体制づくりの勘どころ

大企業への飛躍(必要な社内機能_規模拡大への課題)

大企業の定義が何たるかは置いておいて、会社を創業したものとして事業規模を拡大することは本能的な欲である。自分が生まれたこの社会・国に対して少しでも善きことを残して死にたいと思うのは、創業者として当然のことである。しかし、その願いの前に立ちはだかるものがある。中堅規模に育った企業が次に大きな課題として感じるもの。それが、必要機能の充実である。それは端的にマネジメント人材(リーダー)の獲得である。

何度も何度も、経営計画を書いている経営者なら誰しも感じることであろうが、構想を練ることはそれほど難しくはないのである。スマートな外資系コンサルが声高に喧伝するほど、戦略の構築に困難は感じない。それよりなにより、現場現実の経営において難しいのは、その構想の真意を伝え実行することである。経営の現場では常に人材が足りない。頭数ではない。事業を財務的・戦略的にコミュニケーションできる人材が足りないのである。数字でのコミュニケーション、科学的なコミュニケーションである。経営者と問題なく議論できる人材が足りない。これが中堅規模の企業が大企業へ脱皮できない最大の困難である。

中堅規模に育った企業において必用な機能は、原理的に大企業と変わらない。人事や財務・法務・総務などのサポート機能も充実させる必要がある。計画立案機能、制度設計機能、システム構築機能など直接的に価値を生まない補助機能の充実も欠かせない。主活動(原価・変動費)の次は従活動(販管費)の機能充実である。そうでなければ事業の拡大に耐えられない。コストは次第に上昇し、利益率が落ちてくる。せっかく獲得した売上も、赤字で仕上げては意味がない。構想では、利益率を高めながら規模を拡大できるはず。でも、実際はそうはいかない・・・、結局、社長自身が抱えすぎて事業速度が落ちることになる。それが大方の成長企業の姿であろう。リソース不足を実感する瞬間である。

さて何とかならないものか。どんな会社も大企業に育った会社は、この難問をクリアした。ある会社は有名になることで。ある会社は奇跡的な出会いによって。立志伝中の物語りは、今も語り継がれる。

でも、二匹目のドジョウを求めるのは、空を飛びたいと願うようなもの。戦後アノミーがこれほど浸潤した日本社会において、即戦力の人材は多くはない。自ら知の探索を怠らず、若いうちから勉強熱心な人間は限られているのである。さてどうするか。

 

「外部固定費」という発想

この問題を解決する手段が「外部固定費」という発想である。優秀な人材を、必要機能ごとに契約で固定的に獲得するのである。社員に払う人件費を、外部の優秀な人材に充てる。伝統的な変動損益書の拡大解釈である。

これには二つの大きな論点がある。

ひとつ目の論点は、もちろん優秀な機能を即戦力で獲得できるということ。経営者が持つ固定観念を自覚できれば可能である。すなわち、固定的で比較的長期の契約料という躊躇である。社員には原理的に無制限で長期契約を結ぶくせに、外部の優秀なスタッフには同じだけの固定費を支払いたくない。そんな感覚が日本人経営者には根強い。おかしなことである。おそらくこれは、経営者自身のちっちゃなプライドが邪魔しているのだろう。私も理解できる。しかし、21世紀のこの時代、必要な機能をすべて社内で抱える必要などないのである。一つ目の論点は、西洋二元論的に徹底的にドライに考えてしまうことで解決できる。

二つ目は日本的な「空の原理」に支配される社会からくる論点である。すなわち、社内文化という視点だ。日本の経営者なら感じているが、取引先で優秀だと感じていた人が、入社してみるとそれほどでもなかった、ということはよく起こる。しかし、これはその人の能力の問題でも、経営者自身の人を見る目の欠如でもない。日本社会が抱える構造的問題が遠因である。それが「形式論理」と「空の原理」の対立である。

経営は基本、形式論理で考えていく。対象とする自由市場が形式論理的に動いているのだから当たり前である。戦略の構築も財務戦略も基本、要素還元主義的に科学的・合理的に組み立てる。取引先とのコミュニケーションではこの形式論理的な側面でコミュニケーションをしているはずである。優秀な人材と感じる人とも、基本、形式論理の枠を出ないはずだ。ゆえにその時の印象が間違っているわけではない。

一方、社内に入るとどうなるか。日本人は、近しい人間とは「空の原理」でコミュニケーションを行うようになる。「遠くの親戚より近くの他人」という言葉が象徴するように、内側と外側という感覚が日本人の感覚である。しかし、これに自覚的な経営者は少ない。ゆえに、形式論理的優秀な人材が、近くに来たとたん陳腐に感じるという現象が起きるのである。「空の原理」は、人間関係やその時の心情を「察する」とか、「そこまでは踏み込まないだろう普通・・・」というような言葉が示すような人間同士の距離感に敏感な感覚である。自分を大将として扱ってくれなくなると途端に経営者はその人を優秀ではないとみなし始める。これ日本人のエートスである。別にちっちゃな人間というわけではない。織田信長や徳川家康もそうだった・・・

この二つ目の論点が、外部固定費という発想でクリアできるのである。優秀な人材と「空の原理」で付き合わなくてもいい。これまで通り、形式論理の範疇でがっつり協力し合えればそれでいい。

 

社内は強固な文化で固める

「空の原理」は日本人2000年のエートスである。今さら絶対に変えられない。世界、とりわけ近代資本主義社会が形式論理で動いていようが、大前研一がなんと批判しようが、日本人は決して変わらない。それなら、このエートスを成果につなげる工夫をこそするべきであろう。実際、歴史を見ると「空の原理」を活用して、見事に花を咲かせた事例も多いのである。明治維新にはじまり大正デモクラシーにつながる無血革命、最近では平民宰相田中角栄の誕生、少し遡っても、最澄・空海や親鸞・法然の革新的仏教受容、織田信長の戦争イノベーションなど枚挙にいとまがない。現代社会ではアニメやアイドル・オタク文化など世界をリードするコンテンツの根っこにはこの「空の原理」が横たわっている。少なくとも私にはそう映る・・・

社内の組織作りはこれを基盤にするのである。この「空の原理」をベースに組織を作る。すなわち、形式論理的機能(マネジメント機能)は外部固定費で補完し、組織全体(現場まで含めたもの)は形式論理を当てはめない。エネルギーの創出だけを意識して、基本、自由な試行錯誤に任せきる。ゆえにマネジメント機能と一般機能を人事制度で明確に区別するのである。その理念自体も社内に隠すことなく説明する。マネジメント、すなわち、形式論理的仕事はストレスがかかる。ゆえに、給与で報いるのだと。マネジメントをやるかどうかは本人の意思と能力である。

 

クラスター・ダイバーシティという発想

それではダイバーシティ経営に反している、とおしかりを受けるだろうか。しかし、私は、その批判も当たっていないと思う。日本人にダイバーシティは無理である。日本人は「打って一丸」。ひとつにまとまってこそソリダリテが生まれる民族である。プロテスタンティズムを基盤にするアメリカ人になるなど土台無理である。

日本人は「空気」に支配されるからダメなんだ、そういわれて久しいが、それは悪い面ばかりを強調するからである。確かに、日本人に国家をつくることはできない。財政はこのまま破綻に向かう。日本の高級官僚はもはや形式論理を諦めている。国会の論戦など、形式論理的には破綻している。誰の目にも明らかである。しかし、一企業の経営という観点では、日本人は決して不得意ではない。むしろ世界に冠たる企業を多数輩出してきている。今でもそうである。ドラッカーを一番理解できるのはアメリカ人ではない。「空の原理」をエートスに持つ日本人である。

「外部固定費」という発想も、形式論理から出てくるものではない。むしろ変幻自在の「空の原理」からこそ出てくる発想である。ダイバーシティも「空の原理」で考える。すなわち、クラスター・ダイバーシティである。

なにも社内に無理して多様性を抱える必要はない。緩やかな取引先ネットワークの中に、多様性を自然と包摂する。それでいいではないか。

西洋人はある枠組みの中に、多様性を包摂しないと気が済まないのである。それは包摂の外側は人間としてみなさない、そうした激烈な文化を持っているからである。黒人奴隷への差別が典型である。包摂の外側は基本、人間として扱わない。殺そうが何しようが構わない・・・それが、プロテスタントたちの負の歴史である。これに立ち戻るのが怖いから、ダイバーシティという概念を生み出した。日本人の歴史観・社会観とは関係ない。

だから流行の経営用語も、日本人用に柔軟に書き換えればいいのである。親鸞や法然が仏教受容の際にしたように、この土地の人々にあったように書き換えればいい。それが「クラスター・ダイバーシティ」という発想である。

 

直接雇用が21世紀の会社の使命ではない(社会全体での雇用創出)

少し大きな視点で眺めてみる。会社の使命のひとつは雇用の創出ではないか、という発想である。しかし、これもクリアできる。なにも社内に雇用を抱える必要はない。「打って一丸」になりきれない人材を無理に縛り付けるのは罪である。それよりも、社会全体での雇用創出に発想を転換する。クラスター・ダイバーシティという発想を原理に、ネットワーク型の雇用創出を画策すればいい。経営者同士、お互いに強みを発揮して、ネットワークで事業規模の拡大に挑む。

日本の経営者はまだ、終身雇用や年功序列賃金制度の呪縛から自由ではない。社会保険の制度がいまだ昔のままだからいけないのかもしれない。「扶養家族税制」などという前近代的な制度を温存しているくらいである。ある意味仕方ない。しかし、経営者は言い訳できない。現場現実に対応し、目の前の業績を上げ続けなければならない。そのために発想する。自由に、「空の原理」で発想する。

 

それは、我々日本人経営者の得意技である。

事業構造の転換を図るここ2~3年で考えたことである。

体制作りで悩む経営者は多い。

参考までに。