「生きること」 と 「生き残ること」のはざまで
割れた後のくす玉に「生きること」のヒントを見る
「くす玉を片付ける人を見た」という短歌?を、毎週続けている社員との『振り返りシート』で紹介してもらった。これは、よしもと興行で芸人をやりながら作家としても活躍する又吉直樹さんの作品だそうで、私は彼の作品の一片にはじめて触れたことになる(『はじめての短歌 穂村弘著』より)。いや、始めてはっきりと意識に上ったというのが本当のところなのかもしれない。短歌というものに初めて心で触れた気がした。何か感じるものがあった。
くす玉は割れる瞬間のために存在する。なので割れる前であればまだその価値をキープし続けていることになるけれど、割れた後のくす玉に目的論的に価値はない。しかし、そこに又吉さんの作品のすごさがある、というような内容だった。そして、次のような解説が続く。いい短歌と悪い短歌の違いは、「その言葉にそれ以上の感情が宿るのかどうか」というのだ。くす玉が割られた瞬間の歓喜?を表現するのと、割れた後の片付けという「無意味」な作業をあえてことばにするという「表現」の落差。運動会の余韻を楽しみながら家路につく人の群れをしり目に、黙々と片付ける人の背中を遠くから眺める絵がこころに浮かんだ。なんとも言えない胃のチクチク・ジンワリとともに。私のこころをわしづかみにして離さなくなった。もしかしたらこの感じが生きるということなのか?そんな直感が働いて頭から離れなくなる。ん??・・・ならば、経営とはなんなのだろう?ガバナンスやファイナンス、資本政策などは、生きることに入っていないのか?CEOも確かに生きているはずなのに。会社をできるだけ永遠に近づけるためにあるこうしたアメリカ的な経営手法は、生きるということの中のどこに位置付ければいいのだろうか。分けて考えられるほど器用ではない私は、しばらく考え込んでしまった。と同時に、とてもいいテーマを設定してもらえた、と喜んだ。すぐにカントとウィトゲンシュタインという哲学者の顔も浮かぶ。やはり経営はパラドクス問題に直面している・・・
社会でうまく立ち回ることは「生きること」ではないだろう
ガバナンスやコーポレートファイナンスなどの横文字を流暢に使いこなす経営コンサルタントが持てはやされる世界にどっぷりと浸かっていながら、そして、私自身もその手法を実際に活用しなければならない立場に縛りつけられながら、大好きな社員たちの顔と大嫌いなアメリカ的なるものとの間で葛藤する苛立ちと熱情。割り切って仕事をするひとに出会うと、それこそ言葉それ以上のメカニズムが背中に覆いかぶさっているのを見てしまう。アニメ巨人の星の飛雄馬が父親から架せられていた大リーグ養成ギブスのごとく。この人はかっこいいのか、それとも中身がからっぽなのか?
毎日読むことにしている日経新聞でも、評価基準の基本はその規模と利益率。しかも、3か月単位という目まぐるしい超短期の視点が主である。P/LやB/Sを業界比較して・・・、経年変化をグラフ化して・・・と、あたかも会社を一つの装置の如く扱うのがお作法だ。入力という投資(会社側からは資金調達)をしたときに、出力というリターン(会社側からは営業利益)がいくら返ってくるのか。アナリストなるエリートが、かっこよく、颯爽と、分析の腕を競う。インタビューを受ける経営者も、よっぽど胆力に定評のある人でないと、その空気に逆らうことなどありはしない。「経営とはそんなものではない。そんなに短期の数字のことなんて、実際はほとんど頭の中にはないんだよ。実際、短期の数字ですら超長期の打ち手からしか生まれ得ない。そんなこと経営者ならだれでもわかっているだろうに」しかし、そこでふと気が付く。「あ、この人たち経営したことないじゃん・・・」
経営者は、全部をいっぺんに考える人のこと。エリートサラリーマンなる「かっこいい、颯爽とした」人々は、部分の専門家。ピンストライプのスーツを好み、スラスラ言葉が流暢なのは、矛盾のない部分のみを取り出して語っているからに過ぎない。そんなことは経営者ならだれでもわかっている。でも、この世界のマクロメカニズムは、ピンストライプが牛耳っている。しかも、世界から貧困をなくすには、この手法しかないことも知っている。そうしてピンストストライプの足は伸び、苦悩する経営者の眉間にはしわが刻まれる・・・。
別に私は中小企業の経営者を全面擁護しているわけではない。むしろ、日本の中小零細企業のぶら下がりぶりには辟易している。商工会なるどうでもいい政治組織を後ろ盾に?モラトリアム融資を迫った金融危機時の醜態は忘れられない。最低賃金の全国一律導入に反対の声を上げる姿にはもはや経営者の誇りをまったく感じない。
「生きること」と「生き残ること」のはざま
私が関心があるのは、世界を覆いつくすマクロメカニズム、つまり近代の資本制生産システムという問答無用でぶん回る目には見えない、しかし誰もが逃れられないシステムの存在であり、それにどう対応すれば、「生きること」と「生き残ること」の両立が、この会社という組織の中で可能なのかということである。
経営者といえども人間である。近代社会というマクロメカニズムにおいて、たまたま資本市場なるものからエージェント扱いされてはいるが、その実、社員ひとりひとりの顔を毎日思い出さずにはいられない普通のお父さんである。仕事を楽しそうにやっている顔を見れば冥利に感じ、沈んだ表情や噂を耳にすれば心が痛む。ただ、社員とは置かれた位置が異なるだけだ。経営者が置かれた社会的な位置は、唸りたてる巨大な波の如きシステムと、割れたくす玉を片付ける時間のちょうどはざま。境目の細い塀の上に立たされている。塀に守られる形でその内側で台風を見ている社員と、波乗りの如く鮮やかに巨大な波を乗りこなすグローバル金融エージェントのちょうどその間に立っている。どちらも捨てるわけにはいかない。だから、くす玉を片付ける人々を眺めるその眉間には、どうしても深い深いしわが寄ってしまうのである。
この「CEOの内省」というコーナーでは、生きることと生き残ることのはざまで、なんとか踏ん張ろうとしているひとりの創業経営者が行う内省を、素直に綴っていこうと思います。お付き合いいただければ幸いです。