経営のカタチ(2)プレコチリコで働く「意味」

経営のカタチ、一気にその蘊奥に迫る

私たちの経営のカタチを第1回目のスケッチで12項目の連鎖に整理した。今回は、それをど真ん中から掘り進めて見たい。一気に蘊奥にまで迫りたい。すなわち、⑤我々の事業は何か、そして、⑧社員にしてほしいこと、である。

 

「我々の事業は何か⑤」。「事業」を「使命」と言い換えてもいい。我々の使命は何か(つまりは、それが「我々がすべきこと」=「社員にしてほしいこと⑧」である)。それは「健全なソリダリテ」の創出に通じる種を撒くこと、であった。

ソリダリテとは連帯意識のことだが、連帯意識とはそもそも何なのか。人間が生きている実感を持つ上で、どうしても必要と社会科学で結論づけられる「連帯・意識」とは、果たして「何との連帯」で、「どんな繋がり意識」なのか。人間はどんな時に孤独を感じずにいられるのか。癒されるのだろうか。そもそも生きるとは何か。そんな人間存在の不思議に通じる問いでもある。

それは、「自分以外の他者」との連帯、すなわち、「他者と繋がっている意識」に他ならない。しかし、他者とは、時に、身の回りの生きている人間だけではない。身近にいてもつながりを感じないこともある。亡くなってしまった祖母や祖父だっていまだに重要な他者であることだってある。まだ会ったことのない、しかし、これからの人生で会ってみたいと思える人や、会うことが叶わなかったが会ってみたかった先人たちなども含まれる。時には、何千年も前の「古典の中に棲む賢人」や「万葉集の名もなき作者」と「連帯」を感じることだって可能だろう。誰かの手で作られたもの、絵や音楽などの作品に触れた時だって「つながり」を感じることもある。他者とはひとやモノ、文脈にまで広がる概念であろう。

では、「感じることが出来る」「つながり」とは何か。私はそれを「何かの文脈を解釈しているとき」、つまり、「創訳・創作しているとき=学習しているとき」といいたいと思う。その、「ことば」による解釈(=学習=創訳・創作活動)の瞬間、自分から離れた一定の距離の、ある地点で「何か」がきらめく。パッと交流電燈のごとくに現象することがある。自分の意識が作る世界のなかで、何かが小さくもはっきりと光る。何かが“わかった!”と、膝を打つような感触といえようか。それが「他者」との「つながり」の正体である。分析対象にはとても出来ない。物自体ではない。触ることもできない。しかし、確かに存在する。そして、その瞬間「他者の文脈」と「自分自身の文脈」が「共振する」。おなじリズムで運動し始める。少なくともそう感じられる。それが、「連帯(ソリダリテ)」の正体でもある・・・仏教における「空」そのものである。

つまり、「我々の事業(=使命)は何か⑤」=「社員にしてほしいことは何か⑧」それは、「ことばによる表現活動」そのものということになる。ことばを紡ぐことによって、遠くにいるかもしれない「私のような誰か」に向けてソリダリテの種を供給することといえる。違和感を懸命にことばにすることによって、健全なソリダリテの種は生まれ出る。

 

「商品」と「よみもの」がお客様とのコミュニケーションの接点である

「ことばによる表現活動(=解釈・創訳・創作・学習)」は、何を巡って行われるのだろうか。それが、私たちの場合は「商品」と「よみもの」である。それがないと組織活動はバラバラになる。会社を一緒にやっている意味もないだろう。そして、それが、お客様との「唯一」にして「最大・最強」の接点でもある。

「商品」と「よみもの」を通じて、お客様とコミュニケーションを行う。コミュニケーションとは表現活動であり、解釈活動であり、創訳・創作活動であり、学習活動である。それが私たちの「種まき活動」に他ならない。健全なソリダリテは、こうしてひとつずつ、少しずつ、積み重なる。プレコチリコの世界はこうして広がる。だから、「商品はことば」という。商品の物理的な側面にも増して、想起される物語りの側面にこそ、あえて意識を向けるのである。

 

「商品」と「よみもの」は、詩(ポエム)でなければならないと思う

「ことばによる表現」というものを突き詰めると、詩(ポエム)になるだろうと思う。ことばの集合体、それはポエムという名の作品である。だから、私たちが作る「商品」や「よみもの」は、それ自体が後世に残り、評価の対象になる「作品」である。世界を切り取る「物語り」である。売れればいい、ページビューが稼げればいい、そういうものではない。それはあくまで事業継続のための制約条件であり必要条件である。必要条件だけを意識するような、そんな雑な仕事は、我々の「なされるべきこと」ではない。

だから、私たちは、就業時間中に文学作品を読む。万葉集を読む。詩集を読むのである。仏教を学び、儒教を研究し思索する。短歌や俳句に親しみ、ミスチルや映画を論じ合う。休日には、美術館を訪れ、京都や鎌倉のお寺に足を延ばす。公園を散歩し、草花や木々から季節を感じ取る。自分自身の感情を適切に表現してくれる「ことば」を、あらゆる媒体を通じて仕入れるのである。シニフィアンとシニフィエの接続の事例を仕入れるのである。「ことばは所詮、他者のもの」と言ったのはロラン・バルトであったか。感情の表現事例集を他者のことば(=他者の世界)から借り受ける。そして、自らの主体性(=私の世界)で結びなおす。「結んで・ほどく」を繰り返す。「しっくり」くるまで繰り返す。それが学習=創訳の核心であり、表現の本質である。それが詩(ポエム)づくりの焦点である。それが私たちの、商品開発とよみもの開発における意識の焦点である。

 

人間存在とは表現そのもの、人間は詩(ポエム)で出来ている

適切なことばを見つけ、淀みない物語りに仕上げられたときは本当に嬉しい。なにか、身体の中が浄化されたような、血液を新鮮なものに入れ替えたような、そんな爽快な感覚が身体を駆け抜ける。何度でも読み返して、また、浸りたくなる、そんな「想起の館」が出来上がる。疲れた時でも元気をくれるような「お気に入り」たちに囲まれるようだ。何度でも読みたくなる詩集や、聞きたくなる歌や音楽にも似ている気がする。実際、私は、スポティファイの代わりに、プレコチリコのよみものサイトやコーポレートサイトを開くことが増えた。「お気に入りのよみもの」を読んで、フーっと息を吐く。

その時、思うのだ。別に、滋養強壮サプリメントやカンフル注射を打ったわけでもないのに、どうしてこんなにも元気になれるのだろうか、と。

その時思った。人間存在とは、表現(=ポエム)そのものなのではないか。人間の身体を構成する何十億という細胞は、おかしなことばや文章に触れると苛立ち、心地よいポエムや物語りに触れると、喜び勇んで秩序正しく整列するのかもしれない。あたかも、仏教でいうダルマの神髄に触れたような、世界の摂理につながったような・・・。エントロピーに逆らう秩序形成のネゲントロピーである。ポエムはまさに、生命そのものなのかもしれない。

 

淀みないことばの連鎖、世界とのつながり、それは健全なるソリダリテ

時に、ことばを紡ぐことは苦しみを伴う。感情にふさわしいことばを見つけることができないと、全身の細胞に無秩序が襲いかかり、エントロピーの方向に流され胃のあたりのイライラを生む。いつの日か、自分も土に帰るのだということを細胞が思い出すのかもしれない。

しかし、やはり相応しいことばを見つけられたときは、大きな快楽で満たされる。それは淀みないことばの連鎖であり、世界との意味的なつながりでもある。そして、そのつながりは、時空を超え、私のような誰かに届くのを待つ。たとえ私たち自身が死に絶えたとしても、綴ったことばは永遠である。インターネット上に、それこそ永遠に刻まれる。

その波紋の源たる発火は、いつどこで起こるかはわからない。しかし、必ずいつかどこかで、私たちのことばに共振し、心の奥深くから熱を発する人が現れるだろう。それは健全なるソリダリテを育てる種になる。種はやがて芽を出し、枝を伸ばし、花を咲かせることだろう。

そう、我々は、森に苗木を植えるよりもむしろ、人間社会を構成する、すでにあることばの織物という森に、苗木としての新しい「表現」を植えようと思う。社員の数だけある「内省」という苗床から芽吹いた生まれたての「表現」を植えようと思う。孤独という誰もが抱える人間存在の土壌に、ことばというソリダリテの種を植えようと思う。そのひとつの「ことば=表現」を拾い上げた、私のような誰かの心の中に、新しい意味という芽が生まれ出るのを期待しながら・・・。

それが私たちプレコチリコという事業である。そして使命である。わたしたちの日々の仕事である。時に苦しくとも踏ん張る、働く意味である。