孤独のススメ(2)敬語を考える

孤独のススメ(2)敬語を考える

「〇〇させていただく」は多くの場合、自身から元気を奪う悪の呪文

実によく耳にする「〇〇させていただきます」という表現。

「担当させていただいております田中です」

「ではこの資料を配らさせていただきます

「前回の会議を資料にまとめさせていただいたのですが・・・」

「では、発言させていただきます

私はいつも巨大な違和感とともにこの言葉に接してきた。イチイチその場で直すのも気が引けるので、なんとかやり過ごしているのだが、やはりどうしても気持ちが悪いので、今回、その違和感の正体を描きだすところから始めようと思う。

 

「〇〇させていただきます」というからには、「誰に?」させていただくのか、というのが必ず想定されている。それを自覚しているかどうかは別として、「させていただく」という言葉を使った瞬間に使った本人がその暗黙の対象に縛られてしまう。つまり、はっきりとは自覚していない、その「誰に?」という対象を自分自身の主人にしてしまうのである。

日本人の場合、それは「世間」であることが多いようだ。「世間」とは自分の身の回りにいる具体的な顔の集合体である。会社であれば上司や同僚、取引先など自分と利害関係を有する人々の集合である。もちろん、しゃべっているとき、その集合の重心は自由自在に移動する。主人はその都度違うひとが想定される。

これは、その「誰に?」という対象から精神的に支配されていることを意味してしまう。そこに自身の主体性は存在しない。自分の内面をがらんどうにしてしまう呪文である。使えば使うほど、気づかぬうちに自信が打ち砕かれ、精神をすり減らしてしまう。元気はどんどん失われる。

自身に責任が覆いかぶさってこないように、あえて意識してこの言い回しを使うこともあるようだが、それでも自分からエネルギーが消失していくことに変わりはない。責任から逃れようとして、自分自身の存在自体を破壊していく。自身をアイヒマン化する定番的作法である。学習の対極をなす。老化の主因と化す。

 

唯一許されるのは、対象が「世界の摂理」であるときのみ

ただ、その「誰に?」という主人が唯一許される状況がある。それはその対象が「天」だったり「世界の法則(ダルマ)」「摂理・真理」だったりするときである。これだけは「〇〇させていただきます」は素晴らしい表現となる。

自分は大いなる法則に導かれている、それを暗黙に表現するために「〇〇させていただいています」というなら自身の主体性は損なわれない。損なわれるどころか、主体性は世界の摂理と一体となり、内側から力が湧いてくることだろう。内省が力を発揮する瞬間である。

それ以外は、「させていただきます」表現は控えたほうがいいと思う。じつによく耳にする日本語の言い回しだが、知らぬ間に自身のエネルギーが枯渇してしまうので要注意である。

そう、これが私の中でくすぶっていた、巨大な違和感の正体である。

 

日本人は「世間」と「社会」の区別がついていない

「させていただきます」表現を不要なシチュエーションで多用してしまうのは、「世間」と「社会」の区別がついていないからである。

「世間」は江戸時代以前から使われていた言葉だそうだが、それにとってかわる形で「社会」という表現が明治維新以降、西洋から輸入される。しかし、その概念も、発信源の西洋ですら、当初かなりあいまいだった。『トクヴィルとデュルケーム_社会学的人間観と生の意味(菊谷和宏著)』でそれを知った。富国強兵の名のもと、そのあいまいな概念である「社会」をそのまま飲み込み、近代日本はスタートしたのである。だから十分に人々の間に定着することはなかったのだろう。

そして敗戦。天皇という社会的基盤を失った我々は、聖なるものとして「世間」を選び取る。終身雇用や年功序列は、この社会的アノミーを埋めるための最強の方法である。ソリダリテ(社会的連帯・紐帯)の喪失が、そもそもあいまいだった「社会」という概念を消去させ、「世間」の概念を再びスターダムに押し上げた。そして21世紀に突入した。

しかし、「世間」と「社会」はやっぱり違う。「社会」が際立ってきても「世間」という概念が消え去ることはないが、端的に「世間」だけでは近代人は生きてゆけないのである。お金は「社会」から供給される。「世間」がくれるのは精神的な安全だけである。

「社会」の代表選手が資本主義における市場である。市場は人間の意図的な介入を許さない。人間の意図とは関係なくぶん回る。鉄の檻と称されるゆえんである。マルクスの疎外概念を思い出すといい。

今の日本人は、この社会の代表選手たる市場に巻き込まれることを極端に恐れているように見える。そうしてさらに「世間」にしがみつく。もはや「世間」は、21世紀の日本人にとっては神の位置に鎮座する。

 

「世間」を神に祭り上げるのはやめよう

でも、最初に確認したように、「世間」をあまりにも重要視してしまうと、自身の主体性はすり減らされてしまう。心はどんどんがらんどうに近づき、次第に自分の好きなことさえわからなくなってしまう。そうして生活そのものが「ぐるなび」に支配される。

「神に祭り上げる」とは「〇〇させていただきます」という表現を、摂理以外が対象のときに安易に使ってしまう、その行為そのもののことである。「〇〇させていただきます」といった瞬間、「世間」は神になる。聖なるものとして、あなたの内面に深く刻まれる。

人間は「ことば」で出来ているのである。自身が使うその「ことば」で、私たちは自身を再生産し続けている。肉体の細胞が数年ですべて入れ替わってしまおうと自分が自分であり続けられるのは、我々が「ことば」を持っているからではないだろうか。

だから、自身の存在を貶めるような「ことば」を安易に使うのはやめにしよう。自分は、自分が使う、その「ことば」で出来ているのだから。「ことば」の使用は、精神の食事にあたるのである。

 

だからこその「孤独の時間」、だからこその「内省」である

どうすればいいのか。だからこその「孤独の時間」「内省の時間」なのである。「ことば」を丁寧に味わう時間を、毎日、一度は持つべきである。できれば朝の薄暗い静かなうちに。

1日3回食事をするように、心も毎日ケアしてあげなければ飢えて餓死してしまう。1冊の本や、一度の瞑想は、一度きりの美味しい食事に相当するのでしかない。いっきに健康体になるための食事などないのと同じで、一度で心を健康にする方法は存在しない。

だからこそ、普段の「ことば」を正そう。論語の言うように「名を正そう」。ブッダの言うように正しいことばを使おうとする「正語」に気を遣おう。マイケルポランニーがいうように「暗黙知」の次元に思いを馳せよう。ドラッカーのマネジメントも、一神教がこだわる偶像崇拝の禁止も、その根はすべてつながっているのである。

 

キリスト教のようなはっきりとした神がいない、私たち日本人の元気の源は「内省」にこそある。

だからわたしは「孤独の時間」をススメるのである。

安易な「〇〇させていただきます」表現は、心がジャンクフードを貪るようなもの。

ことばを味わう孤独な内省の時間は、栄養価の高い「心の食事」の時間である。