民主主義のキホンの「キ」:憲法は国民から政府に対する命令文である

民主主義のキホンの「キ」:憲法は国民から政府に対する命令文である

六法全書の六法とはなんだ?

六法全書というのがある。憲法・民法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法・商法の六つの法律体系のことである。この6つの法律の中で一つだけ異質なものが存在する。それが憲法である。憲法は私たち「国民から政府への命令文」である。憲法を守らなければならないのは政府、すなわち時の総理大臣以下、各大臣、それから国家官僚といわれる行政官たち。そこがほかの法律と決定的に違う点である。わたしたち一人一人の国民は憲法を守らなくてよい。というより、憲法というものの性質上、国民は守ったり破ったり、ということが不可能なのである。それが民主主義憲法、民主主義社会の基本的な構造である。私たちが棲むこの民主主義社会を理解するうえで決定的に重要な点である。(刑法と刑事訴訟法も警察や検察、裁判官などの国家権力に対する命令である。民法・民事訴訟法・商法に関しては、わたしたちふつうの日本人の一般的な認識と大きなずれはない。)

民主主義における憲法とは、民主主義の歴史的な経緯にその濫觴をみる。聖徳太子の十七条憲法とは全く性質が異なるものである。同じ憲法という漢字だが、その意味するところは全く重なることがない。民主主義憲法を英語ではコンスティチューション(Constitutions)という。「構造」とか「構成」という意味である。すなわち、民主主義社会(=近代社会)の「基本構造、基本的な建付け」、そういう意味である。それが良いことか、悪いことかは、今は問わない。しかし、産業革命以降、つまり、19世紀以降の世界秩序は、アメリカや西ヨーロッパを中心として、この「民主主義の基本構造」を前提にして動いてきた。日本は明治以来、理由はどうあれこの構造を受け入れてきた。今の日本社会も大前提、民主主義国である。

 

しかし、日本人のほとんどは、この憲法の意味するところを知らない。国民一人一人から政府に対する命令文という基本的な構造を知らない。学校でも全く教えてくれないのである。ゆえに、誰も民主主義の本当の理念を知らない。民主主義の根幹的な価値観を知らないのである。それが原因で今、日本は崩壊の淵に立たされる。

 

「憲法はわたしたちから政府への命令文」これがわかると見えてくるものがある

近代憲法生成の歴史的経緯は『痛快!憲法学(小室直樹著)』に詳しいが、この民主主義の基本的な建付けの理解を通すと、見えてくるものがたくさんある。それにいくつか触れてみたい。

まず、第一に、今の政府のヘンチクリンさが見えてくる。

次に、その政府を監視すべきマスコミのヘンチクリンさが見えてくる。

最後に、そのマスコミを疑いもなく受け入れる私たち国民の意識のヘンチクリンさが見えてくる。

まずはわが政府。政府は憲法を守るのがその仕事。日本国憲法13条にあるように「国民の生命・財産を守り文化的で最低限の生活を保障する義務」を負う。それが政府の基本的な存在理由である。憲法の建付けがわからないと、この13条が頭に入らない。大事なのは9条より13条である。

民主主義の本家本元のアメリカでは、憲法を守らない政府は暴力で倒してもいい、ということになっている。革命権の保証である。しかし、日本の政府は憲法を守らない。つまり、わたしたち国民を守らない。北朝鮮に拉致された国民は軍隊を派遣してでも取り返すのがその責任。紛争地域で捉えられた日本人は奪還するのが政府の役割。また、基本的には自由競争の理念のもとに国民の経済活動を支え、それが滞りなく回るように法の下に監視をし、日銀は物価を安定させ、厚生労働省は年金制度で老後を支え、いざとなったら生活保障を積極的に活用してでも国民の最低限の生活を守ること。それらの政策パッケージに、もし国民が満足しなかったら、選挙で政権を交代させること。政府はどこまで行っても私たち国民の僕(しもべ)なのである。

選挙に訴える前にも国民にはやれることがある。それがマスコミによる権力の監視である。政府の行う一挙手一投足まで監視するのがマスコミの使命。それがジャーナリズムである。近代社会の政府(=国家権力)は基本、性悪説でみること。それが近代民主主義の歴史的経緯である。イギリスの名誉革命、フランス革命、アメリカの独立戦争などの歴史が現代社会に住む私たち一人一人を今でも規定する。近代政府はリバイアサン(手の付けられない怪獣)。暴力装置を完全に独占することで社会を安定させる。裏返すと、やる気になれば何でもできるという性格を備えることになった。ゆえに、わたしたち国民がグルグル巻きにして縛り上げ監視することで、その暴走を食い止める、それが基本的な建付けになったのである。その基本のクサリが憲法である。

欧米はもっと進んでいる。近代社会が巨大で複雑になるに従い、政府も巨大で複雑に。ゆえにマスコミだけでは監視できないからと、多くのNPOが立ち上がっている。政権の基本方針を分析するたくさんのシンクタンク、国会議員の法律への賛成・反対を専門に分析するNPO、人権や情報公開に関する専門的な監視団体などなど、次から次へとその活動の範囲を広げている。日常、忙しい私たち国民のためにわかりやすく政府の活動を説明してくれる。

わたしたち国民の一人一人にとって最も重要なのは教育である。(義務教育の義務とは、政府が国民に教育を施す「義務」であって、私たちが学校に通う「義務」ではない)。なかでも義務教育における社会科の授業。民主主義そのものの歴史や国への誇り、それを教えるのが民主主義国家の教育の目的である。私たち一人一人が日本人である誇りが持てるように義務教育の第一目標は設定される。近代社会は国民国家と民主主義と資本主義の3本柱。そのうちの一つの国民国家を前提にすると、「国民意識」は、一人一人の人生設計に決定的に重要なのである。国という単位で近代社会は構成され、その中で私たち一人一人は人生を送る。生活の場である近代社会の基本原理を知り、その中でそれぞれが自分と仲間の幸福を追求する。

 

命令文の背後にある「国民の一般意思」

また、多数決で決めることよりも前に、もっと原理的な大前提が近代民主主義・資本主義・国民国家社会には存在する。それが「意思」である。私たち一人一人の国民が「意思」をもって社会に関わること。「意思」を持って政治に参加することである。近代社会はその「意思」を持つために生涯、学習し続ける。社会人になっても何度でも大学に戻って勉強すべき、という議論はこのためである。自分の頭で考えられるように生涯学習を社会の基本に据え付けている。

そして、憲法はこの国民の意思を一般化したもの。つまり社会全体の意思を統合した「一般意思」と理解される。その憲法を基軸に社会を構成していくのである。ゆえに、大事なのは憲法そのものよりも「意思」の方。私たちに「意思」があって初めて近代社会は機能する。その「意思」を反映するのが国会である。国会の使命は国民の代表たる国会議員の自由討論となる。

 

世の中のニュースはだいたいこれで読み解ける

国民一人一人の意思を基本に近代社会は運営される。憲法という国民の「一般意思」を中心に社会はより高度に、しかし、その原理原則である主権在民を蔑ろにせず個別の課題に対応していく。ゆえに個人の考えは、自分以外の他者に伝わることが大前提である。ゆえに共通言語は英語というよりもむしろ「論理」である。シニフィアンのその奥のシニフィエを構造化することで大規模なコミュニケーションを可能にした。ゆえに、私たちが棲むこの近代社会を読み解く場合、その論理的な建付けの方に注目することで見えてくるものがあるというわけである。形式論理の最たるものが近代憲法(=コンスティチューション)である。その基本を見失わなければ、社会の出来事を淀みなく読み解くことが可能である。

最近のニュースを捉え返してみよう。するとその景色はまったく違ったものに見えてくることに気が付く。

ひとつだけ例を挙げてみる。コロナ禍への日本政府の対応。安倍前総理や菅総理の発言。小池東京都知事や大阪府知事の会見の様子などなど。最近の国内ニュースを賑わせる面々の発言に対する評価を説明してくれる。端的に、この人たちは憲法、すなわち、近代社会の建付けに従っていない。憲法違反である。(本当は私たち国民が知らないがためマスコミも政府も国民を舐めているのだが・・・)。まずは、緊急事態宣言の発令は、そもそもその原因の本質が説明不足。問題は頑張っている医療関係者への感謝でもなく、飲食店への協力金の遅配でもなく、緊急医療事態宣言であるという点。日本の医療制度の問題を放置して飲食店に自粛要請するのは端的に怠慢でしかない。日本人が憲法の建付けを知らないことをいいことに、感情に訴えて空気を醸成するのみ。医療制度改革を放棄しているという政府の怠慢を隠すために別の猫じゃらしをまき散らして国民の関心を集めないようにしている。マスコミはマスコミで、そんな政府の行動や発言をなんの批判もなしに垂れ流す。そして、国民はそんなNHKニュースを無批判に受け入れるのみ。その3者(政府・マスコミ・国民意識)が相互依存関係の三すくみ状態でバランスし、現状が全く改善されないという現象に繋がっているのである。

みんな頑張っている。菅さんも安倍さんも頑張っている。小池都知事においては自民党のおじいちゃんたちを相手に本当に頭が下がる・・・こうしたことは民主主義とは何の関係もないのである。それがわかるだろう。

 

社会の建付けを知りたい!探索する中で出会った渾身の一冊『痛快!憲法学』

私も実は20年前まで、この民主主義の原理をまったく知らなかった。学校で教わったこともない。知ったのは偶然と言っていいと思う。創業の時の経験がとても大きく影響している。

わたしは29歳の時にこの会社を創業したが、会社を作ったときは右も左もわからなくて本当に困ったものである。容易く人を信用してしまう性格も相まって詐欺にも騙された。たまに競争相手から届く内容証明郵便には最初、オッたまげたものだ。そのほか会社手続きにまつわることやら税金にまつわることやら、なにかと社会との接点が多い会社というやつに、私はなかば勉強を強制させられるようになっていったのである。こりゃ、わからないと倒産するな、と。最初の1年目で私は大きな借金を背負うことになったのも大きなきっかけであるかもしれない。創業時の資金繰りに2~3年は生きた心地がしなかったのを思い出す。結果的に夜逃げをするほどの勇気はなかったのだけれども私という存在の在り方を根底から変えてしまう経験だった。

そんな中、わからないなりに社会の構造・仕組みを知ろう、知ろう、と書籍などを貪るように読んでいったなかで出会ったのが『痛快!憲法学(小室直樹著)』である。最初に読んだときは本当に感動したのを覚えている。興奮で夜も眠れなかった。「そうか、社会ってこうなっているのか!」。それからというもの、会社の在り方や世界のニュースなど、一から見直す作業をしていった。哲学や宗教・思想史などの難しい学問的成果も読みこなせるようになっていった。

 

日本の経済が沈むのも政治が機能しないのも、すべて憲法に行きつく

『痛快!憲法学』の趣旨は、日本の現代の社会問題を歴史的に解明することである。日本や世界を構成する今の社会が、どのような歴史的経緯で生成してきたのか。どうしてアメリカは強いのか。どうして日本は戦争に負けたのか。どうして日本は失われた30年を経験しなければならなかったのか。どうして若者の給料は増えないのか。

議論の焦点のひとつは、中世から近代に歴史が展開していく際の、その歴史を推し進めたエネルギー源となったキリスト教プロテスタンティズムの行動規範(=エートス)の生成過程である。ルターの宗教改革からカルヴァンに連なるキリスト教予定説の原理。プロテスタント達の英雄的行動の原理である。人間がいかに現世で英雄となるのか。フランス革命やピューリタン革命、アメリカの建国などの裏には命を失うこともいとわない英雄的な個人がいたのである。

日本も明治維新期、プロテスタンティズムに似た型の思想が存在した。江戸時代後期から熟成してきた日本版予定説である。吉田松陰や坂本龍馬など幕末の志士たちの英雄的行動を歴史的・思想史的に説明してくれている。

 

人間の行動の原理を司るのは、その行動規範(=エートス)である。「心の習慣」とか「ものの見方・考え方」ともいえるものである。そのポイントが民主主義社会で最も重要となる「意思」なのである。「意思」は、歴史的に生成されたものである。人間に生来、備わっているものではない。ある状況の下で、人間は初めて「意思」を持つ。それが集団行動になったとき、近代社会は立ち上がっていったのである。

 

それがやがて憲法(=社会構造)というカタチで実を結ぶに至る。憲法を中心に社会問題を解決するために法律が整備されていく。立法機能を中心に司法・行政がそのルールのもと仕事をこなす。それが近代民主主義社会の原理である。

 

アメリカやヨーロッパ諸国にも多くの問題はある。生涯学習しない人も多いことだろう。しかし、民主主義の原理を共有しているがため、問題には健全に対処することが、まだ、可能なのである。大きな問題を前に途方に暮れなくて済む。それが近代社会・民主主義社会の知恵である。

 

「憲法とは、国民一人一人から政府への命令文である」

日本人はまだ、民主主義の基本の「キ」を知らない。

しかし、近代民主主義社会の大原則(=憲法)を知ることで、社会をよりクリアに見ることが可能になるのである。

 

『痛快!憲法学(小室直樹著)』私の一番のおススメである。