合宿報告②_中心のない星座(会社は空の器)

合宿報告②_中心のない星座(会社は空の器)

客観思考を超えて_組織は中心のない星座

どんなことばで表現したらよいのか、様々な切り口が浮かんでは消えてまとまらない。その時、組織は確かに一体感を生み出していた。社長は組織の中心ではなく、一人一人を支える黒子でしかなかった。私の役割をみなが取って代わっていく。みなが中心だった。いや、誰一人、中心ではなかったとあえて言うべきか。でも、そこには確かにひとつの星座のようなものが浮かび上がっていた。エネルギーがエネルギーを誘い、スパイラルアップして上昇していくかのようだった。

「ビジネスは客観的に分析して論理的に解を導くことが肝要である」。確かにそうだろう。しかし、その科学的思考のその先には、まだ、何か途方もないものが待っている気がする。徹底的な論理思考のその先には、主観・客観といったデカルト風の合理思考をも受け付けない、“存在論”の世界が広がっている。道元が『正法眼蔵』で確かに説明した“万法(まんぼう)に証せらるる”世界がある。「縁起は実存に先立つ」のである。共振するエネルギーが個人を強く現象させるのである。アイデンティティは個人の努力で確立するものではない。他者から教えてもらうものだ。“なりたい自分”は、前頭葉で探すものではなく、他者との関係から作り出すものだった。

 

会社は空の器

会社とは所詮、法人という名の「空の器」でしかないのだろう。なにか確固とした、客観的な「カイシャ」というものがそこにあるのではなく、ひとつひとつのオントロジーの重ね書きこそが浮かびあがらせるアレゴリーである。私たち人間の感情と同様の、刹那に浮かんでは消えるシャボン玉のようなものである。ひとつのことばや文章だけでは決して届くことはない。そこに固定的にあるものではない。存在を感じることは可能だが、目で見ることは決して叶わない。そこにいなかった人に説明することほど無意味なこともないかもしれない。それは「理解」するものではない。単に「感じる」ものである。

 

「未来」というものもそんなものかもしれない。私たち近代人はみな、「神」の代わりに「未来」をその地位に据えた。キリスト教徒ではない日本人にとってもそれは例外ではない。近代の鉄の檻からは、仏教徒たりとも逃れることは叶わない。近代人は未来を神とする。

キリスト教の神は誰もその目では見たことはない。夢枕に立つことはあるかもしれないが、科学的・物理学的には誰もその姿を見たものはいない。しかし、神は確かに存在する。人々が理想や良心を捨てない限り、神は確かにそこに存在するのだろう。近代人にとっての「未来」とは、そんなロマンの中にある。わたしたち近代人にとって、輝く未来は「神」と同じ働きをする。近代人にとっての「信仰心」は「企て」の中にあるのである。作為(科学的アプローチ)の中に一瞬、輝くもの、それが近代人の神(=未来)ではないか。

頭がボーっとしてしまうくらいの何時間にもわたるぶっ通しの議論の末に光った「いける感・やれる感」は、私たち近代人が触れることのできる「神」である。アウグスティヌスが神の存在に身体が震え、涙が止まらなくなると『告白』で書き記していたあの感動は、今や「未来」の中にこそ現れる。「神」を持たない、そして、アノミーに苛まれる私たち戦後日本人のソリダリテは、未来を紡ぐ必死の格闘の中にこそ現れるものなのだろう。ムスリムが同胞に感じるといわれるあの“紐帯(ソリダリテ)”は、わたしたち戦後日本人にとっては、組織の「いける感」の中にこそ見出すことができるのかもしれない。

 

世界観とは何だろうか

中期経営計画の合宿も、来週で3週目を迎える。いよいよ私たちの未来事業である「プレコチリコ」に議論が移る。今は、期待と不安が入り混じる、なんともいえない感情を楽しんでいる。

焦点は、プレコチリコが顧客に届ける「世界観」を感じることである。これも頭で理解するものではないのだろう。必死の「かさね書き」の末に、一瞬、浮かび上がるアレゴリーに違いない。

論理思考や科学的アプローチが、その導入になるであろうことは、間違いはない。いきなり「世界観」が浮かび上がることはない。そのアプローチ方法を来週はじっくり設計することにしよう。

 

私たちは昨日、全社員で、日々の活動の連環を現わした「効果メカニズム」なる図を共有した。それはAGSコンサルティングさんのある女性社員の方のご提案で実現した私たちの事業の「楽譜」のようなものである。見ているだけで、勝手に動き出しそうに見える、まさにソリダリテのシナリオライティングである。

プレコチリコの世界観は、その連環図を拡張した先に見えてくるものだろう。プレコチリコが新規事業だからといって、既存の事業と切り離されているわけではない。事業推進のエネルギーは、今ある事業の歴史の中から紡ぎだされる。すべてはつながっているのである。

とはいえ、新規事業というからには、新しい要素がそこには確かに存在することになる。ポイントはふたつ。総合通販とリピート通販の、その思想性の違いと、それに伴って分岐するRFMの使い方の相違である。結果、現場の活動の焦点はおのずと既存事業のそれとは違ってみえることになる。事業活動の起点は、商品の側から顧客の側に移動する。CSが組織活動の起点になるのである。顧客との関係性のその先に、関係性という非科学的な現象を科学するその先に、物理的な「商品」やサービスは浮かび上がることになる。科学的思考のその前に、「縁起は実存に先立つ」のことばの通り、顧客との関係性があってこその商品・サービスになるという図式である。

 

中計合宿も3週目を迎える。次はどんな星座が浮かび上がることだろう。今から楽しみである。