「知識」と「チシキ」

日本人にとって内省なき「チシキ」はすがりつく偶像である

戦後の日本社会は、ソリダリテを喪失し急性アノミーに陥った。世俗社会の外側に、天皇という基盤となる超越性を失ってしまった。戦後の日本人にとっては、わかりやすい道徳的な基盤はもはや存在しない。唯一できることは、「内省」の末に獲得する「摂理」という名のメカニズムを頼ることである。内省の末に見えてくる自己というリズムは、論理的に世界の摂理と一体である。それを徹底的な論理思考で“わかる”こと。それが近代社会に必要な中心的「知識」である。

アノミー社会に生きる日本人は、本質的に何かにすがりつきたい衝動に駆られている。いついかなる時も原理的に不安である。ゆえに、どこかに格納されているパッケージとしての「チシキ」は、即、自己疎外を引き寄せる。勉強しても勉強しても、そこにある不安は消え去らない。獲得した座席による一時の安堵もつかの間、無常の世界は容赦なくその座席を揺さぶる。

内省なき「チシキ」は、その目的が不健全であるだけでなく、不安を鎮める道具ともなりえない。損得勘定を動機とする勉強は、自身に自信を植え付けてはくれない。内省なき「チシキ」は、すがりつく偶像でしかない。それは、本質的に、心躍る「知識」ではない。

 

固定された「チシキ」は健全なる動機を破壊する

固定された、つまり、パッケージ化されインストールをイメージさせる「チシキ」は、私たちから健全なる動機を奪い去る。読書は、書いてあることを暗記するのが目的ではない。自身の内面で感じることを言語化する「道具」を手に入れるのが目的である。「道具」なので使ってこそ価値が出る。「道具」は所有するものではない。「知識」も使い続けてこそ価値が生まれる。「知識」もそうした意味で「道具」である。

「知識」は決してインストールできない。インストールした「知識」は、そもそも「知識」ではなく「チシキ」である。

 

「知識」とは本質的にリズムである

仏教の八正道に「正知」という言葉はない。固定され、どこかに格納された正しい「チシキ」なる言葉はそもそもない。世界の、そして自己の摂理にかなった「知識」は、仏教では「正見・正思・正語・正業・・・・」として、複数のことばの連続で表現する。つまり、仏教でいう「智慧(=知識)」は、固定され、インストールできるものではないということである。それはあくまで動きの中に現象するものである。「知識」とは、動きの中に時折訪れるリズムである。身体全体で感じとる流れであり音楽のようなものである。

 

「知識」は陳腐化という宿命を宿す

正しい「知識」は、固定されたものではない。ゆえに、陳腐化という宿命を必然的に宿す。仮に「ABである」ということが“わかった!”としても、無常の原理がその「知識」をゆっくりと脱臼させてしまう。

ゆえに西洋社会は、マーケティングとイノベーションというマネジメントの原理にたどり着いたのである。マネジメントの本質は変化にこそある。マネジメントの本質はエンドレスゲームである。それは仏教における無常のアナロジーである。

ドラッカーが参照したシュンペーター。シュンペーターが参照したベルグソン。マルクスはヘーゲルの疎外概念を批判的に参照した。そのヘーゲルの大本にはギリシャ哲学の運動の概念がある。ヘラクレイトス(万物流転)の哲学がある。だからこそ、21世紀の混迷の時代、マルクスが見直されているのである。

中国の論語にも、動きを原理とした学習という概念が横たわる。論語は複雑系科学の嚆矢であるウィーナーのサイバネティクスに侵入した。鎌倉時代、親鸞がたどり着いた哲学は他力である。ここにも世界をメカニズムとして捉えるアナロジーが見て取れる。

世界は動いている。近代社会の市場システムも、かつては閉じたシステムだと考えられた時期もあるが、原理的にそれは開かれているものだということがわかっている。アントレプレナーの存在がそれを証明している。

固定された「チシキ」という観念は幻想である。

 

内省とは「ことば」でリズムを再生産し続けること

では、内省によって獲得すべき「知識」とはどんなカタチをしているのだろうか。紙の上にインクのシミで表現されたことばが「動くことがない」からといって、そのシミの向こう側にある、人間の目には見えない「知識」が動いていないとはいえない。

「知識」はむしろリズムに近い。「波動」とか「流れ」とか、音楽をイメージするほうがしっくりくる。

ゆえに、内省が目指すのは、その「リズム」を健全なるものにすることである。そして、その健全性を測るリトマス試験紙は他者と共振するエネルギーである。チームと共にある元気である。心身ともに包摂する「健康な組織」である。

内省でその「健康」を再生産し続ける。

 

矛盾が自分を健全に保つ

動いている現実と接し続けることは大変である。それは格闘と呼ぶにふさわしい。たしかにたまには大いに疲れ切る。しかし、現実に接し続けることのみが、自身の動機を健全に保つ条件である。

現場現実と接するというのは、やはりここでも物理的なイメージにたやすく誤解されてしまう。そうではない。現場現実でぶつかる葛藤を内省することによっていちいち整える作業。時が経てば陳腐化するとわかっていながら、何度も何度も整える作業。そのサイクルが現場と接するという意味である。

そこに一貫性と妥当性という矛盾した基準を持ち込むのである。「生きる」ための論理一貫性と、「生き残る」ための現実妥当性は、多くの場合、矛盾する。否、人類史上、このふたつは一度も一致したことがないようなので、100%矛盾すると言い切ってしまってもいいのかもしれない。

しかし、矛盾が人間を健全に保つのである。

 

市場を活用して「知識」(=リズム)の種を届けるビジネスを

私たちの棲む近代社会には、踏みしめるべき地面も、仰ぎ見るべき天も、存在しない。近代社会の底は見事に抜けているのである。

しかも、近代社会の象徴である「市場」というシステムは、人間を疎外しようとぶん回る。イノベーションという方法でしか関わることを許されないその原理は、私たちに高度な「知識」を要求してやまない。高度な「知識」とは、動きを原理とする本質的な「知識」である。「イシキ」では原理的に太刀打ちできない。

 

私たちは、市場という近代社会のメカニズムを活用して、この本質的な「知識」の種を届けたいと願う。それがプレコチリコというビジネスモデルの核心である。種はどんな花を咲かせるのかわからない。私たちの予測もつかないような見事な花を咲かせることがあるかもしれない。逆に、期待を裏切られるような変種の花を咲かせることもあるだろう。

それでも、私たちは、「ことば」を通じて「知識」の種を届け続けたい。

それはインストールできる「チシキ」ではない。つねに陳腐化を宿命とする、儚く消える現象としてのリズム(=「知識」)である。