合宿報告①_瓦礫の中に光る星座

合宿報告①_瓦礫の中に光る星座

中期経営計画合宿

たしかに光った。あの瞬間、確かにみんなの中に星座が光った。中期経営計画の合宿を全社員参加で行っている中で、ひとつのグループの議論で「いける感」が光った瞬間があった。変動損益計算書という一見、お堅い数字の操作を繰り返す合宿ではあるが、その中で、確かに、未来がありありと見えた瞬間を私たちは経験した。メンバーが計算機片手に、必死になって未来の数字を叩いている最中、まだ実現していないにも関わらず、未来が手に取るように見えた瞬間があったのだ。未来を見通す一つの筋の通った物語りが浮かび上がった。未来がそこにあるかのようだった。

2日間、缶詰めになって死力を尽くす。3年後、6年後、9年後に至る戦略を、数字を使ってシュミレーションする。どの数字がカギになるのか、どんな活動が結果を左右するインパクトをもたらすのか。ホワイトボードが数字と図解で埋め尽くされていく。もう書く場所はない。すべてが消され、そして、また埋め尽くされる。

 

光る星座は感情までも動かす

合宿前、みんなである動画を視聴した。AI全盛の時代にあって、人間の職業がどんどんAIに代替えされていく不安のなか、人間にしか出来ない仕事とはなにか、というのが動画のテーマである。その中で語られたのは、AIとは何かというよりむしろ、人間とは何か、私たちが人間として存在するとはどういうことか、ということだった。私たちとコンピュータを分ける差異はどこにあるのか。それを解明することが、人間がAI時代に幸せに暮らすカギとなる。

AIにとってそこらへんに散らばる情報はただのガレキでしかない。何千、何万とあつめてみたところでガレキはただのガレキである。そこに意図的に人間が入力と出力を与えてやらなければ、AIは何かを吐き出すことはできない。しかし、人間は、そこに物語りを見出すことが出来る。なぜだか不思議だが、一瞬、意味のある形を見ることが出来る。ユダヤ系ドイツ人として近代社会の歴史的濫觴を突き詰めたウォルター・ベンヤミンの思想である。合理性を追求するのではない。そうした意味のある物語りを見出す能力を信じるのだと。それを信じられなくなった時、ひとはナチスのような残虐な行為を正当化する。論理的に正しいことだけを信じた結果がヒトラーの全体主義を生んだのだ、と。

この世界はそもそもデタラメである。世界は所詮、ガレキのような出鱈目な集合でしかない。ゆえに、論理だけに頼っていては、帰結は勢い、力のあるものの都合のいいように書き換えられてしまう。どんな残虐な行為も、力で正当化することが可能なのである。しかし、論理で説明することが困難でも、私たちはその出鱈目なガレキの中に、一瞬、意味のある星座を見出すことが出来る。「そうだ、そうなんだ、世界は確かにそうなってるよ」、そう感じる能力を私たちは持っている。ベンヤミンはそれをアレゴリーと呼び、コンピュータと人間の最大の違いとして提示してくれた。部分ではなく、全体を全体のまま捉える人間の不思議な能力として。人間には、未来を見通す力が備わる。その能力をフルに使うことで、私たちはAIに奪われない仕事を創造することができる。未来を自分たちで作ることが出来る。

 

会社が存在するとはどういうことか

会社とは不思議なものである。会社は指さしてその存在を確かめることが出来ない。そこにあるのはオフィスであり、机であり、せいぜいお店といった物理的な構造物である。でも、私たちが感じている会社というシロモノは、そんな無機質なカタマリを超越する。私たちが感じている会社というものは、そこにまとう物語りそのものである。そこに集まって喜怒哀楽の振れ幅いっぱいにぶつかり合ったときに光るあるひとつの星座である。

ガレキとは、参加する人間たちが抱く一つ一つの言葉たちである。何かのきっかけがないとそれは無秩序なままである。人は勝手に何かを思っているだけである。しかし、共に未来を描こうと、一定の時間を共有することでそのガレキが何かの意味を帯びることがある。確かに私たちの会社はそうなっている!そう感じることが出来る瞬間がある。中期経営計画という堅めの合宿で、私たちは確かに一つの星座を会社の未来の中に見出した。会社が存在するとは、究極、そういうことなのではないか、そう腹のあたりからこみ上げる強い感情を感じることができた。ニーチェがその実存哲学の中で語った「超人」を確かにその瞬間、感じたような気がしたのである。会社の存在とは、そういうものなのではないか。究極、ことばでも絵でもない、内面から湧き上がるエネルギーの重なり合い。そんな風に表現するしかないようなものなのである。

 

非日常を日常のなかへ

ハイデガーはこうした人間存在の不思議を『存在と時間』という主著の中で「世界=内=存在」という言葉で表現している。私たちは常にすでに頽落した存在ではあるが(日常の関係性に忙殺されている状態)、未来を企てたその時(投企)、時間は一瞬消え去り、人間は確かに存在する、と。私たちは世界という文脈の中の一部であり、それは常にすでに出鱈目ではあるが、未来に向けて何かを企てた時、その出鱈目な文脈はひとつの物語りに変身することがあるのだ、と。無秩序が秩序を帯びるとき、人間は確かにそこに存在する。

キルケゴールはそれを「時間と永遠」という対比で表現している。私たち近代人はスケジュールに絶えず追われている。それは何人たりとも逃げられない。しかし、企てに集中したある瞬間、時間が消え去るその一瞬、人間は永遠である、と。キリスト教徒であるキルケゴールは、それを神と存在が一致した瞬間になぞらえる。それを信仰と呼ぶ。そして、それが人間を絶望から救い出し死なずに生きる選択を取らせるのだ、という。

日本の哲学者である内山節(うちやまたかし)は、それを「作る」ということばに込めている。人間は、無意味に見える目の前の情報を一つ一つ操作し、意味のある一連のカタマリにする作業を通じて何かを作り出すとき、実存(生きている実感・唯一無二感・私が私であるという実感)を感じることができるのだ、と。モノとの関係でも、概念との関係でも、自分以外の他者と関係でも、何かとの関係を新たに構築しなおす過程で、人という生命は生きるのである。

 

中期経営計画とは未来を見通す一つの星座である

中期経営計画は、経営陣が社員に強制する数字の目標ではない。そこに参加する社員全員がその存在を賭け、描く未来の物語りである。必要なのは「いける感」という感情の高まりであり、シンプルに内面から湧き上がるエネルギーである。それをいかに醸成するか。もうしばらく合宿は続く。