「世間貢献」と「社会貢献」

「世間貢献」と「社会貢献」は違う

日本人は歴史的に、「世間」と「社会」を区別するのが苦手である。ゆえに「世間貢献」と「社会貢献」を区別するのも苦手である。しかし、世間貢献と社会貢献は違う。

世間貢献とは、身近な顔の見える他者を喜ばせること。一方、社会貢献とは、メカニズムとして捉えた社会というひとつのシステムをうまく回すことによって人々を喜ばせようとすることである。両方とも大切なことではあるが、両者は明確に異なる。

世間貢献は、人間の自然な感情である。誰しも基本的には備えている。身近な他者の笑顔は自己の感情を温めてくれる。孤独は癒され、つながりを感じて強くなれる。生きる意味を感じる。しかし、世間貢献を社会貢献と取り違えると「仕事」は崩壊する。目の前の他者を喜ばせることは「仕事」ではない。会社の中に会社を作り、組織のガンとなる。会社の「仕事」とはあくまで「顧客」を喜ばすことである。

社会貢献に執着し、世間貢献を社会貢献より一段低い価値と考えてしまうと近代社会という「鉄の檻」の奴隷となる。身近な他者の感情を置き去りにし、マシーンのようになってしまう。いつもイライラし、落ち着かない感情に苦しむことになる。人間は社会貢献だけでは癒されない。やはり、具体的な顔の見える他者からの承認は必要である。メカニズムとしての社会システムを「喜ばせ」るだけでは生きている意味は手に入らない。社会貢献の事実を、マスコミなどの具合的他者から褒めてもらうことは、「世間」からの承認であって「システム」からの承認ではない。システムは承認しない。システムは人間疎外の概念である。人間を物化する概念である。そこに体温はない。

 

どちらも尊いものである、でも、両者を取り違えると人生はうまくいかない

どちらも尊いものではある。しかし、両者を取り違えると災厄を招く。両者とも美しい大義を有するがゆえに、取り違えに気づきにくいのも特徴である。しかし、やはり取り違えは大きな災厄を招く。

あなたがもし、「経営者」という存在を「横暴」だとか「独りよがり」だとか「勝手なひと」とイメージしているとしたら、世間貢献をこそ重要だと思い込んでいる証拠である。メカニズム思考が苦手なはずである。組織でなかなかうまくいかないはずだ。上司から認められずに悩んでいることだろう。

これは一般社員に多く見られるケースである。「自分は『社会貢献』したくてこの会社に入ったのに、なんかイメージと違う。この会社は自分の居場所じゃない。上司との人間関係がうまくいかない。きっと私とは合わない人たちなんだ」こんなことばをよく耳にしてきた。世間貢献に社会貢献という意味を貼り付けている。これではどんな会社でもうまくはいかない。

逆に、あなたがもし、「業績をあげること、利益こそ最大の価値である」「業績を上げて雇用を創出すること、それが会社の社会的使命である」と頑なに考えるなら(意識高い系といわれる社員や経営者に非常に多いタイプ)、それは世間貢献をないがしろにしてしまっているかもしれない。部下の内面を破壊しても気が付いていないかもしれない。社員を、部下を、「なんて弱い奴なんだ」と思う傾向が強いだろう。かくいう私はこちら側に傾きがちだった。狂信的な市場原理主義は人間をターミネーターにしてしまう。

 

世間貢献を社会貢献ととり違える場合

例を挙げれば身につまされる。

よくあるケースはシステム開発の現場である。現場のSEが業務の担当者から直接困っていることを聞き出して要件定義をする(え?何が悪いの?と思っただろうか・・・)。そして、全体の統一感を考えることなく短絡的にプログラミングに着手してしまう。わが社でも数年前に実際に起きていたケースである。事業会社が社内SEを置いている組織によくある。こうしたケースでは、SEも現場の業務担当も、もはや上司や経営者の言うことは聞かなくなる。コストは嵩み、スケジュールは守られない。システムの品質もさんざんである。現場は、他者を喜ばせて何が悪い、そう思っている。しかし、やはりこれは「仕事」ではない。

取引先の担当者の笑顔を優先させてしまうケースもある。その他者に「ありがとう」と言ってもらえることに血眼になる。とても気持ちがいいからだ。しかし、これは不正の温床となる。善意をもって罪を犯してしまうことになりかねない。

社会貢献とは、原理的にイノベーション以外にはありえない。なぜなら、相手はシステムだからである。体温のある人間ではない。重ねて言うが「社会」とは人間疎外の「メカニズム」である。人間をモノとしてみなす概念である。

 

社会貢献を世間貢献と取り違える場合

こちらは頻繁に目にするわけではないが、記憶に新しいケースは電通の事件だろう。働かせすぎで女性社員を自殺に追い込んでしまった事件である。語るほど詳しく知っているわけはないが、おそらくこのケース、直属の上司が世間と社会の区別がついていなかった。たくさん働かせるという「社会貢献」をその女性社員の幸せ=「世間貢献」と取り違えた。この上司の内面では「これがあなたなのためだから」と思い込んでいたのではないか。生身の人間をシステムとして扱ってしまった悲劇であろう。

 

21世紀の日本で問われているのは両者の仕分けである

世間貢献と社会貢献を両立させるのはとても難しい。どちらか一方に傾いてしまうケースが圧倒的に多いように見える。

世間と社会は、隣合わせに接続しているわけではい。ここまでが「世間」、ここから先が「社会」というわけではない。そうではなく、同じ対象を自分自身の目的によって「世間」と捉えるときと「社会」と捉えるときがあるだけである。違いは「対象」にあるのではない。捉えるこちら側、私たち自身の「ものの見かた」にあるのである。だまし絵を思い出すとわかりやすい。ある時は老婆、ある時は若い女性に見えるあれである。絵は変化していない。見る私たちの「見かた」が変化しているのである。

 

 

【だまし絵:老婆か、若い女性か】

 

経営者は、業績を上げるという大義名分(社会貢献)のもと社員の内面を枯渇させてしまうことに気づかない。一方社員のほうは目の前の人を喜ばせることを社会貢献と勘違いしてしまい業績貢献がままならない。どちらも独りよがりな目的に執着している。自分だけが正しいと勘違いし、相手から学ぼうとしない。

現実は、両者が0か100かで明確に分かれるわけではないだろう。多くの人は、両者のジレンマを感じているはずである。時に社会、時に世間と揺れ動く。

私たちが棲む近代社会は、世間から社会が剥がれ落ちてしまった世の中である。世界史的にはそれは19世紀のフランスで明確に自覚されるようになったそうだ。日本では、明治期に「社会」という概念が導入された。江戸期には「世間」ということば以外はなかったらしい。つまり、「社会」という見かたは、日本人にとっては輸入物である。自分たちで産み落としたわけではない。だから難しい。意識して学ぼうとしないかぎり、身に付く概念ではないのであろう。

そして、21世紀の日本。

考えなければならないのは、まずは両者を明確に仕分ける訓練をすることだと思う。

「今、自分はどちらの大義のもとに考えているのか」

「対象を世間と見ているのか、社会(メカニズム)と見ているのか」

何度も何度も、自らに問う習慣をつけることだと思う。

 

答えは「楽しみながらのイノベーション」にある

世間貢献と社会貢献。両者を明確に仕分けできたとして問われるのは、両者をどうバランス・融合させるのか、ということである。どちらに傾きすぎもいけない。片方のみに執着しすぎると災厄を招く。

私は、答えはすでに出ていると思う。それは「仕事」としては対象をシステムとしての「社会」とみなしイノベーションを狙うのみ。つまりマーケティング&イノベーションに尽きる。

しかし、一方で、具体的な顔のある「社内世間」も同等に大切にする。決してシステムの奴隷のようには扱わない。

 

それは「楽しみながらのイノベーション」とでも命名できるような経営スタイルである。

もちろん簡単ではないかもしれない。

しかし、正解たる原理に見通しがついている以上、それにチャレンジしないのは怠慢以外の何物でもない。

両者のバランスを達成すべく経営改革しつづけるのが経営者の使命であろう。そして、社員にとっては、21世紀のあるべき働き方であろう。

 

「世間貢献」と「社会貢献」という仕分けからは、そんな新しい会社の姿が浮かび上がってくる。

それは組織イノベーションであり、経営スタイルのイノべーションである。

そして、それがプレコチリコというチャレンジである。