就業時間革命。朝、会社に来てすべきこと。

朝、会社に来て、バタバタ作業を始めてはいけない

朝、会社に来て、まず、すること。できるだけ人と話さず、静かに瞑想すること。自分の心でまず、感じること・・・それが、私たちの会社のあたりまえである。決して、目の前の仕事に手を付けてはいけない。朝からいきなりバタバタ作業をしてはいけない。作業で心のスキを埋めることは厳禁である。

 

真っ白なキャンバスの前で瞑想のようなことをする

白版の前に座るのでもいい。自分で作ったノートを広げるのでもいい。こしらえた白いキャンパスを前に、背筋を正し、昨日までの仕事(=あなたの使命)を振り返る。その目的は何なのか(=So what?)。その現象を操る水面下にあるメカニズムはどうなっているのか(=Why?)。まずは、仕事の位置づけをもう一度、確認するのである。白いキャンパスを目の前に置いて、自分自身の頭と心のみで、仕事を図や文章にする。外界から入ってくるのは白紙のみに限定する。残るは自分の頭の中の記憶だけだ。記憶をジーっと探っていくのである。自分の心の探索である。何も出てこなくてもいい。集中力を切らさず、ジーっとキャンパスを見つめて思い出す。最低でも30分は、何にも頼らずやることである。

この時、答えを外界に求めてはいけない。正解を探してはいけない、と言い換えてもいい。答えは内面のみに求めることである。頼りは、過去の記憶のみ。記憶を、使命を起点に整える。

30分以上が経過した後、記憶の中で、「あっ、あそこあたりに欲しい言葉があった気がする・・・」となったら、その言葉や文脈を確認しに行くのもいいだろう。過去に読んだことのある本を再び開いたり、会社にストックしてある新聞のキリ抜きを手掛かりにしたり、昔の資料を見返したりするのもいい。しかし、ここでもやはり、答えを探してはいけない。自分の心から離れてはいけない。まだ、瞑想は続いているのである。

 

仕事の重要な部分はこれで完成

この作業を3時間、4時間と続ける。時計はもう11時か、12時過ぎ頃か。すると頭と心がスッキリするのに気が付くだろう。と、同時に、とても疲労しているのを感じる。ぐったりした自分がそこにはいるだろう。いい仕事をした、と自分を褒めてあげるといい。これが21世紀、知識社会の仕事の基本である。

そうしたら、少し、身体を動かしてみる。社内カフェに行って、お気に入りのコーヒーを入れるのでもいい。少し、社内を歩き回るのでもいい。同じように、集中して疲労した様子の同僚を見つけて話しかけるのでもいいだろう。でも、内容を話すのではない。内容に至る、方法論を語り合うのである。職務が違う場合は、話がかみ合わないことが多い。でも、その瞑想の方法論であれば、同じである。

 

全社員が企画職

私たちの会社では、ずいぶん前から、全社員企画職を宣言している。しかし、なかなか実現できない。すぐにバタバタと作業を始めてしまう人が後を絶たなかった。上司からの指示を、なぜか待ってしまう。もうすでに、何度も、仕事の使命は説明しているにも関わらず、朝、会社に来ると、それをすっかり忘れ、あたかも初めて聞いたかのような顔をして(まじめに)それを再び聞こうとする。(本日の)指示がない時は、とりあえず、昨日までにやりかけた作業に盲目的に手を付ける。

これは自身が不安だからだ。自分自身の心で、自分自身の内面を埋める作業をしてこなかったがために、心が空っぽで不安なのだ。だから、外からそれを埋めようとする。極端な話し、そこに入れるものは何でもいいのである。作業でなくてもいい。つまらないテレビでも、SNSの情報でも、街の広告でも、友達からのメールでも、なんでも・・・。こうして日々、再生産された心の穴は、その輪郭をくっきり際立たせていく。心の穴は、空洞として、鮮明な形を形成していく。外界から何かを入れれば入れるほど、その形状はくっきりと際立っていく。10年も、20年も、それを繰り返していると、それは陶器やプラスチック容器のように固く凝固し、なかなか溶かすことはできなくなってしまう。そして再び、外界からの騒々しい情報を突っ込む。突っ込まないと、自分がどうにかなりそうだから。不安が増幅して、じっとしていられないのである。夜になり、疲れ果てて、眠りにつくまで、それは続く。そして再び、朝日とともに、再生産工場が動き出す・・・ガチャガチャ、ガチャガチャ、自動機械のスイッチが勝手にONになり・・・ベルトコンベヤーに乗って出勤である。

 

近代社会はそもそもバタバタしているものである

なぜ、こうなってしまうのだろう。別に、なりたくてなった人はいない。でも、気がついたらそうなっていた。そうして、抜けられなくなってしまった。

思えば、社会の至る所に、こうした自動機械が作動している。政府の官僚組織も、警察・検察・裁判官でさえ今や自動機械の如くである。東京電力の自動機械ぶりを暴いた安冨歩さんの『原発危機と東大話法』は慧眼である。日本のエリート層の自動機械ぶりを見事に表現している。日テレやフジ、テレ朝、TBSなどの民放キー局の番組も同じだ。もう自動機械だという事実にさえ気が付けなくなってしまった。すでに全体が一つの大きな化石である。

これが、マックスウェーバーが言っていた「近代の鉄の檻」という社会システムである。私たちが、生き残るためにと必死に努力した結果、何百年もかけて形作られてきた非常に強力な社会システムである。そこにアジャストしていれば、食いっぱぐれることはない。大企業ともなれば、それは、細かな組織図と、毎日の詳細なスケジュールでぎっちり満たされている。だから、みな、分刻みで必死に食らいつく。天から眺めれば、それは轟音と共にまわり続けるメリーゴーランドのような滑稽なものなのだが、しがみついている私たちはそれに気が付かない。

いや、実際は気が付いているのかもしれない。しかし、わずかなすき間を使って考えたところで、対抗できる手段は簡単には見つけられない。メリーゴーランドが轟音を立ててぶん回っている傍らで、そんなことを言ったって、上司に一蹴されるのがおちだ。上司の方が必死なのだから。いや、さらに上の、社長の方がもっと必死なのである。経営者も、株主から睨まれる、近代社会の被害者なのである。わかっちゃいるけど、やめられない。ああ、スイスイ、スーダラタッタ~。明日も朝が早いから、考えるのはやめて床に就くとしよう・・・こんな感じである・・・

 

瞑想的仕事のススメ

私たちは、これをひっくり返したいのである。近代の鉄の檻という社会システムに全力で対抗したいのである。抗いたいのである。もちろん、短期的には業績を危険に晒すことになる。社員の作業時間は半分に削られるのだから。しかし、やり抜かなければならない。そうでなければ、この会社が存在する価値はない。出来ないのなら、こんな会社、大企業に売ってしまえばいい。それくらいの覚悟で臨む。

だからこれは革命である。就業時間革命というべき、現代の静かな革命なのである。皆がやりたくて、でも、出来ない、近代の鉄の檻に対抗する、ほとんど唯一の方法である。SDGsやESGが流行りだしているが、それが、個人の瞑想(=内省)を伴わないのであれば、同じ近代社会システムを再生産するのでしかなくなる。見た目が善きものに見えるだけに、今以上に厄介である。空っぽの個人が自動的に動き回る、社会貢献的な巨大システムが完成してしまう。

カギは個人の瞑想(=内省)である。個人個人が、自分の心で仕事に向かうことである。だから、私たちは、就業時間そのものを変えてしまう。個人が努力しても出来ないほど、近代のメリーゴーランドが強烈にぶんまわっているのなら、組織全体で対抗しよう、そう考えた。責任は、CEOである私が取ればいい。社員は、方針通り、毎日、瞑想(=内省)から仕事を始める。それが「いい会社」を作るための私たちの戦略なのだから。