ネットの神は細部に宿る

ネットの神は細部に宿る

大きなことと、小さなことと

3年に及ぶ基幹システムの再開発に一定の目途がたったことで、年明けから新たな中期経営計画の策定作業に取りかかった。次に、浸透のための断続的な合宿が2か月半、そして今は、現場での試運転期間を過ごしている。試運転は2か月あまり。6月と7月である。来期は8月から。それで中計一期の3年間が始まる。

10年後の将来を描く作業から一転して、今は、目の前の課題に取り組む日々である。目の前の一件の「納期回答」「自動返信メールの文言」「生産の遅れを知らされるひとつの会話」「サムネイルの端っこに小さく書かれる商品コピー」・・・。しかし、そのどれもが確かに10年後の未来につながっていることを思い知らされる日々である。中計合宿の時に描いた「機能連環図」を思い出す。大きな目標は、目の前の小さな作業の積み重ね。一つでも妥協したら、その妥協した成果が積みあがる。まさに「神は細部に宿る」のことば通りである。

 

ネットの時代は細部の時代

考えてみれば当たり前なのだが、これは誰もが出来ることではないのかもしれない。油断をするとやり過ごしてしまいそうになる。一方で大きな未来を描いていなければ、目の前の小さな作業は“単なる退屈な作業”に成り下がる。

しかし、今や世界の小売りの先頭を走るAmazonも、世界のSNSの先頭を走るFacebookも、スマホを世に出したアップルも、現場でこだわり続けたのは「細部」である。Amazonのサイトの成功要因は、膨大な商品数の中でほしい商品にたどり着くための検索機能、それを支えるレビューとおススメ機能の正確さであった。Facebookは初め、校内のコミュニケーションを円滑にすることを目的に作られた趣味のサイトでしかなかった。巨大化したのは使う人が世界一になったからである。使う人の立場に立って地味な改善作業をどこよりも早く正確にやってのけた。スマホの成功は技術的な課題とデザイン・操作性のトレードオフを、最後まで妥協せずに乗り越え切ったこと。世界を制したその原動力もまた現場の細部へのこだわりであったのである。

21世紀の事業はネットを抜きには語れない。その特徴は、20世紀の大雑把なサービス設計を受け付けない。SEOにしろ、サイトのユーザビリティにしろ、物理的な面積は数センチ、時に数ミリ四方の中で勝負が決まる。まさにネットの時代は細部の時代である。

 

世界のメディア王の戦略

今日、ちょうど、メディア王の異名を取るインドネシアの新興財閥MNCグループのハリー会長のインタビューが日経に載った。インドネシアでのネットバンキングの競争に名乗りを上げる、という趣旨。強気の表情が熱く語る戦略は、大きな目標とは対照的に番組のあいだに表示するQRコードの話であった。27千万人の人口を擁するインドネシアのネットバンキングを制しようという戦略のカナメがわずか数センチ四方のQRコードである。今までならば何かアンバランスな感覚を抱いてしまうところかもしれないが、これがネットなのであろう。大きなことと、小さなことが、ダイレクトにつながっている、好例である。小さな画面の片隅にあるスペースが、世界を制するカギになるかもしれない。巨大財閥のCEOはそのことを知り尽くしている。インドネシアにも「神は細部に宿る」という言い回しがあるのだろうか。

 

1000億企業の創業社長もハガキの文言ひとつにこだわっていた

そういえば、私が創業前にお世話になった会社の社長も、はがき一枚の文言ひとつに異常なほどのこだわりを見せていた。ある日のひとこと。「この注文ハガキの最後の言い回しが気に入らない。」そして、おもむろに立ち上がり備え付けの黒板にチョークで自ら文言を書き殴る。「ここは、します、ではなく致します、だな・・・」当時の私は、そんなこと現場の社員に任せればいいのに、そんなことを思っていた気もするが、今思うととんでもない勘違いだったと思う。そうして10年後、その企業は1000億円をはるかに超える業績をたたき出した。今もその成長は継続中である。全体と細部を同時に考え、今、何をすべきか、何にこだわるべきか、捨てるべきかを知ってることが業績の原動力である。

 

競合よりも、細部に徹底的にこだわること

わたしたちの中計も、その実現段階に入ったら、こうした細部の積み重ねをいかに徹底するかにが勝負の分かれ目である。メールの語尾ひとつ、そのタイトルのわかりやすさひとつ、ひとつの商品の納期のお約束ひとつ・・・

もちろん、それらをネットワークとして支える基幹システムの開発が不可欠である。私たちの会社では、そのシステムの開発を何度も失敗してきた経緯がある。しかし、その停滞の時期ももう終わりである。システムはローンチまで秒読み段階に入った。

競争の激しいネットの世界。その激しい競争を制するのは、こうした一つ一つの細部にいかにこだわり続けられるのか。そして、そのこだわった細部の集合をどれだけ多くの人々の目に触れるようにできるのか、ということであるのだろう。

 

人間が生きることそのもの

若い時は、なんだか自分の人生が選ばれたものであるかのような錯覚に目が曇り、目の前の小さなことに集中できないことがある。どこか遠くの大きく見える何ものかに心奪われることがある。しかし、年を重ねて気が付くのは、それは幻想でしかないということ。「ここではないどこかに自分を認めてくれる場所がある」というのは、空っぽな自分を埋めるための方便だと気が付くものである。「神は細部に宿る」ことを、頭でわかっていても実行できないその原因は、どうやら自分自身の心の中にこそあるのだという証拠である。

世に大業をなした人あり。

しかし、その誰一人として、大きなことから手を付けた人などいないのかもしれない。

 

今日も、目の前の小さなことに一所懸命になろう。

最近の仕事の中で、そんなことを考えた。