経営者の実践知_世界にある2つの論理思考をめぐって

経営者の実践知_世界にある2つの論理思考をめぐって

世界のスタンダード vs 日本型

現在の世界には2つの論理思考があるように見える。日本以外の、特にプロテスタント×アングロサクソンの人々がよって立つ巨大建築物のような論理思考。ここでは長期的一貫性が重視される。一方、日本人がよって立つその場限りの論理思考。結んではほどく「空くう」ベースの論理思考である。その場、その時の空気が重視される。便宜的に、プロテスタントのスタイルを「巨大建築物型」論理思考、日本人の習慣となっている方を「その場限り型」論理思考と呼ぶことにしよう。さて、双方、現実の経営の現場ではどんな絡み方をしているか?

世界のスタンダードは「巨大建築物型」の方である。近代社会がキリスト教プロテスタントのエートスから生まれたことを考えれば当然といえば当然であろう。民主主義も資本主義も、この「巨大建築物型」の論理思考で出来上がっている(正確には「作ろうとしてきた!」)。ゆえに、複式簿記で表現できる機能集団としての営みは全て「巨大建築物型」論理思考を基本に据える。バランスシートを活動の原理としない機能集団は破綻する。巨大建築物型=形式論理=複式簿記である。

会社組織も当然「巨大建築物型」である。バランスシート的「論理一貫性」と市場の変化に対応する「現実妥当性」のバランスの上に乗る。事業を発展させる道具は、この「巨大建築物型」論理思考である。モノを売るとか評価制度を考えるとか、経営計画を作るべきか否かといった問いへの答えは「利潤最大化」を仮定に据えるとすんなり答えられる。単純に表現すると「絶対に財務諸表から離れないこと」である。プロテスタンティズムの目的合理的精神は複式簿記に集約される。

 

現場で起こる割り切れなさ

しかし、である。「巨大建築物型」論理思考が世界の真理を現わしていると思い込むのは早計である。「巨大建築物型」はあくまで便宜上の道具でしかない。物事を単純化するのに便利なだけであって、それが真理というわけではない。ここに現場で起こる「割り切れなさ」の原点がある。

実は、この世の「摂理・真理」は、日本人が得意とする「その場限り型」論理思考の方にある。仏教の諸行無常・諸法無我を思うとき、そして、理論物理学の成果やAI進化の道筋を考えるとき、西洋の「巨大建築物型」、すなわち、形式論理=記号論理では世界を記述できないことに気が付く。世界はひとつの「巨大建築物」ではない。世界は、仏教思想の「縁起」モデルでこそ表現できるトポロジー空間であり、そこにあるとされている座標軸は、その時々の人々の思い込みでしかない。しかし、それだとあまりにも複雑なので、西洋社会では「巨大建築物型」の方が採用された(歴史的な真実は偶然でしかないのだが)。現実を「仮り設定」して、どんどん前に進もう!そういうことにしたのである。(これ、すなわち近代の作法=安く早く間違える!)

 

これが経営の現場でぶつかる「割り切れなさ」の原因である。西洋的な「巨大建築物型」思考、すなわち、形式論理的=財務諸表的思考で現実に対処しようとすると、どうしても割り切れないところが発生してしまうゆえんである。

 

活動の基礎には数字を据えるが・・・

活動のベースには「巨大建築物型」論理思考を置く。しかし、それは真理ではないことを知る。つまり、企業活動の基礎には数字を据える。しかし、それはあくまで道具として使いこなすことが前提ということである。とても大事な経営の実践知である。

 

数字を活動の基礎に据えるとは「その事業独自の管理会計を作りこむ」ということに尽きる。現場の個別の活動をKPIに落とし込むこと、これである。この時、必ず「割り切れない問題」が発生する。でも、もう怯む必用はない。割り切ってどちらかに寄せた時、それが正解かどうかより、数字で評価指標をこしらえること「そのもの」の方が重要だと認識することである。カギは「現場の活動が数字によって方向付けられているかどうか」である。その指標が真実かどうか、ではない。指標が間違っていたと思ったら、経営の責任で修正を施せばいい。そこにあるのは真理ではない。道具的精神である。

管理会計の現場で、うまく割り切れない問題にぶつかる原因は、突き詰めればそういうことである。管理会計は形式論理・記号論理の世界観。だから、現実の真理・摂理は絶対に表現できない。そこには必ず「妥協(裏返すとパラドクス)」が入る。でもそれは「必要な妥協」なのである。経営者はそれを「意思決定」する。経営とは正しさを求めることではない。必要な妥協をし、現実世界で成果を上げることである。「正しいことをするのがマネジメントではない。ものごとを正しく行うのがマネジメントである。」ドラッカーのことばである。

さわやかに回避することである。いつまでも逡巡しているのもダメ。無邪気に数字が真理を現わしていると思い込むのもまたダメである。経営はいつも矛盾の中にいる。

 

経営者の実践知_その時何が求められているのか

「巨大建築物型」論理思考を道具としながらも、その限界も知っていること。経営の現場ではこの認識が”最も”重要である。でも、「その場限り型」論理思考を得意とする日本人には、これがとても難しい。

 

戦後日本はアノミー社会に陥った。ゆえに、基本、不安な人々は常に「すがりつく何か」を探している。それが自分の内面であろうが、社会的権威とされているモノ・概念であろうが何でも、である。マネジャーを志す優秀な人間の場合、それは何かの技術や知識となることが多い。かなり込み入った知識であれば、他者を向こうに追いやることができるからとても使い勝手が良い。不安な心も一時、癒される。それはだいたい「専門知識」と呼ばれている。プログラム開発や商品開発、ネットにおける集客、などなどである。しかし、経営者の実践知はこうした「専門知識」の中にはないのである。マネジメントの実践知は「専門知識」の外にある。それはMBAではなくむしろ哲学や思想史の中に眠っている。

 

でも、実際は、成果に本気で責任を持つと、哲学や思想史を学ばなくともそうした世界の真理に気が付くことがある。枠にとらわれない経営者の発想はここからくる。しかし、ほとんどのサラリーマンは、公的責任より私的満足を選ぶゆえ、この「経営者の実践知」に届くことはない。だから、「論理的」に多くのマネジャー挑戦者に伝えたかった。「二つの論理思考のはざまで」わかりやすく表現できただろうか。

 

「経営者の実践知_その時何が求められているのか」

それは、すなわち、常に「なされるべきこと」を考えるということ。したいことなどどうでもいい。社会メカニズムを読み解き、すべきことを、使命感をもって遂行する。その心意気に経営(マネジメント)の神髄は隠れているのである。

正義感こそが経営者を作る。

社会をメカニズムとして刷新しようとする青年の大志が経営者を作り上げるのである。