないのである。

私たちの感情は、そうした物語りに反応するようにできている。もともと怒りっぽい人とか、落ち込みやすいタイプとか、そんな人は存在しないのである。もし生きる意味を感じることができないのならそれは、「落ち込むような」「気分が沈むような」文脈を、自分自身が招き寄せ、生成しているだけなのである。私たちの感情は、私たちのことばで現象する。生まれながらの感情などない。人間のタイプ分類など無意味である。

逆に人を好きになるといった感情も文脈による現象である。それこそ恋心は、自分が浸る物語りで現象する。恋愛映画を見たあと、好きな人に会いたくなるのは、好きな人が変化したからじゃないだろう。自分の文脈、その人に対する物語りが変化したのである。自分の「好き」も、ことばで作ることが可能である。

人間とはそういう生き物である。底が抜けた、論理的には消えてなくなる運命にある「物語り」という織物に浸り生きている。自分自身が文脈そのものである。だとするならば、よりよく生きることは結構カンタンにも思えてくる。あくせく正解を探すより「アート思考」を実践すればいい。興味を起点に探究生活を始めることだろう。

 

自分自身の感情は織物の一部だということ

自分自身も織物の一部なのだから、客観思考なる言葉はいただけない。それが科学的思考だと勘違いしている向きもあるが、そうではない。それは単に当事者意識の欠如を表しているだけである。「興味のタネ」を他者に明け渡してしまっているのであろう。市場システムに取り込まれてしまっているのだろう。

会社ではよくある現象である。一生懸命考えている、懸命に仕事に取り組んでいるつもりなのだが成果につながらない。そんなときは振り返ってみるといいのではないか。自分の本当の「興味のタネ」はどんなカタチをしているのだろうか、と。会社で行われているゲームの主活動にその興味はきっちり刺さっているのだろうか、と。

もしハマり感が感じられないのならば、自分の興味のタネを再構築・再生産することだろう。

 

生産性は「名を正す」ことから、生きる意味は「ことばを紡ぐ」ことから

13歳からのアート思考』を「会社で働く」に重ねてみる。すると見えてくるものがある気がする。それは一言でまとめると「ことばにこだわること」ではないだろうか。働くことで生きる意味を感じたいとすれば、仕事をことばで振り返り、物語りを内面から生み出すように内省を繰り返すことではないか。自分の興味関心を育て、その起点を失わないように整えること。仕事をワクワクする物語りで捉え返し続けることであろう。

一方、業務を効率的に回したいのなら、ことばを定義づけ、固定し、皆でそれを共有して使う。あえてそこで自分独自の「ことば」の探究をしてはいけない。効率が求められる現場でそれをしてしまうと、コストは膨らみいずれ持続可能性は消え去ることだろう。アートと効率性を混同してはいけないだろう。

 

「生きること」と「生き残ること」の両方が求められる事業という現場では、その使い分けが組織的に求められている。

しかし、近代人の典型は、効率のほうに傾いている。効率よく正解を吐き出す訓練を子供のころから受けている私たちは、むしろ、「ことば」を紡ぐことをしなくなって久しい。それが生きる意味を失ってしまうということも教えられずに、みな大人になったのである。『13歳からのアート思考』は、そんな私たちへの警告であると同時に、身近なアート作品から「生きる意味」を紡ぎだす方法を教えてくれるエールでもあるのだと思う。

21世紀の世界の課題、そして、なんといってもこの日本の課題を的確についた良書だと思う。

心が嬉しくなる本に出会えた。