詩人「石垣りん」が見つめたもの

詩人「石垣りん」が見つめたもの

その豊かな感受性が見つめていたもの

6月26日土曜日の日経に詩人 石垣りんさんが紹介された。2004年に84歳で亡くなっている詩人である。感じるところがあったので紹介したいと思う。

わたしは新聞を読むまで石垣りんさんを存じ上げなかったので、今、その詩集を取り寄せているところである。だから、まだ、彼女の全貌を全く知らない。それでも紹介されていたその断片だけからも考えるに十分な感受性が読み取れた。孫引きになって恐縮だが、少し引用してみたい。

 

 

『定年』より

ある日

会社がいった。

「あしたからこなくていいよ」

人間は黙っていた。

人間には人間のことばしかなかったから。

 

会社の耳には

会社のことばしか通じなかったから。

 

たしかに

はいった時から

相手は会社、だった。

人間なんていやしなかった。

 

 

りんは日本興業銀行(現在のみずほ銀行)に10代の頃、見習いで雇われ、以降、55歳の定年まで勤めたそうである。その定年の最後の日を表現した一遍である。痛烈な批判精神を感じるそのことば。いったい誰を、または、何を批判しているのだろうか。

定年を言い渡す上司も、自分の意見を言っているわけではないだろう。その上司も、そのまた上司も、自分の意思などそこにはなく、誰かに(何かに)急かされるように定年を告げているだけである。いいも悪いもない。ただ淡々と課された役割をこなすだけ。それをりんは「そこに人間なんていやしなかった」と表現している。なんともいたたまれない気持ちにさせる。

 

わたしたちすべての近代人にまとわりつく呪縛

でも、このいたたまれなさは、何も上司が悪いわけではない。会社を責めるとは、上司を責めることとはイコールではないだろう。りんが責めているのは近代社会そのものである。近代という時代が否応なく抱え込む「鳥かご」のような息苦しさ。私たちすべての近代人を縛りつける社会システムという呪縛。りんはそのメカニズムそのものに戦いを挑んでいたのではないのか。詩というフォーマットにことばを乗せることで私たち近代人の認識を鮮明にし、一矢を報いようとしていたように私には思えた。表現するくらいしか、私たち近代人がその呪縛から逃れる方法はないじゃないか、とでも言うように。

 

この世界には解決できない問題というものがある。それは地震や台風などの自然災害だけではなく、社会システムという人災も含まれる。一人一人は自分の人生を良きものにしようと毎日あくせく働いているだけなのに、全体としては巡り巡って自分や仲間を苦しめる。皆が一生懸命働くことで、得体のしれない不安は益々大きくなっていく。頑張れば頑張るほどに、内面はスッカラカンになってしまうのである。マルクスのいう自己疎外のメカニズムである。私たちは意図せず家畜のような存在になり果てる。

近代のメカニズムからは誰も逃れることは叶わない。いくら田舎に引っ越してみても、お金を貯めて南の島へ逃避行してみても、どこまでもいつまでも近代は私たちを追いかけてくる。それは空気のような存在である。息をするたびに、私たちの肺を徐々に蝕む汚れた空気の如き存在である。

 

詩人はなぜ詩を書くのだろうか

この汚れた空気の存在を明確に認識しているからこそ、詩人は詩を書くのだろう。書きたいから書いている、というよりもむしろ、書かずにはいられない、そういったほうが当たっていると思う。その鋭い感受性は、普通の人よりその汚れた空気の存在を感じてしまう。ことばにしてその姿を明らかにしない限り、身を焼き尽くされるような、そんな恐怖を感じてしまうのではないだろうか。已むにやまれずことばを紡ぐ。それが偽らざる詩人の姿なのだと思う。

りんの詩を読むと、そうした激しい内面の戦いを感じざるを得ないのである。寝ても覚めても自分にまとわりついて離れない、近代という名の重い影。普通の人ならやり過ごしてしまえるような上司の何気ないひと言に、どうしても反応してしまう自分が重いのではないのだろうか。りんの自宅はとても質素であったという。晩年、家族とも離れ一人で暮らすことを選んだそうである。呪縛が重すぎて、物理的な重荷まで背負いこみたくなかった、私にはそう感じられた。

 

 

『家出のすすめ』より

家は植木鉢

水をやって肥料をやって

芽をそだてる

いいえ、やがて根がつかえる。

 

家は夢のゆりかご

ゆりかごの中で

相手を食い殺すカマキリもいる。

 

だから家を出ましょう、

みんなおもてへ出ましょう

戸締りの大切な

せまいせまい家を捨てて。

 

 

りんの詩には「家」を題材にしたものが多いそうだ。ここでも家族という呪縛を振り払いたいという、りんの感性が押しつぶされそうな悲鳴を上げているようだ。家族は一番小さくて身近な社会そのものである。家族は時にさみしさを紛らわせてくれる存在かもしれないが、多くは鳥かごのような牢獄の役割を果たす。それが感性豊かな詩人には見えすぎるほど見えてしまうのであろう。胸を締め付けられる・・・

 

これがあなたの幸せです

家族ほどかけがえのないものはないのです

これが休日の幸せな過ごし方というものです

 

近代社会の幸せは、いつもどこか押し付けがましいのである。

 

詩を書くように

でも、近代の押し付けがましさは、わたしが創業したカイシャという存在と切っても切れないメカニズムである。私自身もその片棒を担いでいるのである。私が日々出す、社員への指示は、まさにこの呪縛から発せられるメッセージでもある。

それが嫌と言うほどわかっているからこそ、私はカイシャの仕事を問い直したいと思っている。資本制生産システムに翻弄される、私たち近代人の宿命を少しでも和らげる方法はないものか、それを考えざるをえない場所に自分を追い込む必要を感じるのである。

そこから逃げてしまうのでもなく、勝ち組座席をただ必死に取りに行くというのでもなく、淡々と、「詩を書くように」仕事が出来ないものか。りんが詩で行った「自己を浄化する行いという意味での日々」に、仕事を作り変えることはできないものか。そんなカイシャは作れないものか。そんなことを考えてしまう。

 

日本は、経済的には、次第に世界の地方になっていくだろう。でも、縮小する経済を目の前にする今だからこそ、戦後とは違う道を探る気にもなれる。まったく新しいカイシャの姿を創造できる。きっとできる・・・、いや、必ずや・・・

 

石垣りんの詩を読みながら、私はそんなことを考えていた。

彼女の詩集が届くのが楽しみである。