feelとthink

think より feel を

歩き回りながらのプレゼンがちょっと前の流行りであった。ちっちゃなマイクをほっぺにくっつけて流暢なしゃべりで聴衆を魅了する。TEDというプレゼン番組の影響か、みな、同じように「出来るプレゼン」を競っていた。

心底、くだらないと思う。

いや実はみな、すでにそう感じているはず。ただ口に出さないだけ。自分には出来そうもないから。したくもないが・・・

その影響だろうか、会議の席でも「出来るやつ」に見られなければいけない、というような意識の若い社員が多いように感じる。自分にはそんなこと無理、そう思って口ごもるのも同じ土俵の上である。要は「外界に自分を合わせなければいけない」そう思ってしまう。意識とは裏腹に身体が反応してしまう。日本人はみなひとつの正解を必死で探す傾向が強い。日本における近代の病、日本人の典型的「自己疎外」現象であると思う。

 

図にあるとおり、そして、ブルース・リーが映画で言った通り(Don't think, feel!)、その人の魅力は、think(考える) より feel(感じる)を実践しているときこそ発揮される。まわりにどう映るかはその人の個性である。歩き回るか、直立不動でまっすぐに一点を見つめて話すかはどちらでもいい。周りはそんなことを「feel 感じて」はいない。見ているほうは、その人の正直な意見かどうかを feel 感じようとする。

大統領選挙で7300万票を獲得して負けたトランプも、民主党の候補として最後までバイデンと争ったバーニー・サンダースも、TEDのようなプレゼンとは無縁であった。でも、聴衆には受けた。トランプは言いたいことをまくしたてるだけ。サンダースは、演台にしがみつき一生懸命に主張するのみ。アメリカでもマッキンゼー出身でまさにTED風のスマートなエリート候補は早々に姿を消した。アメリカ人も、心の底ではグローバリゼーションにうんざりなのである。

若い人、経験の浅い人にいいたい。TEDのようなしゃべり方はやめなさい。それが正解だと思い込むのも考え直しなさい。茂木健一郎がなんと言おうが、ホリエモンがどんな本を出版しようが、それが自己疎外というやつです。近代の病です。逆に、それを諦めた時、私たちは近代という激流の渦と戦う準備が整うのです。

 

Think _緊張している自分

近代日本人は、意識の重心が高いところにある。頭の前、おでこのあたり。学歴が高い人、ベンチャー志向の学生などに特に多い。でも、そうした立場にあるものだけではない。緊張しているとき人はだいたいそうだ。他者によく見られたい、そうした座席争いへの欲望・損得勘定が近代人の強制されるエートスである。それが小さなころから染みついて離れない。「座席=安心=幸せ」、それが、日本社会が教える根本規範である。安心を得るために周りが正解だとすることに自分を押し込める。変形型意識高い系である。親や世間が善しとする価値基準にとりあえず合わせておけば責められないんだから、仲間内からはじかれないんだから・・・そうして進学・就職・結婚していく人がなんと多いことか。動機はみな、安心・安全(=座席確保)のためである。日本は信頼ではなく、安心という呪縛の社会である。社会学者山岸俊男さんの洞察である。日本人は他者を信頼などしていない。他者を愛してなどいない。ただ、自分が仲間外れになりたくないだけ。世界で断トツの一位だそうである。

これが「feel感じる」より「think考え」ようとする私たちの姿である。私も若いころはそうだった。そんな自分が嫌で嫌で仕方なかった。人前で緊張してしまうのも、人生を踏み誤ってしまうもの、同じ理由である。「感じ」ようとせず、「考え」ようとしてしまう。そうして、感じるこころは腹の奥深くに閉じ込められる。次第に何も感じなくなる。「内省」ってなんですか?それもよくわからない。休日の過ごし方すら教えてもらわなければわからない。雑誌に教えてもらって安心している始末である。いつも家族とステップワゴン。それが子供のためだから。安心・安全呪縛は日本中の「幸せ」な家族に侵食する。狂ったビジョンである。

 

意識という重心を低く保つ_ Feel

一方で瞑想が流行りである。これはいい傾向である。近代へのアンチテーゼ。みな、時代の異常さを感じ取っている。瞑想こそ、意識の重心を低く保つ作法である。「考える」より「感じる」こと。ことばを意識から排除して、自分がいまどんな感情に晒されているのかをまずは感じること。静かに静かに、目を閉じる。

次第に、人が周囲にいても、意識の重心を低く保つことが出来るようになる。会議の席で自分の発言の順番が回ってきても、重心がふわふわ浮つかなくなってくる。まずは、自身が近代と日本社会の罠にどっぷりとはまっていることに気が付くことだろう。自身の正直な感情をないがしろにしてしまうこと、それは不安の事始めである。

新しいことにチャレンジするのが仕事である。なじみの作業ならシステムに置き換えられてしまう。そんなものは重要な仕事たりえない。新しい文脈にこそ価値は眠る。だからこそ、意識の重心は低く保たないといけない。周りは重心の高い人を信用しない。不安や尊大さは、重心の「高さ」から来るからである。なぜか人間はそうした人間を鋭く見抜く。

 

ひとを好きになるこころ

重心が高いままの恋は恋ではないと思う。それは損得勘定である。婚活は損得勘定。わかってやるなら否定はしないし、需要と供給はつねに存在するのだから仕方ないのかもしれないが、自分が安心・安全(=座席の確保)のためにやっていることだけは自覚したほうがいいと思う。どんな人間にも浅ましさや損得勘定はあるのだろうが、無邪気な損得勘定ほど子供に悪い影響を及ぼすものはないと思うから。

逆に、純粋にひとを好きになる心は、重心が低いところにあると思う。そこには計算は働かず、何かに動かされているかのよう。何も異性間だけの話ではない。同性間の友情も、真の友情は重心が低いだろう。ほんとうの恋は友情が核にあるのかもしれない。相手を尊敬できてこそ、ひとを好きになる感情も芽生えるもの。その時、やはり重心は低いところにあるような気がする。

 

事業もおなじ構造の周辺を回っている。究極、「何をするかより誰とするか」ではないのか。同志の集まらない事業など、マーケットが受け入れたとしても詰まらないだろう。資本主義は爛熟すると社会主義になる、そういったのはイノベーションということばの生みの親であるシュンペーターである。ならば、事業もそろそろ爛熟の姿を探るべき時代か。MBA的合理性は、初期資本主義的事業の姿。業績は必須でも、業績のその先に、爛熟した事業の姿を探りたい。

 

人を好きになるような重心の低いこころ。考えるより感じる事業。そんな姿を求めることが、近代日本を救う事業になるのかもしれない。

Don't think, feel!、feelとthinkを巡って、そんなことを考えた。