【ニュースコラム】小1から始める「論理国語」という新しい科目

【ニュースコラム】小1から始める「論理国語」という新しい科目

学校教育の古くて新しい課題

教育は何をすべきか。それは端的に、国民としての誇りを育てること、そして、論理の力(すなわちことばの力)を身に着けること、である。わかりやすくいうと歴史と国語。それが教育の基本である。では、どちらがより基本的か。それはもちろん国語である。歴史も結局はことばの連なり。ことばの背後を流れる意味の連鎖が理解できなければ、歴史を理解することも叶わない。すなわち、国語、ならぬ「論理国語」が今、注目されている。先日の日経に載った哲学者の野矢茂樹さんへのインタビュー記事で知った。

インターネットの普及が悪循環を加速させるように日本人のことばはどんどん共感語過多になり、そして、短くなっている。「いいね」に始まり、「すっげぇ」「うっそぉ」「まじ、やべぇ」など共感語だけでやり取りを成立させてしまう。いつものメンバーとだけ居心地のいい関係を作り上げ、その内側に閉じこもってコミュニケーションするのみ。「インターネットは世界とつながる」は幻想であった。人々は益々、自分とは異質な人々との交流を避けるようになっている。

距離のある人との会話には論理が必須である。状況の意味付け、に始まり、類推・因果・等式・反対・矛盾・筋道・構造理解、そして、目的‐手段の未来視点。これらを自然に使いこなせないと文明的な対話は成り立たない。文明的などという大袈裟な言い方をしなくとも、事業において、取引先との商談が任せられない。社内コミュニケーションですら、大きな問題が生じること必然である。問題の根はすべて、ことばを使った「論理思考」の欠如にこそある。

 

小1の問題をやってみた

そこで小1の「論理国語」の問題をやってみた。

 

【『出口式 はじめての論理国語 小1レベル』出口汪著】

 

これは明らかに判断力を問う問題である。状況理解・問題解決思考が求められる。小学校1年生からこんなトレーニングが受けられる世代が羨ましい(まだ始まっていないが)。

わたしたちも日常、アナロジカルには同じ問題を扱っている。状況は違えど頭の使い方は同じである。「なるほど、子供とかオトナとか、関係ないんだな」。問題に取り組んで私は腹落ちした気がした。私は会社にも取り入れることにした。「大人になってからトレーングするのは嫌がるだろうけど。」

必ず成果につながるはず。強い気持ちでやり切ろう。

 

オトナにも必要・オトナにこそ必要

1の問題を見て感心するとともに、大きな危機感をも感じざるをえなかった。これが出来る人は、今の世の中、結構、少ないだろうな・・・

論理思考は、脳みそをもっとも消費する思考である。想像の空間に、構造や因果、ビジョンを描くことは、もっとも疲労する頭の使い方である。しかし、それこそが人間の証。AIがもっとも不得意とするものである。要素還元主義とホーリスティックな思考を切り替えながら、縦横無尽に構想すること。

考えて見れば、こうした思考が欠如しているせいで社会問題は解決の糸口すら見えてこないのであった。世は民主主義。主権在民の政治制度である。私たち一般の国民が論理思考を使いこなせないことが、レベルの低い政治家を何度も当選させ続けてしまう原因であった。

問題の根は深い。しかし、明確ではある。大人である私たち一人一人が、日常的に論理を学ぶこと。構造的世界理解を目論むこと。活字に慣れることである。

 

合宿で取り入れたい

せっかくなので中計の振り返り合宿に取り入れることにしよう。ブレークダウン的に、まずは、閑話休題的に取り入れてみよう。あまり構えることをせず、リラックスして取りくめるようにしよう。何かが変わるかもしれない。刺激を受けてくれるかもしれない。子供がいる社員も多い。なにかのきっかっけを社会に投げかけられれば。

 

小学校1年生の問題は、単語は日常的なものが選ばれている。小難しい哲学用語などは皆無である。しかし、その背後に流れる「論理」は、大人に求められる構造と同じである。

 

論理とは何か。

人間はどうして論理を使うのか。

論理がなければこの社会はどうなってしまうのか。

 

もうすぐ連休である。そんなことをじっくり考えて見るのも一興だと思う。