【ニュースコラム】全体性を失うことの罪_日経新聞の社説から
日経の論説委員に見えていないもの
6月23日の日経の社説に「最低賃金は根拠を明確に語れる改定を」という文章が載った。要約するとこんなことが書いてあった。「国の審議会が始まる。専門性の高い委員は根拠を明確に示して議論を適切に引っ張っていってほしい。労働者の生活の質の向上と中小企業の経営環境への配慮の両面を考えてほしい。」
労働者の生活の質と中小企業の存続と二つの相容れない課題が横たわる「最低賃金の改定」問題。こうしたトレードオフ問題に対処するにはどうすればいいのか。この社説を書いた論説委員は明らかに問題の捉え方を間違っている。
この論説委員の主張はこうだ。労働者の給与と中小企業の経営と、二つの相いれない課題を両睨みで解決するためには、両方への心理的な配慮が必要だから、明確な「根拠」を示す必要がある、と。ゆえに、ここは労働経済や労働政策に詳しい専門家の皆さんが議論を牽引すべきと。端的に証拠(=明確な根拠)を示してほしい、そういっている。そうすれば両者に納得してもらうことが出来る、と。完全にミスリードである。
そもそも「最低賃金の引き上げ」というテーマは、何問題なのか?が捉えられていない。この議論をする「そもそもの目的」が何なのかが捉えられていないのである。「最低賃金引上げ」議論の目的は、労働者の生活の質を向上させることでも、中小企業の経営者に負担を強いることを納得してもらうことでもない。それは「枝葉の議論」であって「目的」ではない。目的は、希少な資源であり唯一の経済のエンジンである経営者のイノベーション努力を促し、国の経済を発展させること。GDPを拡大路線に戻すことである。つまり「経済を成長させること」である。経済を成長させることで、あらゆる問題の根を断つことである。
中小企業に分類される企業に勤める人の割合は実に労働者の65%という。その労働者の給与を段階的に引き上げることで、元来、消費性向の高めな中間層の消費を刺激し景気回復につなげる。そして、その過程で賃金の計画的な引き上げを経営者に示し、中小企業の経営にイノベーションのプレッシャーを与え経営改革を促す。イギリスなどの成功例に習おう、という話である。
GDPは、消費+投資で表される。GDP=消費+投資である。経済発展のためには、「消費」を刺激し「投資」を喚起するしかない。ゆえに、まずは多数派である中小企業群に勤める労働者の給与を引き上げることで消費を喚起し、次に、賃金UPに促される形で経営効率の改善圧力を与え、企業のIT化投資などの設備投資を促す。端的に、経営者をもっと働かせよう、という議論なのである。
結果、国の経済を発展させ(=GDPが拡大)、税収を増やし、社会保障問題や財政問題など国の根幹の問題に解決の糸口を作り出すこと。そうした大きな絵柄の中に「最低賃金」の議論は位置付けなければならないのである。焦点は、企業の90%を占める社員20人以下の企業経営者の経営努力を促し、経済発展の唯一のエンジンであるイノベーションを喚起すること、それが「最低賃金」の議論の目的なのである。
日経の社説は、この点がすっぽり抜け落ちている。目の前の困難(労働者の生活の質・中小企業の業績の悪さ)ばかりに目が奪われて、社会全体のメカニズムに思いが至っていない。これでは審議会の議論は百害あって一利なしである。
近代社会の問題は全てつながっている
わたしたちが暮らす近代社会で起こる問題はすべて全体とつながっているのである。確率的には個別に対処すれば解決できる問題もあるにはあるだろうが、それも全体のメカニズムとの関連を考えたうえで「切り離して解決に当たれる」、と確信した時にのみ可能なだけである。
最低賃金の議論も、消費税の議論も、社会保障費高騰の議論も、少子高齢化の議論も、夫婦別姓の議論も、派遣労働者問題も、格差是正の議論も、保育所不足の議論も、財政健全化の議論も・・・円の弱さや、アメリカとの関係、中国との距離の取り方、そして、日本人が世界で最も幸福度が低いという問題まで、すべてはつながっているのである。
それらすべてをコンピュータの開発過程で示す業務フロー図や仕様書のように目に見える形でその図柄を描きだすことは不可能である。世界は要素還元主義で描くことが出来るコンピュータシステムのような存在ではない。科学ではいまだ解明されていない、テレパシーや念力などをも含め、複雑に絡まり合う相互依存メカニズムである。そもそも科学の方法論である要素還元主義では解明されることはないだろう。それはAIが人間を超えることはない、というシンギュラリティ―の議論ともパラレルである。AIが量子コンピュータの時代にも人間の知能を超えることはない事実は、最低賃金の議論をその足元から積み上げていっても解決は出来ないということとパラレルである。日経の論説委員は世界を間違ったイメージで捉えているのだろう。
世界は科学では解明できない。科学という要素還元主義の方法論では解決できないのである。科学はあくまで近似値に迫る方法論。世界はあまりにも巨大で複雑だから、便宜的に小分けにすることによって解決の糸口を探ろうとする方法論なのである。それを、この社説を書いた日経の論説委員は、真理と勘違いしている。科学的問題解決アプローチを駆使する専門化こそ、問題解決をリードすべきだという主張にそれは端的に表れている。
世界が要素還元主義では描き切れないとするとどうやって問題の本当のメカニズムに迫ればいいのか。どうやって目の前で起こる問題を解決しろと言うのか。それが「全体性と責任」をセットにした立場ある人間の意思決定が必要な理由なのである。
新聞社にはブランディングの意識はないのだろうか?
日経の論説委員がどれほど影響力があるかは定かではないが、仮にも日本の5大新聞の一つである。その社説は日経の意見だと思われても仕方ない。日本のビジネスマンの大半がなお読んでいる事実もある。こうした間違った意見を無邪気に信じてしまうビジネスパーソンもいることだろう。もっとちゃんと議論すべきである。
日本の新聞社は、会社としての意見をまとめようとする意識はないのだろうか。日経はこう考える、というメーカーだったら当たり前に議論するブランディングのような考え方はないのだろうか。社説に何を書くかは、その新聞社の主義主張をもっとも繁栄する場所ではないのだろうか。
経済を発展させるべきではなく、日本はアメリカか中国の属国になるべきである、という意見だから、「最低賃金の改定」の問題など解決しても仕方ない、という主張ならまだわかる。日本人には民主主義国家を運営する能力はないのだから、強くて大きな国の庇護のもとに収まるべきだ、そういうなら論理一貫するかもしれない。最低賃金の問題など、その巨大な国家を運営する政府の決定に従えばいい。考える必要もない。そういうならそれも意見ではある。(国民国家体制など、ここ数百年のことである。昔は、むしろ属国である選択をした民族の方が多い。)しかし、仮にも日本が独立国として今後も存在し続けるべきだと思うなら、社説くらい、しっかり意見をまとめて書いてほしいものである。
国民国家・民主主義・資本主義を3本柱とする近代社会において、もっとも重要な要素は、自分の頭で考えるということである。問題を全体性の中に捉え、位置づけ、全体性のままに解決のための仮説を立てていくこと。常に全体性(一番大きな目的・手段図式)を忘れずに問題に迫っていくこと。少なくとも立場のある人に求められる最低限の作法(能力)である。
立場のある人に必要なのは頭の良さではない、動機の健全さである
それでも、世界のすべてを見通せる人などこの近代社会にはいない。解決策もすべて「仮説」でしかない。いくら全体を見ようと努力しても、すべてを見ることなど不可能だからである。しかし、それを見ようとしてすべては見えないと謙虚になることと、はなから全体性などには思い至らない、というのとは天地ほどの開きがあるだろう。人間の能力では決して全体を見通すことが不可能な時に、それでも全体を見ようと努力し続ける人には必ず強烈な「健全な動機」が存在するからである。全体性の理解を諦める人の心の中には、この「健全な動機」がそもそもないのである。「健全」とは、すなわち、社会正義である。自分の保身よりも、社会全体の善きことを選ぼうとする「正義感」そのものである。
頭のいい専門家は、動機が健全な立場のある人が使えばいいのである。細かな深い知識は、その道を深く研究してきたいわゆる「専門家」に教えてもらえばいい。立場のある人は、説明が上手なヘッドを選ぶだけでいい。自分に対し、適切に情報を伝達してくれる補佐スタッフを揃えればいい(これもかなり難しいのではあるが)。そして、立場のある人は、その情報をもとに、全体性のメカニズムに照らして責任をもって意思決定をする。結果が伴わなければ、それなりの責任を取るのである。常に自分自身を、説明可能な状態に置いておくことが立場のある人に求められる一番の責任である。論理一貫性にこそこだわるべきといっていい。その中で現実妥当性を考えて適切に妥協する。それをいつも考えなければならないのである。
近代人の努力の方向性
どうして日本社会では責任ある立場の人から健全な動機が感じられないのだろうか。もはや「健全」ということばの意味すらわからないのか?感じる能力そのものを失っているのか?日本医師会の前会長のインタビュー記事やオリンピック開催を強行する政府の態度、そして、今日の日経の社説に見られるような論の建付けが、なぜ、これほど大規模に起こってしまうのだろうか。
小室直樹博士が喝破するように、天皇の人間宣言に端を発する急性アノミーに原因を求めることが一番合理的なようにも思う。そうした日本人の意識を原理として、戦後の義務教育が酷いものになっていることも大きな要素であろう。加えてマスコミの思想性のなさ、結果的に起こる国民一人一人の不勉強。すべてが相互依存的に負の連鎖を形成してしまっているのだろう。「鉄の檻」から「意思」を取り除くとこうなってしまうよ、という典型的な悪循環モデルということであろう。しかし、何か出来ないものか・・・
正直、私にもこの悪循環を逆回転させる端的な方法はわからない。そんな解決策などないのだとも思う。世界が巨大で複雑なメカニズムなのだとしたら、その全体システムを一気に善きものとすることを考えること自体が矛盾である。私たちに出来ることは、自分自身の持ち場を精一杯、健全な動機で守り抜くだけなのかもしれない。
「動機善なりや、私心なかりしか」
京セラの創業者、稲森さんのことばを思い出す。
「一隅を照らす」
天台宗の創設者、最澄のことばだそうである。
人間には、自分に出来ることを精一杯することしかできない。しかし、その動機をこそ問おうではないか。そんな風にいわれているように感じる。
問題を目の前にしたとき、頭のいいことを言って周りから承認されたいなどという浅ましい自分をこそ見つめたい。そうではなく、全体性を常に感じることで世界のメカニズムを感じたい。そうすることで一気には無理かもしれないが、世界をちょっとずつでも善き方向に動かしたい。それが近代人の努力の方向なのではないだろうか。偏差値を上げたいとか、テストでいい点数を取って誉められたいとか、そうしないと社会からはじかれるのが不安なのだとか、そうした不健全な動機をこそなくす努力をすべきなのだろう。
近代社会は立ち向かうにはあまりに巨大なメカニズムではある。
しかし、仕事のできる人と思われたいか、戦っている人と思われたいか。
そこを気を付けるだけで、全体のメカニズムは逆回転にちょっとだけ圧力がかかるはずである。
日経の社説には、少なくともそうした動機をもとにした分析意見を書いてほしい。6月23日の日経の社説を読みながら、そんなことを考えた。