【ニュースコラム】銀証連携の記事への巨大な違和感

【ニュースコラム】銀証連携の記事への巨大な違和感

日本にないただ一つの問い「そもそも何をしているの?」

「融資・社債・株式 一体で提案」という615日付けの日経の記事を読んだ。サブ見出しはこんな感じ。「銀証連携、企業再編も後押し」「証券界:顧客の不利益懸念」「金融庁案を提示」「まず動向監視」「情報筒抜け警戒」・・・

なんだかわかったような、わからないような、激しい違和感と共にいつもの疑問が頭に浮かんだ。「そもそも金融庁は何がしたいのか?」その意図するところがまったくわからない。

新聞記事は、あたかも金融庁が銀行の収益低下を心配して対策を練っている、というような大前提が置かれているようだが、そもそも、その「大前提」が変チクリンである。日本国の国家運営理念は何なのか?資本主義、自由競争ではなかったか。なぜ金融庁がここまで細部の「指導」をしているのか?

そもそも、デモクラシー国家において、お役所の役割はルールを適用して市場を健全に保つこと。ルールは国会で国会議員が決め、そのルールをお役所である金融庁が運用する。金融庁は厳密なる法執行マシーン。それが「大前提」である。それなのに、「動向を監視」しながら状況次第でルールを決めていく、という。金融庁は国会議員の役割をこなしながらルールを定め、審判もこなし(裁判官)、さらに銀行の経営者(プレーヤー)をもやっているつもりに見える。これは一体何なのだろう?日経もその変チクリンな大前提をそのまま報じている。これはジャーナリズムなのだろうか?

この記事を読んで違和感を感じない人がいるのだろうか?もし感じないとしたら、そのひとの頭の構造はどうなっているのだろう?どうやったらこの論理を黙って受け入れられるというのだろうか?

 

※長いモノには巻かれろ、ということなのはわかっている。それが日本です、というのも知っているつもりである。私は金融の専門家でもない。でも、あえて民主主義・資本主義の基本的な建付けに沿って自分の頭で考えて」批判してみたいのである。間違っているかもしれない。それこそトンチンカンかもしれない。しかし、こうして意見を発する習慣を持つことが、この国の危機を救う唯一の作法だと考えている。

 

銀行による利益相反行為に懸念??

銀行と証券のファイヤーウォール規制を緩和すると、M&Aの売り手と買い手の双方の情報をひとつの金融グループが握ることになりかねず、自分に有利なように案件を主導する恐れがある。すなわち利益相反が起こる素地が生まれる。合併を意図するA社とB社に同じアドバイザーが付くという珍現象が起こりかねない。資本主義国ではあってはいけない行為である。A社も、B社も、それぞれ別々の株主が存在する。どちらの株主も自分に有利な条件を模索する。それが自由競争。それをひとつの金融グループが両者の情報を握れば、その自由競争がゆがめられる恐れがあるということ。情報を握った金融グループが自分に有利に合併を進める恐れがある。どちらかの株主が知らずに不利益を被る恐れがある。それが利益相反である。

資本主義の最も根本的な原理は「自由競争」である。合併や買収の場面でも当然そう。アメリカの場合、こうした利益相反を厳しい罰則で取り締まっている。自由競争を阻害する利益相反行為は資本主義においてはご法度だと理解しているからである。日本人のわたしたちにはちょっとわかりにくいが、資本主義というプラットフォームそのものを脅かすことは、何が何でも防がなければならないというのが資本主義を運営する国家の絶対的な合意事項なのである。個別の違反行為をさせないこともさることながら、資本主義のシステムそのものを守ろうとすること。それに多くの注意を払うのがふつうである。「そもそも・・・」という問いがない日本には存在しない、または弱い着眼点なのかもしれないが、民主主義国では当たり前に前提されていることである。それを金融庁は「まずじっくりモニタリングしていく。不十分な面が出てくれば、さらなる対応も必要に応じて考えたい」と言っている。あくまで自身の裁量権を手放さないつもりらしい。一方でM&Aを主導しようとし、一方でルールはやりながら様子を見て自分たちが自由に考えるという。理解に苦しむ。

そもそも、利益相反が起こるからこそ監督官庁が一人何役もの役割を演じてはいけないのではないのか。ルールを決めながら銀行の経営に口出しするなどちょっと考えればおかしいことがわかる。それが最大の元凶。それを放置して、細かな規制を行おうとするのは本末転倒ではないか。金融庁が個別の金融機関にの経営に口出しをしないこと、ルールに基づいて厳しく監視すること、ルールを破ったら罰則を厳格に適用して裁判所に判断を仰ぐこと。それで利益相反問題は解決できるはずである。そうしない理由は、金融庁が大きな権力を手放したくないから、としか思えない。なんだかとっても浅ましい・・・、日本社会の縮図のような記事である。

 

この記事は何がしたいのか?日経は何をしているつもりなのか?

そもそもこの記事を書いたのは日経である。これを書いた記者は何がしたいのだろうか?何のために日経で記者として働いているのだろうか?これを書いた記者の仕事の大義は何なのか?ジャーナリズム?いや違うだろう。それならこんな植物を鑑賞するような記事は書くはずがない。これでは金融庁御用達報道機関である。いや「報道」などという高尚なことばも使いたくない。この記者に意思はないのだろうか?この論理矛盾に何も感じないのだろうか??資本主義システムを蝕む片棒を担いでいることに気が付いているのだろうか??

そもそもジャーナリズムとは民主主義の発達とともに発生した概念ではないのか?民主主義、そして、その双子の制度である資本主義を守ることにその大義はあるはずである。そして、その一番の目的が権力者を監視することだろう。経済行為のエンジンは、出来るだけプレーヤー個々の自由競争に委ね、違反行為は事前に定めたルールで罰する。個々の企業の業績は個別企業の努力に任せる。当局が個別企業の業績に口出しすることは、自由主義経済の根本を破壊する行為であろう。もしそうした意図を権力側に感じたら、それを監視し、報道する(主権者である国民に広く知らしめる)のがジャーナリズムの精神ではないのだろうか?金融庁の態度を、金融庁のいいように記事を書くことはジャーナリズムとは呼べないのではないだろうか。日経の記者は、これをどう考えているのだろうか。自分の職業に存在する大義を何だと考えているのだろう?

 

日本にない「誇り」という概念、周りを気にするおどおどしたキョロ目のみ

日本人としての誇りはないのだろうか。こんなシステムで子々孫々に恥ずかしくないのだろうか。なぜ、日本人には「そもそも」という問いがないのか?誰か教えてくれないか???

デモクラシーの基本原理は自分の頭で考えるということである。選挙制度や多数決で物事を決めること、一人一票というのは、自分の頭で考える人がいてこそ初めて機能するものである。自分の頭で考えて、意思を持って議論する。そうして、落としどころを探りながら徐々に変化させて前進する。ゆえに「そもそも何がしたいのか?」という問いは必須である。デモクラシーに必須の問いである。これがなければ民主主義も資本主義も機能しえない。

どうしてこんなに周りの目ばかりをキョロキョロ気にする人が多いのだろうか。どこもかしこもキョロキョロ、キョロキョロ。自分の意見を考えるのではなく、周りの意見を忖度する。そうして自分の今の立場にとって安心・安全な落としどころを見抜いて自分の意見とする。子供の頃、先生にマルをもらったように、大人になったら今度は世間という空気にマルをもらおうとする。あくせくあくせく、そこには自分の意思のみがない。そして「誇り」という概念が消失してしまった。

金融庁も、日経の記者も、大義というより自己都合の保身がその目的になってやしないのだろうか。それがこの記事を読んで感じる巨大な違和感の源のような気がする。

東大を出た学校秀才が金融庁を牛耳っているのだろう。この記事へコメントを出した官僚もおそらく東大出の秀才であるのだろう。だから、マルをもらうことにかけては日本最高レベル。しかし、そこに「大義」はない。自分の腹で感じるものをことばにするという「誇り」「だけ」がない気がする。「意思」ということばの意味さえ、もはやわからないのではないか。この官僚にも、おそらくあるのはキョロ目のみ。先輩官僚や上司に異物扱いされないことが最大の関心事なのではないか。日本国をどうするか。デモクラシーをどうするのか、そんな大義など考えたこともないに違いない。

 

日本が心配である。

「そもそも何をしているのか?」

その問いを発することが自分が意思を持つ唯一の証拠である。

日本にはもうゾンビしかいなくなってしまったのだろうか。

 

日経を読むとイライラしっぱなしである・・・、これは私だけの現象なのだろうか。