責任とは応答すること_レスポンシブル・カンパニー

責任とは応答すること_レスポンシブル・カンパニー

「責任」とは「呼びかけに応答できる可能性」のこと

「責任」とは、「呼びかけに応答できる可能性の大小」、つまり、「何かに気が付いたとき、それに自分なりの意思を持って応答・返答することができる可能性の大小」のことである。「責任」とは決して、謝罪することではないのである。自分が犯してしまったことに対して心から後悔の念を抱き「すみません・申し訳ございません」ということは、「謝罪」ではあっても「責任」を果たすことではないのである。それをスッキリ教えてもらったのでここに記したい。

 

「呼びかけ=何かに気が付いたとき」とは、例えば、そこに困った人がいる、困った状況がある、それを目にしたとき、という意味である。それに「応答・反応できる可能性」ということは、端的に、「無関心ではいない」、そういうことになる。自然と手を差し伸べたくなってしまう、そうした心のメカニズムの可能性を高め続けることをいう。無関心でいない自分の心の状態を高め続けること、である。例えば、地球環境問題や社会問題などに対して「ちゃんと自分なりの意見を語れるように準備すること」である。「世界のニュースに無関心でいることなく自分の意思を形成するように努めること」である。「課題」と「応答」を、淀みないことばで語れる自分を日々、作り上げるように努めることである。ぶつかった目の前の出来事を「公的な問題意識」の枠組みで「それは何問題か?」つまり、「=論点化・論点整理」し、「こうしたら解決できるのではないか?」と「仮説」に仕立て直し、計画し、実行し、検証し続けることである。つまり、公的な問題意識のもと仮説検証思考することこそが「責任」であり、公的なPDCAこそが「責任」である。それを「素直な外界への気づき」から形作っていくこと。それこそが「責任」という概念である。

 

責任=応答・可能性=レスポンス・アビリティ=response・ability=responsibility

「責任」という概念も、キリスト教一神教がその源であるそうだ。キリスト教社会ではこれを「呼びかけ=コール=神の呼びかけ」、そして、それに対する「応答=レスポンス=良心」と考える。ゆえに「責任」の英単語は「レスポンシビリティ(responsibility : response + ability)応答+可能性」、となる。「レスポンス(応答・反応)」は「コール(呼びかけ)」を前提とする。「隣人愛」の原理である。

日本人の理解とはかなりかけ離れている。日本人はたいてい「責任」を「罪+謝罪」と考える。なにか不祥事を起こした「責任者」をマスコミも世論も責め立てた挙句、頭を下げさせ辞任を要求する。そこで涙でも流そうものなら皆、溜飲を下げ「ほれ、みたことか」と歓喜する。酷いものになると「ざまーみろ、普段の行いが悪いからだ」と憤懣をぶつける対象にする。「責任者」がボロボロに泣き崩れ、後悔の念を表してこそ「責任は果たされた」と感じる。どうやら一神教社会とはかなりの差があるようだ。

この話をわたしは毎週欠かさず見ている「ビデオニュース」のなかで拾ったのである。これがビデオニュースの本当の価値である。学者やジャーナリストの価値である、そう思った。「こんな重要な概念をどうしてもっと早く知ることが出来なかったのか」そう後悔した。この概念を知っていると知らないとでは、経営に対する解像度が全く変わってきてしまうではないか。死ぬ前に知れてよかった・・・

 

レスポンス・アビリティは近代社会のキー概念

繰り返すが、日本人が考える「責任」とは「罪を犯した者が謝罪してそれを償うこと」である。ゆえに、レスポンシビリティという英単語を正確に訳していないことになる。詳しく調べたわけではないが、明治期、翻訳者がミスリードした、そういうことなのかもしれない。責任とは文字通り、レスポンス・アビリティ(応答・可能性)である。それが近代社会のあたりまえということになる。西洋一神教の思想をベースに形成されていった近代社会の建付けを考えると、これは決して外してはいけないキー概念である、そういうことになる。

なにも西洋かぶれになれ、ということではない。しかし、こと、この「責任」の概念になると、完全に日本社会は負けている、そう思わざるを得ない。責任を罪への謝罪と理解する先には何も価値あるものは生まれないのだから。近代社会にとっていいことなど何もないのだから。謝罪は、心をスッキリさせることはあるが、社会を善き方向に導くのには力不足である。メカニズム思考になっていない。世間貢献ではあっても社会貢献でないのである。

「謝罪したから禊(みそぎ)は済ませた」、これは出来の悪い政治家の常套句じゃないか。わたしたち国民は、そうした政治家の発言を聞いて憤慨し、落胆してきたのではなかったか。これも「責任とは謝罪して罪を償うこと」と私たちが定義しているゆえである。「責任ある」立場の人はこれを逆手にとって「もう謝罪したのだからいいだろ?」と嘯(うそぶ)くことが可能になってしまう。醜い謝罪会見なる光景が繰り返されることになる。日本人は誰も失敗から学ばない。しばらくすると忘れてしまう・・・

 

日本人は、つどつどの物語りは気にするが、長期的な、壮大な物語りは維持できない。社会を、一生を、論理一貫性の下に構築できない。これも「責任」の定義が定まっていないからである。

誰だって失敗はするさ。他人だけを責めてもしょうがない。自分だって完璧な人間ではないのだから・・・。田舎のおばあちゃんが言いそうなセリフである。

日本、今だ近代にあらず・・・

 

女性社員の一人に教えてもらった一冊の本

そんな話を社内でしていたらひとりの女性社員が一冊の本を持ってきてくれた。「これ、なんか社長と同じようなことを言ってますよ」。その本のタイトルは『レスポンシブル・カンパニー』、パタゴニアの理念を詳しく綴った2012年発行の新しい本だった。

わたしは「あっ、アメリカの社会では責任という概念が当たり前に理解されているんだな」「いや、キリスト教社会、つまり、ドイツやフランス、イギリス、そして、アメリカなどの社会では」である。いや、今やブラジルやアルゼンチン、ペルーといった南アメリカ社会、南アフリカやロシア、インドに至るまで共通の概念理解が広がっている(すでに常に)と考えたほうがよさそうだ、そう思った。「いや、もしかして、理解していないのは日本人だけなのではないか」。戦慄が走った。日本社会には日常的に思い当たることが多すぎる。責任の概念を正しく理解できていないことによる損失は莫大なものがある・・・

わたしはパタゴニアの真似をしろ、とは全く思わない。真似ほど不快なことはない。自分の内面の奥深くから湧き上がったこと以外を、もう自分の人生でやるつもりはない。しかし、こうも思う。近代社会というものは、そして、21世紀のグローバル社会というものは、こうしてつながりを深くしているのだな、と。遠く離れた会ったこともない人の書いた本を読んだ私が、これだけ反応してしまうのである。出版事業という資本主義のメカニズムに乗って瞬時につながりが作られた好例である。スマホを検索すれば、さらに詳しいことを知ることが出来るだろう。瞬時に、いつもの空間に居ながらにして・・・

 

内面の深いところも、実は関係から立ち上がる・・・、内面奥深くは、実は世界と地続きである・・・、そんなことを思い起こさせてくれる。

 

社員と資本主義のメカニズムに感謝である。早速、全社員分を注文した。

 

地球や社会に「善きこと」をすること=呼びかけに応答できる可能性を日々、高めること

頭の中の靄(もや)が一気に晴れたような感覚である。「責任とは、呼びかけに対して応答・反応できる可能性」のことである。これを学問の成果と呼ぶのであろう。さすが小室直樹の弟子の宮台真司である。ビデオニュースはいい仕事をしている。

わたしたちも負けてはいられない。コール+レスポンスの図式で表されるその「コール」とは「コーリング」すなわち「天職」というワードにも重なる言葉である。「責任ある企業を作ること」、それが自分の天職になっているのか、自問自答が回りだす。50にして天命を知る、そういえばそんなことばもあったなぁ・・・そんなことが頭の中でこだまして離れなくなる・・・。

 

わたしたちの会社は「唯一無二のブランド、プレコチリコを作ること」それが活動の焦点であることを中期経営計画の合宿を通じて明確にしていった。そして、日常の活動に戻りそれを目の前の仕事の中に確認していっているのである。ぶつかった問題に「それは何問題なのか?」と「論点整理」して課題を抽出し、ビジョンに照らして当たりを確認し、「こうすれば問題解決できるのではないか?」と仮説に落としてアクションプランに接続する。日々の具体的な活動は全部、遠い未来のビジョンと一体である。それを毎日毎日、確認しているのであった。

 

自分たちはレスポンシブルであるのか。

 

思い返してみれば、これこそが責任ある企業の姿ではなかったか。わたしたちは今、地球環境問題や社会問題に企業として本気で取り組もうとしている。「今日」は、そんな「未来」を作るための時間となっている。サプライチェーンの分析も、QA集のつくり込みも、インプレッション・コントロールの実践も、ひとつのよみものライティングも何もかも。カギはその目に見える活動というよりも、その活動を自分たちがどう捉えているかということ。「責任」という概念を正しく理解したうえで、「未来に対して責任ある会社をつくろう」として目の前の仕事に取り組むことが出来ているのかどうか。絶えず確認し、自分を鼓舞していくこと。それこそが「コール」に対する「レスポンス」の可能性を高めることであろう。

 

わたしたちの会社は、未来の課題に対して「レスポンシブル」でありたいと思う。日々、呼びかけに応じる可能性を高め続けるカイシャでありたいと思う。21世紀のこの日本で、誇れるカイシャを「つくり」たいと思う。それが結果的に優れたブランドになればいい。結果的に、売上・利益に繋がるようにすることが経営者の仕事である。

 

連鎖する、社員や取組先の内面のメカニズムの「つながり」を通じて結果的に数字を作ること。関係する人々の「善き意思」連鎖を回すことで財務数字という業績を手にすること。

 

それが誰にも恥じることない報酬というものだろう。

 

責任とは呼びかけに応答できる可能性の大小

つまり、

何かに気が付いたときそれに自分なりの意思を持って応答・返答することができる可能性の大小

のことである。決して、謝罪することではないのである。

 

日本人はいつまで謝罪し続けるのだろうか。

わたしは謝罪だけして実のところ何も応答できない、「責任(コール+レスポンス)」を果たさない、そんな人間にはなりたくないと思う。

 

もっとレスポンシブルな自分になること。もっとレスポンシブルな会社を作ること。

それこそがわたしたちのビジョンでありたい。