【ニュースコラム】アップルの決断から考えたこと

【ニュースコラム】アップルの決断から考えたこと

ヨーロッパ型 vs アメリカ型_今ある議論

アップルのCEOティム・クックがiPhoneの次の機種において、トラッキングの可否をユーザーの選択性にすると発表したそうだ。世界で大きなニュースになっている。トラッキングとはユーザーの行動履歴を追跡することである。つまり、トラッキングをユーザーの選択制にするとは、トラッキングされないこと(自分の行動をコンピュータに監視されないこと)をユーザーが選べることを示しており、ユーザーの行動履歴を販売するネット企業の最大の飯の種を失う可能性を同時に意味している。アップル自身は収益をそれほど広告に依存していないということもあるのかもしれないが、競合のフェイスブックやグーグルの警戒心は半端ではないかもしれない。もし、このアップルの流れが政治的に正当化され、すべてのネット企業のトラッキング・データが法的に選択制になったら・・・。その収益の8割以上を広告に依存する会社は一気に経営危機に陥ることになる。世界の投資家がこの決断の行方を注視するひとつの理由である。

 

現在、ネット企業に対する規制は、ヨーロッパ型の「規制ありき論」とアメリカ型の「自由放任論」に大別される。その、各企業の自主規制にゆだねているアメリカの企業であるアップルが、自主的に自らの飯の種のひとつをユーザーにゆだねる決断をしたのである。もちろん、フェイスブックやグーグルの収益構造を狙っての戦略と見る向きもあるのだろうが、これはデジタル時代の民主主義の行方を占ううえでも、とても大きな潮目と考えることも可能である。そうしたメカニズムを必然的に内包している。

社会科学界隈では、大きく期待する向きもあるようだ。それは、トラッキング・データの分析がアメリカの大統領選挙の行方を左右したり、イギリスのブレクジットを決定づけた、という事実があるからに他ならない。データを分析すれば、その人がどこの政党に投票するか95%の確率で予測することが可能である。政治家は当然、この技術を利用している。端的に、フェイスブックのトラッキング・データは世界の選挙に活用されている。一企業の戦略が、政治の重要な意思決定を左右する時代である。これをどう考えるべきか。それがもうひとつの関心の焦点なのである。

要は、公共的な倫理を、政治が担うのか(つまり選挙)、企業経営者(つまり市場)が担うのか。選挙による投票行為が公の倫理性を担保すべきか、市場における顧客の購買行動が公的な倫理観を(結果的に)担保すべきなのか、ということである。善悪の議論を超えて、デジタル時代の構造的必然として浮上してきた論点である。

 

政治家より企業経営者の方が倫理的であり得る可能性

政治的な政策決定過程に巨大IT企業が深くかかわってしまう時代にあって、世の中の倫理は保たれるのか。それが「案外、期待していいのではないか」、という見解もあるのである。私もそのほうが世の中の倫理は保てるのではないか、と考える一人である(いやむしろ、一縷の望みを抱いているというべきか)。

正当な主張を持つ人間よりも、アジテーションの上手な政治家が当選する確率は以前より高まっている。日本においても菅総理や麻生副総理、小泉進次郎が当選回数を重ねる現状である。今回のコロナ対策を見れば、心ある選挙民であれば、即、落選させていいはずだが、そうならないのが現実。選挙民はおらが村の利益しか考えないらしい。インターネットの「オススメ」を無邪気に受け入れるわたしたち一人一人は、次第に家畜のような「素直な」消費者に成り下がる。思考停止はもはやデフォルトである。政治家の選択基準は「人柄」が一位だったりする。末期である。

国民と政治家の双方がスパイラル的に理想を失っていく構造にどんどん突き進む。そんな中、消費者の購買行動が投票行動の代わりとなり、企業経営者に倫理的な行動を促すかもしれない、という期待は当然の帰結であろう。政治家には明確な数字による業績評価基準が存在しないけれども(ことわが日本においては)、事業経営者には存在する。顧客に嫌われたらそれこそ一貫のおしまいである。政治家のように顧客に媚びることは業績の保証には直結しないのである。そのメカニズム(経営者がおのずと襟を正すメカニズム)が民主主義を辛うじて守ってくれるのではないか、という(淡い?)期待である。

 

もちろん、わたしたち消費者ひとりひとりが賢くなる必要がある。民主主義の基本である、国民一人一人の学習は必須である。しかし、私は思う。政治家よりはるかに企業経営者の方が勉強しているのではないか、と。生きた学習をしているのではないか、と。その動機は、始めはお金だったかもしれない。名誉だったかもしれない。けれども、事業が成長するにしたがってそんな己の欲ばかりを追求することが許されないことに気付かされる。少なくとも10年以上、事業の現場で揉まれていれば、たいていは紆余曲折、大小の浮き沈みを経験する中で自身の傲慢さに気が付くときがくる。この世の中は自分の思い通りになどならないことを嫌というほど実感させられる。そうした、四方からの圧力の中にいて、それでもなんとか突破しなければならないという貴重な経験から、経営者は他者性の重要性を次第に学びとる。自分自身が学習すれば事足りる理論だけの世界ではなく、チームや組織の力を生かす知恵を学び取る。他者に任せる緩急を身に着けるのである。市場に日々晒され続ける圧力は、強情な経営者の我欲という尖った角を丸くしていくのである。資金を回し続けるということのプレッシャーは一人でことをなそうとする自我を許さない。

それは同時に、学習効果をも飛躍的に向上させてくれる。論語が語る、「50にして天命、60にして耳従う、70にして矩を超えず」に次第に近づいてゆく。10年政治家をやったところでイノベーションの意味するところは分からないだろう。存在論の真理には届かない。事実、小泉進次郎はイノベーションを「創意工夫」といっていた。しかし、熟練の経営者は違う。イノベーションの意味が分からないこと、即、倒産である。そのプレッシャーが「我欲のあきらめ」を促し、学習効果を高めてくれるのである。(「あきらめる」とは「物事を明らかにする」ということである)

 

自分事で恐縮だが、わたしは、経営者として20年やってきて一番良かったと思う点は、この学習効果ではないかと思う。日々、無理やりにでも答えを出し続けなければならない立場は、ある意味きついが、ある意味恵まれている。世の中が手に取るようにわかってくるこの感覚。世界を自分が動かしたいという欲と共に、近代社会は所詮、メカニズムであるという理解。力むよりポイントを突くことを嫌がおうにも学ばされるのである。今ももちろん現在進行形ではあるが、何が真理で、何がフェイクなのか、日々刷新させられている。現場のプレッシャーを経験していなければつかめなかった感覚である。資金繰りの待ったなしの圧力が集中力を研ぎ澄ましてくれた。それにもっとも感謝している。

だからこそ、思う。一番かわいい自分自身のためにも、他者性こそが鍵なのだと。他者を利するメカニズムが世界を回し、その世界に自分も住まわせてもらっているのだと感じることが出来るようになった。善き世界をつくること、それが自分や仲間の幸せにつながる。それが近代社会というものだと。

 

顧客レビューの存在が決定的_ECは倫理観をも要求される

そして、インターネット。インターネットが無関係な経営者はもはや存在しえない。特に流通の世界は、集客もERPも、ゆえに、商品企画そのものも、インターネットのつながりを意識せざるを得なくなっている。特に、顧客のレビューという機能は、企業の倫理観を嫌がおうにも高めてくれる。売りっぱなしで許される構造にはなっていないのである。顧客の手に商品が渡ったその後も、企業の責任は継続する。顧客レビューは集客広告の効果そのものにもダイレクトに影響を及ぼすのである。

これは単なるきれいごとではない。インターネットが出てくる前だってブランディングにはアフターサービスが決定的だとは企業経営者のよく言うセリフではあった。しかし、これは大きな企業に限定的なモノであったのである。しかし、今、この構造は全ての事業体に及ぶ。どんなに駆け出しの企業であっても、どんなに小さな家族経営的企業であっても、同じように顧客は期待しているのである。そして容赦なく企業の失態をネット上に晒す。

わたしはEC事業を生業とする経営者の端くれではあるが、この事実を日々感じるものの一人である。20年前とは明らかに違う。しかし、これがいいのではないかと思うのである。経営者は襟を正される。生活者としての倫理観そのままに、企業経営者も業績との間に立たされて必死にバランスを取ることを余儀なくされる。事業が生まれた時から基本、すべてのバリューチェーンに気を遣わざるを得ない、そうした時代がいよいよやってきた。

 

選挙より市場_政治家より経営者の方が倫理的になる時代

必然的に企業経営者は、顧客(主権者)一人一人の顔を意識しなければならなくなる。それはあたかも政治家が選挙民の意向を無視できないのとパラレルである。上場しているかどうかより、市場における顧客の選択行動にその本質はあるのである。

とはいえ、インターネットが世に出てからまだ30年。今だ黎明期と言えば黎明期である。本番はこれからである。今は、巨大モールが幅を利かせている市場状況ではあるが、それも早晩崩れざるをえない。小さな新興の会社が力をつけ始め、ECはいずれD2C市場になってゆく。誰しも直接的に顧客に対峙することになってゆく・・・。

 

あと20年ほどか。10年でやってくるか。それは誰にも分らないが、しかし、潮流は動いている。あとは企業経営者の矜持次第ということだろう。私もその一翼を担いたいと思う。

 

今や、政治家だけがデモクラシーに貢献する時代ではない。小さなサイズのカイシャ、企業経営者の一人一人がデモクラシーの良し悪しに影響を与える時代である。希望も込めて、そんなことを考えた。

 

アップルCEOの一決断という、海の向こうの出来事からも、そうした時代構造の変化を感じ取れるのではないか。みんさんならどう組み立てるだろうか。