勇気の作り方

勇気の作り方

勇気は現象である

「肉体と精神を鍛えれば勇気は自然と宿るものである」「今の若者は鍛錬が足りないからナヨナヨしてるんだ」「古き良き日本を取り戻せ、そうだ道徳教育の復活だ」「国民の義務を憲法に書き込むんだ」「日本は神の国なんだから・・・by安倍さん」

60歳以上の多くの日本人はおそらくこう思っていた。だから、私たちもそう思わされてきた。学校教育ではいまだ「前習えっ!」「全体ススメっ!」などの軍隊式鍛錬型体育が無批判に行われている。でも、そもそも、古い世代が鍛えようとしている筋肉のごとくイメージされている「物質的_心」なるものは存在しない。手で触れられると考えられている内面などというものは実在しない。気持ちはわかるが、真理を外している。心は現象でしかない。

だからいくら軍隊式の鍛錬を積み重ねても強い人間は出来上がらない。勇気は決して宿らない。せいぜい中身が空っぽな思考停止の「脳みそ筋ニクン」が量産されるだけである。横暴や無茶は勇気ではない。まして上から目線のマウンティングは勇気とは対極の作法だろう。

勇気とは、自己との対話を積み重ね、社会のメカニズムを知り尽くし、自身の内面と社会(≒世界)とがシームレスにつながってきたときに現象するものだろう。同じ志を持つ同胞が存在していると信じられる、そうしたソリダリテ(連帯意識・同胞意識)が生み出してくれるものだろう。

勇気は現象である。それが私たち人間の感情のメカニズムである。戦前戦中生まれの人間がもともと強かったわけじゃない。神であった天皇(天皇教)が心を強く支えてくれていたのである。

 

ソリダリテの本質は物理的な「ひと」ではない

でも、ソリダリテですら物理的な「支え」ではない。天皇教が支えた戦前の日本も、ほとんどの大衆は天皇の姿すら見たことがない。ただただ学校教育で行われる「天皇物語り」を刷り込まれて、その存在を信じ込まされてきただけである。要は教科書という経典を信じ込まされた。しかし、それが特攻をも受け入れる(受け入れさせる)、強力な紐帯を作り上げたのである。目的はなんにしろ、(カッコ付きだが)『強さ』と『勇気』は確かにそこにあったのである。

そう考えると「勇気」を支えるソリダリテの本質も見えてくる。ソリダリテ、つまり、「連帯意識」や「同胞意識」といった「つながり」は、必ずしも具体的な顔の見える「ひと」である必要はないということだ。もちろん、具体的な人に勝るものはないかもしれないが、顔が見えること=ソリダリテを感じる、ということでもない。隣にいたって連帯意識を感じないことはいくらでもありうる。ご近所さんと連帯意識が消え去って久しい日本社会を思い浮かべれば十分であろう。

 

ソリダリテの正体は「ことば」である

連帯を感じる物理的な「ひと」の、たまねぎの皮をむいていくと何がでてくるのか。それが「ことば」である。勇気のもとになるソリダリテの正体は「ことば」でしかないのである。しかも、いつまでも浸っていたい「ことば」の連なり、積み重ねである。人間の心はことばで出来ている。だから、「ことば」が溢れるほどに心を満たすことが、イコール心を満たすこととなる。

「ことば」とは意味である。淀みないロジカルな「ことば」の連なりが私たちの心を満たしてくれる。それはあたかも和音の如く。あたかも見返したい映画や物語りの如く。

戦前の日本は、こうした人間のメカニズムを悪用して戦争を引き起こした。どこかに大ボスがいたわけではない。皆が、「ことば」の連鎖に巻き込まれ、心ある主体性はかき消された。ことばの渦が渦を呼び、竜巻は制御不能な巨大なハリケーンになったのだ。ソリダリテはかように悪を招くことも多い。「ことば」は魅力と同時に魔力を備える。

 

健全なソリダリテを生み出すカギは論理一貫性と現実妥当性

人間はソリダリテがなければ生きていけないというほど、他者との連帯を求めてしまう。これは人間なら当たり前の逃れることができない性質である。だから、容易に「論理」をゆがめてしまう。論理一貫性よりも自身の内面の空洞を埋めることを優先させる。

日本人が身近な世間を優先し社会(という公)をないがしろにしがちな理由である。組織の不正は、組織の論理で徹底的に封印される。原発事故の際の東京電力の幹部たちの態度を思い出せば十分であろう。そこにあるのは、「社内世間」を「神」のごとくに崇め奉る「強い」人間の姿である。こうして真理はゆがめられる。

「ことば」の暴走を止め、健全なソリダリテを育てるカギは「一貫性と妥当性」にある。弱い自分を覆い隠すために「論理一貫性」をないがしろにしていることはないのか。その結果、災厄を招く確率が高まっているのに、それを見て見ぬふりをしてはいないか(「現実妥当性」)。論理一貫性で長期・全体の健全性を担保し、現実妥当性で短期・足元の健全性を担保する。論理一貫性を「戦略」、現実妥当性を「戦術」と言い直してもいいかもしれない。トータルなメカニズムと名前のある具体性である。演繹と帰納である。

もちろん、論理一貫性には、自分自身の内面のメカニズムも含まれる。自身の内面を切り離した一貫性は真の一貫性ではない。それは都合の良い理屈を捏造してしまう。それでは今のウォール街のようになってしまう。イギリスとアメリカの占領政策の野蛮は自身の内面を切り離したことにその根源を持つ。

自分の内面をも含んだ論理一貫性と現実妥当性。そうした条件のもとに「ことば」を紡ぐこと。それが健全なソリダリテを創造し、自身と他者を救うことにつながるのである。

 

経営者は内省を積極的に奨励する会社を作らなければならない

しかし、そんなこと言ったって、私たちの現実はとっても忙しい。古い経済の枠組みでは内省がお金につながることは稀である。高度成長期の硬直的な組織をよしとする風土では内省を中心に据えて、しかも、お金が稼げるというビジネスモデルは作りようがない。アベノミクスは、本心ではやる気がない「第3の矢」にこそその本質は隠れている。産業構造改革こそ日本を救う唯一の道である。でも政府はこの先も決して動かない。

だからこそ、個別企業ごとに変革が必要である。社員ひとりひとりの内省と市場戦略をリアルに結びつけるビジネスモデルへの変革が必要である。社員全員の1日の半分を、内省にふり向ける就業時間革命が絶対に必要である。それでも潰れない、ビジネスモデルの革新が必要なのである。

古い事業モデルのまま、業績を上げ続けても、今の日本社会では、社会貢献的な会社は出来上がらない。ソリダリテの喪失が隅々まで行き渡る戦後日本のアノミー社会では、高い業績だけでは社会貢献になりようがないのである。たくさんのお金を手にして自殺することになりかねない。自殺しないために、稼いだお金を「世間」の捏造に使うのみ。システムに呼びかけられる強いられた休日を過ごさせられるだけである。広告先導的「家族旅行」や同調圧力に強制される表面的な友人関係に引きずりまわされるだけである。好業績が悪循環に火を注ぐ。社会はますます「不安」を供給する。承認の代わりに不安と焦りを創造する。

 

社員はそうした会社の仕組みを経営者に要求せよ

一般の社員は、「内省」の時間の確保を経営者に要求しなければならない。自身の真の幸福と日本社会の未来がかかっているのである。安易な「世間」の増殖に手を貸してはいけない。悪循環を好循環に変革する働き方改革である。

問題は思った以上に深刻なのである。状況は良くない。21世紀を迎えた日本社会は、個人の内面を構造的に搾取するメカニズムに変身してしまったのである。高度成長期に「善」だった仕掛けが、そのまま「悪」に代わってしまった。高度経済成長を支えた終身雇用・年功序列の成功が、私たちの内面の要求を変えてしまった。社会は相変わらず轟音とともにぶん回る。内面はそれに反比例するように悲鳴を上げている。

今、求められているのは、個人が本当に元気になるビジネスモデルである。そして、経済的イノベーションが枯渇しないビジネスモデルである。

 

内省で紡ぎだした「ことば」が私たちに勇気を現象させる

会社で毎日、就業時間のど真ん中で「内省」するのである。朝来たら、メールやチャットは無視し、いきなり昨日を振り返るのである。バタバタ作業を始めるのではなく、目を閉じて自分の「ありかた」を確認することからスタートするのである。日記を朝、書くのである。朝の一番元気な頭で、仕事と生活と自身のありかたを見つめなおすのである。

それを毎日繰り返す。

そうすると次第に、自分自身が強くなっていることに気が付くことだろう。周囲に合わせないと不安で仕方なかった自分が、次第に落ち着いてくることに気が付けるだろう。それまでの友人関係が無理のないものとなっていることを感じることだろう。周囲に合わせるだけのちっぽけな自分は、次第にどこかへ消えてゆくようだ。

 

戦後日本は、アメリカの占領政策である「象徴天皇制」の導入によってソリダリテをはく奪された。しかし、一神教の代替えだった戦前天皇のみがソリダリテを供給するわけではない。人類の世界観は一神教のみによって作られてきたわけではない。世界を法(ダルマ=メカニズム)とみる仏教的世界観も存在するのである。仏教の「空」モデルは、科学的であり、21世紀的である。今の日本社会の苦境を救う手がかりをくれる。

 

社員は、自身を含んだ論理一貫性を貫く「ことば」を自ら紡ぎだすのである。

経営者は現実妥当性を担うべくビジネスモデルの変革に挑む。

その二つが合わさり淀みない現実を創造しえた時、21世紀の理想的な会社はそこにある。そこには「経営者」や「社員」という「名」で仕切られた古い硬直的な組織はない。軽やかで風通しのよい、勇気に満ちた人間集団が現象している。