俯瞰し続けることの価値_Credoに挑む

俯瞰し続けることの価値_Credoに挑む

アノミー、それは座標軸がないこと

人間に自由意思はあるのか。これは人類の歴史と共に古い問題である。素朴にはもちろん「自分は自分の意志で考え、行動し、決断している」と思っているが、それが凝り固まった“ものの見方・考え方”であることは、近代の社会科学の発展が示すとおりである。人間は「社会」に埋め込まれた存在であり、その「社会」は、空間的・歴史的に広がりを有する、変化して止まない巨大メカニズムの産物である。私たちは誰一人、社会システムから離れて思考することは叶わない。

その社会が戦後、病魔に犯されたままになっている。要は戦後日本には、あったはずの規範がなくなってしまったのである。有史以来続く日本独特の社会構造と相まって、失われた宗教性は私たちから価値基準を奪い去ってしまった。団塊ジュニア世代以降の私たちには、寄って立つ一般規範が社会から与えられることはない。私たちは生まれてずっと、底の抜けた架空の地面に立っているのである。「誰の意見でも尊重すべき」そんな訳の分からない主張に頷かざるを得ない相対主義の極致である。その不安は計り知れない。

すがりつくのは偏差値制度のみ。受験戦争は、こうした戦後アノミーが生み出した現象であって、誰かが意図して作ったものではない。年功序列や終身雇用制度、機能しないマスコミなども、当の本人たちには如何ともしがたい現象でしかない。そこに意思などない。

ゆえに、今の浮遊する政治にも座標軸はない。判断基準はないのである。そこにあるのは人気取りのキョロ目のみ。でも、悪いのは政治家ではない。端的に社会メカニズムである。GoToキャンペーンに群がる浅ましい行動も、メカニズムが生む腐敗臭である。しかし、それによって座標はさらに溶解し、残り少ない規範は最後のかけらを残すだけとなっている。コロナ禍は私たちの身体を蝕むというより私たちの内面を外側から溶かしているように見える。

すがりつくべき座標はどこにもない。必要なのは目に見える「所属集団」ではなくこころの拠り所となる「準拠集団」。生活の糧をくれる会社をはじめとする機能集団や家族・親戚・友人・ご近所づきあいなどの目に見える所属集団は私たちの内面の幸せには必ずしも寄与しない。私たちが本当に望むのは「価値を掲げる抽象的な心の集団=準拠集団」である。

 

座標をこしらえようとすること_それが俯瞰する意味

社会はどんどん溶解する。世界宗教の真空地帯である戦後日本に必要なのは皆が帰れるホームベース、拠り所である。

どこでそれを作り出すのか。決定打はもはやない。それぞれが、それぞれの持ち場で生きる上での信条となる「Credo」を打ち立てるしかない。でも、どうやって?「正直に生きよう」や「他者を自分のように大切にしよう」というだけでは、うまくいきそうもない。歴史的な視座に立ち、人間存在の真理に根差した根本的・原理的な「Credo=戒律・約束」が必要である。

出来なくとも、それが苦手だとしても、巨視的視点で俯瞰すべし。人類の知的営みを渉猟し、メカニズムでする枠組みづくりである。

今の私たちは宇宙空間に浮遊するエンジンの壊れた難破船のごとき。「水が低きから高きに流れる」ように感じる「なんかヘン」な座りの悪い感覚を取り除き、安定感をもって日々を過ごせるような座標軸は、自身を俯瞰する巨視的な視座によってしかもたらされないだろう。間違っていてもいい。ないよりある方が議論になる。恐れることなくまずは杭を打ってみる。

 

財務諸表は目的合理性の中心、必要なのは「なぜ?」という問い

良かれ悪しかれ、私たちが棲む近代社会は目的合理性を養分とする自動メリーゴーランドである。それは端的に財務諸表を中心に社会を眺める視座である。資本の論理である。バランスシートの社会的連鎖からは誰一人、逃れる方法はない。問題は、それから逃れる術を探すことではなく、それとうまく付き合う方法論である。

財務諸表を分析しても「目的合理性」の中からは一歩も外へは出られない。カッコよくコーポレートファイナンスを気取っても生きる意味は見つからない。目的合理性と価値合理性は論理的には直行するのみ。「うまい投資」は本質的に必要悪のマウントであって、ロマンではないのである。

今必要なのは「なぜ?」それを活用しなければならないのか、というベーシックな問いかけである。なぜ、業績を上げようとするのか。なぜ、事業を推進するのか、である。IT技術や工学は、目的合理性の枠内である。それを覆う人文科学の知恵こそ必要な理屈である。

「諸行無常・諸法無我・縁起」、「無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死」、「正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定」、「存在論・オントロジー・アレゴリー」、「予定説、偶像崇拝の禁止」、「学習、マーケティング・イノベーション」。人類の生きるための知恵を総動員せよ。

 

Credoを本気でこしらえる

MBAは必須である。でも、残念ながらMBAは、金は生むが意味は生まない。一部の幸運な輩だけが他者を蔑むことによって瞬間的に心理的満足に浸れるだけである。しかし、それとて常に追い落とされる危機感に苛まれる。そこに持続性はない。

必要なのは世界宗教に見られるような「戒律」である。若干の窮屈さを許容することで他者とのソリダリテ(=連帯)を生む「規範」である。それを組織単位で生み出すことが求められる。しかも、全員参加の営みによって。

ことばだけを押し付けても意味はない。ことばは単なる音やインクのシミでしかない。重要なのはそこに宿る意味・物語りである。完璧なることばが必要なのではない。十分に検討されることこそ肝要である。ことばは単なるインクのシミ。その理解がCredo成功のカギを握る。

 

徹底的に深く掘ることである。しかし、俯瞰することを放棄したら負けである。近代社会は常に未完のプロジェクト。作り続ける時間そのものに価値は眠る。すべてを掘り返すつもりで挑むこと。それ自体が価値である。結果はむしろどうでもよい。

AIには不可能なこの矛盾する知の営みにこそ、戦後日本が直面する危機への対処のヒントがある。