仕事ができる人といわれるより、戦っている人といわれたい

「仕事ができる」って、今の時代、必ずしもいい意味ではない気がする

今日、朝ベッドから出るのがつらかった。眠いわけではない。昨夜は10時半には床に就いたのだから。もう4時前には目が覚めていた。でも、ベッドから出る気にならなかったのだ。なぜか。少し前にある人がいった一言が気になって仕方なかったのだ。何かが違う。「そうじゃない。そうじゃないんだ。俺がやりたいことではない。それでは意味がないんだ。」悶々と考えているうちに時間がたっていく。でも、会社に行かなくちゃ。今、多くの社員が頑張っているのを知っている。新しいサービスをリリースする直前で社内も盛り上がってきている。しかも、今日は面接だ。沈んだ顔で対峙するわけにはいかない。重い心を断ち切ってシャワーを浴びた。

会社に向かう車中でこの重い心は吹っ切れた。そうか。そういうことか。その人は部下に向かってこういった。「お前は若いし仕事もできるし、いいよなぁ」私はこんなささいな一言に引っかかっていたのだが、その瞬間、謎が解けた気がした・・・。私は「仕事ができる」その一言に引っかかっていた。仕事ができるってどういうこと?それっていいことなのか?そんなにかっこいいことなの?そうじゃないだろ、と。

 

「仕事ができる」人はたくさんいる

思えば著名人の中にも仕事がすこぶるできてすごいとは思うが、魅力的には感じないという人がいる。グローバル資本を操り創業から短期間で世界的企業に育て上げたソフトバンクグループの孫さんなどは典型だ。私などとてもかなわないような頭の切れと努力で、一代であそこまでのコングロマリットを築き上げた。凄すぎて私の批判など寄せ付けないこともわかっているが、でも、どうしてもああなりたいとは思えない。率直に、投資って余計なお世話じゃないのか、と感じてしまう。

インターネットサービスで巨大なグループを築いたGMO。テレビ朝日との事業提携を実現させアベマTVという自社メディアを軌道に乗せたサイバーエージェントグループなどもすごいベンチャー企業だ。とんでもない利益をたたき出している。ゲーム事業を操り、マッキンゼー仕込みの頭の切れと才覚でプロ野球球団を傘下に収めたDeNAグループも際立つ日本の代表的ベンチャーだ。最近はコロナの影響もあり少し苦しんでいるようではあるが『青年社長』の主人公でもあった渡辺美樹さん率いるワタミグループもすごい。挙げればきりがないが、日本の中には「すごい」会社を作った仕事のできる人は山ほどいる。これが日本の底力だと思わせるに十分なラインナップといえる。日経新聞では日本の産業界に対して批判的な記事が目立つ今日この頃ではあるが、こうしたベンチャー企業の創業経営者たちは間違いなく日本の宝である。それは十二分にわかったうえで、それでもあえて、すごい人と魅力的に感じる人を私は分けて見ているようだということに気が付いたのだ。(念のため言っておくが私はこの人たちが嫌いではない。エネルギーのない人がたくさん排出されている現代日本において、こういう人は本心からこの日本社会の宝物であると思う)

 

魅力的な人たち

では、どういう人を私は魅力的に感じるのか。起業家で言えばマネックスグループの創業者である松本大さんがその一例だ。直接お会いしたことはないのだが、なにか感じるものがある。昔から気になって仕方ない存在だった。そう思っていたら先日、マネックスグループの総帥の地位を降りて、新しいベンチャー企業を立ち上げるという記事を目にした。日本の金融の民主化へ自ら身体を張る、ということだと私には読める記事だった。

政治家では令和新撰組の山本太郎さん、自民党の石破茂さん、そして共産党の志位委員長。この方たちも魅力的に映る。発言の筋が通っているからだろう。政治の世界は経験がないのでどのような戦略が有効なのかはわからないが、少なくとも“筋が通った志”という面で感じるものがあるのは確かだ。

知識人の世界では、ビデオジャーナリストの神保哲夫さん。アメリカの巨大通信社をやめ、徒手空拳に見えるような形で志を実行中だ。主催するビデオニュースドットコムは間違いなく日本で一番の「生きる上でためになる」ニュース放送局だ。私も2003年から毎週欠かさず見ているが、今の私を作っている半分はこの番組のお陰と言っても過言ではない。ニュースバラエティと称して視聴率だけしか考えない主要民放各社の「まったくためにならない」ニュース放送とは天と地だ。それから相方の宮台真司さん、東大話法の安冨歩さん、すでに亡くなってはいるが、たくさんの一般向け書籍を書いてくださっている小室直樹さん、先日、自殺された西部邁さん。この方々の話はビデオニュースのアーカイブスで見ることができるが、もう10回以上も繰り返し見ては、自らの襟を正している。

そして、なんといっても経営学の父であるピーター・ドラッカー。彼は、ナチスドイツを目の当たりにし、そうした全体主義への防波堤を築くべくマネジメントなるものを構想し、開発した今の私の恩人だ(と勝手に思っている)。マーケティングとかイノベーションといった、とかくお金儲けの手段と勘違いされてしまうMBA的な理論を、社会改革を担う志を持つ現場の経営者のために実践的に理論化してくれた人だ。そういえば昨日も彼の関連書籍を精読する読書会を社内のコアメンバーで開いたところだった。やはりいちいち感動させてくれ、心に火をともしてくれる存在だ。

 

「社会でうまく立ち回れる人=仕事ができる人」という時代の現実

それにしても、どうしてすごい人がイコール魅力的に映らず、魅力的な人は必ずしも経済的な成功者ではないのか。松本大さんのような例も稀にはあるが、むしろ例外に属するのはなぜなのだろう。そう思っていたら中学の時の先生の言葉を思い出した。曰く「なぜ勉強するのか考えたことがあるか?それはな、君の将来のためだよ」と。今でも巨大な違和感とともにはっきり脳裏に刻まれている。君のためってなんだ?その先生は善意ではあったのだろう。しかし、明らかに教育者としては間違ったことを生徒に教えていたと思う。その先生が言っていた意味はこうだろう。「社会の中でより有利な座席に座るために勉強するのだよ。それが君のためだから・・・」

 

人間の魅力というものは、こうした先生の発言の裏に張り付いている論理とは一線を画すもののように思う。社会の中で生存するために、より給料の高い、よりうらやましがられるポジションを手にするためにする勉強は、どう考えてもカッコよくない。たしかにそれで生活は安定し、家族も両親も安心するのかもしれないが、なにか人間の大事なものと引き換えにしてやしないのか。ドラッカーがマーケティングを全体主義への防波堤と位置付けたように、同じ学校の勉強でも、その大義や目的を社会の不正と戦うことに置かないで自らの座席争いのためだけに置いてしまっては、人生を無駄にしているように感じるのは私だけか。

 

「生きている」人間になるために「戦う」勇気

明確な答えはないのだろう。外から見たら、その活動は一見同じにしか見えないこともあるのだろう。しかし、「仕事ができるからいいなぁ」という言葉に対する違和感は、その目に映る活動そのものというよりむしろ、その人が抱いている文脈、物語り、つまり、なぜそれをやるのですか?という問いへの答えを明確にしているかどうかに依存しているのではないか。私は、その言葉を聞いた瞬間、その裏にある、あさましくさもしい自分本位の物語りを感じ取ってしまっていたのではないか。

しかし、わかっている。So what? それでお前はどうするのだ?だ。問いは結局、自分自身に向けられる。私が言い出しっぺで作るこの会社はどうあるべきか?すくなくとも私はこうした問いに明確に答えるだけの志を持っているのか?物語りを明確に紡ぐ努力を日々しているのか。

でも思うのだ。朝、眠い気分を吹っ切って、ベッドから元気に飛び起きれるような、そうした物語りを私はやはり紡ぎたいのだと。「頭のいい仕事ができる社長として覚えられるより、何かと戦っていた人」と記憶されたい。それが、私の目覚ましになるのだろう。そんなことを考えた。