我、潔くあるか

我、潔くあるか

今、求められているもの

幼いころから私は、父に「努力しろ」とだけ言われて育った。だが、若い私はそれに反発した。物心ついたころから私は父が嫌いで仕方なかった。正直、鬱陶しくて顔も見たくなかった時期が長い。何とか父と顔を合わせないように部屋に閉じこもった浪人時代。でも、今、そんな父のことばをよく思いだす。

思春期の私は、理由なき努力など無意味だと思っていた。なんでわざわざ辛い思いをしなければならないのか。努力には目的があるはずである。その目的がはっきりしない以上、力など入るはずがないではないか。その思いを最近まで引きずっていた。

そんな私が30歳を目前にして今の会社を起業した。それから20年。何がこの社会にとって大事なのか、人間はいかに生きるべきかを考えている。そうして思い至ったことばが「潔くあれ」である。意図せず父のことばに似通ってきてしまった。努力こそ大切である。自身に向かって、そして、社員に向かってそうしたことを話すようになった。

 

社会はそもそも底が抜けている

私たちが棲む「社会」というやつには、実は、正邪を論理的に判断する根拠も、正しい目的なるものも存在しない。正しい生き方など、そもそも存在しない。それは古代ユダヤ教からキリスト教プロテスタントによる宗教改革や、ムスリムの聖典クルアーン、仏教の空の原理、儒教の礼を渉猟すれば明らかだった。世界75億人の人間たちが、それぞれ異なる行動規範に生きている。そして、無宗教の日本人だからこそ気が付くのだが、そこに確固とした根拠はない。どの世界宗教の教義も、根拠はすべて神話でしかない。誰が書いたとも証明できない「ことば」を信じて生きているのである。

しかし、その無根拠の教義に掻き立てられて、近代資本主義や民主主義は現象した。中世のヨーロッパ人は、予定説なる奇妙な物語りに駆り立てられて、集団で英雄的行動を巻き起こす。カルヴァンなる宗教的天才の存在も忘れてはいけないが、それでも根拠の起点は聖書なる物語りでしかない。パウロなる昔々の狂信者の言を、疑うことなく信じれたのはなぜなのだろう。

しかし、ここにこそ人間の生き方という意味での本質が隠れているのではないか。最近の私はそんなことばかり考えている。

この社会に根拠はない。すべて、ことばの重なり合い、絡み合いの中で起こる現象である。真理はむしろ仏教の唯識論にこそある。すべては移り行く泡沫の世界である。

でも、世界が無常で無我だということを納得したとして、ならば自分の存在は無意味とばかりにこの命を絶ってしまうのだろうか。多くの人間はそんなことはしないだろう。たとえこの世界が論理的に無意味だったとしても、生きることはそこそこ楽しい。運が良ければ連帯という歓喜や奇跡的な達成という感動を味わうこともある。

そこでふと考える。論理的に無意味だということと、歓喜や感動という生きている意味はつながっていないのだろうか、と。やはり、奇妙な教義に命を預けたパウロやルカは、英雄なのかもしれない・・・

ならばどうしてそんな英雄が世に出たのか。論理とは何か。人間の生きるエネルギーの源はどんなメカニズムをしているのか。

 

日本から潔さが失われてしまった理由

宗教社会学なる学問分野がある。マックス・ウェーバーが形作り、日本では大塚久雄博士や小室直樹博士が紹介した。私は創業以来、人間のモチベーションの謎(メカニズム)を解き明かしたくて暇さえあれば読んできた。

その研究からすると今の日本人から潔さが失われてしまった理由は明らかだ。直接の引き金は敗戦による天皇の人間宣言だが、その心的構造は、神に対する心の構えにこそある。

日本人は神に祈る。不作の時も子供が出来た時も、はたまた恋愛成就もなにもかも。初詣に限らず、何か人生の岐路に立たされた時、日本人の多くは神に祈る。「どうか願いをかなえてください」。無理かもしれないと頭でわかっていても、日本人の多くにとって神頼みは習慣である。

しかし、21世紀の現在まで残っている世界宗教と目される5大宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教・儒教)は神に祈らない。原則として人間は、神に支配される立場なのである。人間に意思はない。人間の行動は、神の意志に「余儀なくされて」決まるものとされる。神と内面で対話するときは、神のご意思を聞いているのである。何とかしてもらおうと頼んでいるのではない。

これはとんでもない事実である。日本人の心の習慣と、宗教をいただく多くの外国人の心の習慣は、その根本的なところで180度逆さになっている。日本人は基本「お願い=無責任」の構造。外国人は基本「運命の引き受け=責任」の構造である。

日本も明治維新期にこの「運命の引き受け=責任」の構造を持った時期は存在する。吉田松陰や坂本龍馬などの英雄が排出されたその心理的な原理に、この「責任」の構造があった。予定説を原理とするプロテスタントの神の位置に天皇が位置付けられていたのである。江戸期の崎門学派を源流とする尊王思想が花開いた時期である。しかし、1945年の敗戦でその構造は吹き飛んでしまった。そうして日本はアノミー社会に陥る。もともと底が抜けている社会の「底」が衆人のもとに晒されてしまったというべきか。私たちの世代はこうして生きる意味(エネルギー)を失った。生きる意味の喪失は、そのまま私たちから潔さをも奪い去ってしまったのである。戦後、もうすでに75年である。

 

努力しなければ卑怯者に成り下がる

私たち戦後生まれの世代は、死なないために、自分で生きる意味を紡がなければならなくなってしまった。西郷隆盛や高杉晋作が子供のころから植え付けてもらった生きるエネルギーを、自分の力で作り、育てなければならなくなってしまったのである。しかも、その構造に自力で気が付かなければならない。なんとなくダルい、といったどうしようもない感覚の原因を学校も政治家も教えてはくれない。マスコミも経営者も誰も教えてはくれない。生きる意味を見失ってしまう前に、私たちは今後も、自らことばを紡がなければならないのである。

そうした追い込まれた努力を怠るとどうなるか。成れの果てはみずから命を絶つしかない。そこまで行かなかったとしても当然、人間は損得勘定しか考えなくなるだろう。どうすれば人よりもいい座席にありつくことができるのか。男も女も、人生とは座席争いになり果てた。ぶん回る近代の鉄の檻にしがみつくのに忙しくて、自分自身の心のメカニズムにまで思いが至らないのである。こうして現代の日本人は卑怯者に成り下がる。水が低きに流れるように、日本人の心の構造は「お願い=無責任」という浅ましい心に支配されることになった。あえて自分を鼓舞しなければ、私たち日本人はみな、卑怯な民族になり果てる。戦後、もう75年が経過しているのである。

 

卑怯者が会社をつぶす、社会を破壊する

近代社会に住まう会社の原理は明らかである。会社を発展させるため、少なくとも潰さないためには、マーケティングとイノベーションが欠かせない。イノベーションが唯一の経済成長の原理であることは、シュンペーターやドラッカー明らかにしている通りである。

しかし、このイノベーション。必須の精神構造が求められるのである。それが「引き受け=責任」という世界宗教が原理とし、日本社会から消えて久しい心の構造である。卑怯者の対極にある「潔さ」という名の心的構造である。アントレプレナーシップとはすなわち「潔い心」。ドラッカーはIntegrity of characterと表現しているが、一方で、「思っていることと、言っていることと、やっていることが一致していること」とも言っている。真摯さとか誠実さとも訳されている。それがすなわち「潔さ」である。

イノベ―ションがないと会社はどうなるか。いや会社だけではない。社会全体はどうなるか。それはソ連の崩壊を見れば明らかだという。小室直樹さんがその著書で明らかにしている。資本主義社会は、イノベーションなくして維持できない。そして、イノベ―ションは「潔さ」なくして維持できない。近代社会も当然底が抜けている。ぶん回る資本制生産システムをコントロールするには、そのエンジンはクレイジーにならざるを得ないのである。そこに論理的な正解はない。あるのはエネルギー源という名の哲学でしかない。

 

「潔さ」は現世拒否の精神からしか生まれ得ない

三島由紀夫の死の理由をよく考えてきた。武士の自害はなぜ可能なのか。人はそれほど勇気を持つことが出来るものなのか。たかだか100年前の日本人のことである。尊王思想という幕末から明治にかけての心的構造を、初代首相の伊藤博文が日本国憲法を通じて植え付けた。近代国家を作り上げたキリスト教予定説の心的構造を洞察し、日本に一神教を植え付けた。

神への祈りをひっくり返し、徹底的に現世拒否の思想を育て上げた。全国の小学校に立つ二宮尊徳の銅像は資本主義の象徴であった。論理的な目的のためではない、努力することがすなわち生きることなのである。その勢いで日本はロシアにまで勝利を収める。日本人が最もエネルギッシュだった時代である。潔い日本人が多数輩出された。

 

我、潔くあるか

そして、いま。

おやじはもう80を超えた。そういえば、昔、幼い私が天皇を馬鹿にしたとき、烈火のごとく怒ったのを思い出す。

「あんなおじいちゃんのどこがすごいの?」と私。「ふざけるなっ!」とおやじ。

その時は全く理解できなかった。でも今、それが明確にわかる。おやじも戦後のアノミーに苦しんでいたのだ。おやじは昭和14年生まれだから、終戦を7歳で迎えたことになる。ちょうど小学校に入学する時期である。数年で物心が育つ時期である。その時期に、天皇陛下が人間宣言を出されたのだ。そのショックたるやいかほどか。天地が崩れ落ちるような感覚だったのだろう。生きる基盤を一瞬で奪われたのだ。しかも、敵はアメリカという世界最強の国家である。呆然とするのが人間だろう。

 

おやじは私に事あるごとに「努力しろ」と言ってきた。ようやくその意味がわかってきた。努力に理由などないのである。必要なのは神話なのである。信じることが出来る神話があるかどうか。

そして、ただただ、その物語りを信じて努力するのみ。それが人間の正しい生き方なのである。エネルギーが溢れて生きる唯一の生き方なのである。死なないための唯一の生き方なのである。

「我、潔くあるか」

日本から物語りが失われて久しい。

今必要なのは「物語り」なのである。自分の生を引き受ける覚悟を迫る「神話のような物語り」なのである。