マルクスの使い方_企業人の場合

マルクスの使い方_企業人の場合

貢献しようとしているのは思想家だけではない

『資本論』のなかでマルクスは、生産物であり使用価値でもある一見平凡な「商品」を、「形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとに満ちた極めて奇怪なもの」として捉えなおした。これは「商品」が「人間の意思を超えて動き出し人間を拘束する一つの観念形態(『マルクスその可能性の中心』柄谷行人著)」であることを描いたことになる。マルクスは、「商品」には人間を内面から拘束する魔力があると見抜いたのである。単なる経済学ではない思想としての魅力を『資本論』に感じるゆえんである。物象化のメカニズムは人間の内面をもわしづかみにするといえよう。

しかし、ものごとは視座をどこに置くかでその見え方は変わりうる。世界は人間の主観が作る。思想家の主観だけが世界を作っているのではない。企業で働く者にも世界は作れるのである。

21世紀の今も、今だ有効である、いや、ますますその力を強固にしている「商品」の「人間を拘束する」性質は、転倒させて捉えることが可能である。「人間を拘束する」という魔力を利用して善き社会を創造することが可能である。すなわち、われわれ企業人は「企業理念(企業ブランド=思想)」を、世界を変えるテコとして使えるはずである。つまり、マルクスの思想が明らかにしたメカニズムを、企業人の「善き企て」を成功させるために反転利用するのである。近代世界システムを一番底で作用させている物象化現象という巨体の体重を利用して土俵際でうっちゃりつつ、善き理念を実装させることが可能である。うっちゃる技術は「マーケティング&イノベーション」と呼ぶ。『マネジメント』においてドラッカーが明らかにした概念である。

企業人はマルクスが気が付いた「商品」に宿る「魔力」を理解し、「マーケティング&イノベーション」の技術を使って社会に善きことを実装できるのである。

 

市場を変化させる、つまり、顧客の認識を刷新する技能である「マーケティング&イノベーション」は学問よりも機動的に世界を変化させる。概念がテキスト化され世に問われるよりも先に、実験(仮説)は実行に移される。社会実装は学問によってテキスト化されるよりはるか前である。概念が言語化されるはるか前段で「商品」は市場に投入され実験は開始されているのである。

そもそもイノベーションとは「商品」を通じて顧客の頭の中に起こる概念変化、顧客の世界観変化のことを指す。範囲は小さかったり大きかったり様々だが、それがドラッカーが示したマネジメント思想である。巷で流布する「イノベーション=技術革新」との定義は狭すぎる。

もちろん玉石混交である。社会に害を及ぼす「悪しきメカニズム」も多い。ゲームやネット広告や金融の過剰はもはや看過できない。業績のみを追い求め、時代への手当を無視するビジネスを野放しにしてはいけないし、今後は許す余裕もなくなるはずである。地球環境がそうした幼い無邪気さに耐えられなくなる。

しかし、動機善なる「概念」であればビジネスは「善なる思想」を実装させる力を持ちうる。マルクスとドラッカーで会社は世界を変えられるのである。

ビジネスとは本質的に市場メカニズムを活用した布教活動という側面がある。要はブランドの「概念」、つまり、考え方=哲学の奥行きが問われている。「商品」は思想の先兵であろう。「商品」はキリスト教の宣教師のアナロジーである。一番奥には、使命・理念・理想=時代への手当としての哲学=ブランド哲学が存在するべきである。

その時初めて企業の本業そのものが社会貢献的となる。

 

Cred(クレド)としての商品憲法

それを基本方針にブレークダウンしたのがCred(クレド)である。私たちが顧客へ約束する行動規範であり、宗教の戒律にも似た誓いである。キリスト教圏の企業はこれを神に誓うのだろう。ブランドの求心点であり使命であり、ブランド哲学である。ドラッカーは「われわれの使命は何か?」として企業人が考えるべき一番最初の問いに据える。

 

私たちは「商品憲法」として6つの領域に誓いを立てる。私たちは6つの窓から自社の商品やサービスを見ることで社会貢献的な事業を実装しようと企てる。

 

【プレコチリコ商品憲法】

※憲法とは「買い手」としての権力を縛るものである。

 

1.時代を捉えた切り口を有すること

・時代の構造と潮流変化への認識を絶えず刷新し続けるよう社内に闊達な議論の「場」を「つくる」こと

・顧客が自身の生活や人生を「つくる」ことを応援する商品やサービス、そして、事業そのものを「つくる」こと

2.長く使える商品に仕上げること

・商品設計の意図やこだわり(小さな企て)が見えるようにする手段を「つくる」こと

・長く使いたくなる商品とは何かを考え、絶えず顧客へのメッセージを「つくる」こと

3.ていねいに心を込めてつくること

・生産者が丁寧に「つくりたい」と意志したくなる状況を絶えず「つくる」ように努めること

・使い続けられるアフターサービスの仕組みを「つくる」こと

4.お届け日の約束を守ること

・早く届けることよりも一度お約束した納期を守れるような生産・流通プロセスを「つくり」マネジメントすること

5.地球環境に負荷をかけないこと

・地球環境に負荷をかけないようリサイクル可能/廃棄可能な原材料を選ぶこと

・使い終わった後まで考えた商品を「つくる」こと

6.顔の見える人間どうしのつながりの中でつくること

・生産者である委託工場と企画者であるプレコチリコが対等に議論できるような取り組み形態を「つくる」こと

・買い手としての強い立場を利用して生産者の尊厳を冒すような取引を決してしないこと(そうした仕組みと内面を「つくる」こと)

・顧客目線を忘れず、取組先との対等な議論の「場」を積極的に「つくる」こと

 

ひとことで要約すると、事業活動を通じた絶えざる「コモンの創造」である。年間50万件を超える商品出荷がコモン創造の機会となる。1200本のコンテナ輸入がコモンの種である。

コモンとは、お金を超えた富のこと。人間が人間として豊かに生きるための共通資本である。それは自然環境といった目に見えるものもあれば、コミュニケーション手段や人間関係のような目には見えないものまで含まれる。

とりわけわれわれは、企業活動が発するメッセージが責任ある企業が果たさなければならない最大のコモンの創造と考えている。それは「自分にも共同体にも『コモン(共通で普遍的)』で有用な意味付け」であり、顧客との対話を通じて育つ企業理念・ブランド理念(=コモンセンス)である。事業活動の現場ではそれがクレド(商品憲法)のような基本方針としての行動規範を形成する。

 

日本企業こそ「コモンの創造」を理解すべき

1991年のソビエト連邦崩壊以降、世界は新自由主義一色に染められた。その結果、自由経済への参加人口は10億人からいっきに40億人を超え、今では地球に住む全人口が何らかの形で市場活動に携わっているといっていい。ウォーラーステインのいう近代世界システムは一気に小さく強固に凝縮してしまった。新自由主義は先進国以外の多くの国々を豊かにした反面、地球温暖化を招き環境問題は崖っぷちに追い込まれてしまった。企業は業績だけを追いかけている自由が許されなくなった。市場経済は必要だが、手放しに売上を求めることは人間の幸福を考えた場合、片側しか見ていないことに気がつくべきときである。

 

こうした時代の雰囲気を敏感に感じ取った人々がマルクスを見直し始めているのである。それは世界的な潮流である。アメリカのバーニー・サンダース現象、メルケル引退後のドイツの社会民主党の勝利、日本でも斎藤幸平さんの『人新生の資本論』がベストセラーになるなどネオリベの修正は今やトレンドである。

しかし、ここ日本の自民党・産業界を中心とする既得権益層は旧来のやり方を変えようとしていない。30年前のまま時間が止まったかのように見えるのはおそらく先進国で日本だけである。

世界の潮流を知らないはずのない日本経済新聞も、新自由主義を前提にした議論を変えようとはしていない。売上10兆円を目指すという日本電産を手放しで賞賛する姿勢が、マルクスのいう「魔力」に取り付かれているように見えるのは私だけではあるまい。「形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとに満ちた極めて奇怪なもの」としての売上の魔力を思い知る。もはや1兆円の売上を10兆円にすべき合理的な理由などない。新自由主義は世界の一面の真実しか捉えていない。人間の幸福とはそんな単純なものではないだろう。日経新聞は「そんなに売ってどうするのか?」となぜ問わないのだろうか。

ESG投資がトレンドだから環境問題に取り組もうとか、EUの市場がルールを決めそうだから商品構成を変えようだとか、日本企業はどうしてアジャストしか出来ないのだろう。盲目かアジャストか、日本企業に意思はないのだろうか。売上を10兆円にしたいという「思い」は「意思」などではないだろう。それは疎外を引き起こす「魔力」に取り付かれた「依存」である。内面から湧き上がる本当の「意思」を置き去りにして、メカニズムに「依存」する思考停止である。

 

いまこそマルクスを再考すべき

マルクス主義と国家が強烈に結びつき、20世紀初頭のマルクスはひどく評判の悪いものになってしまった。しかし、それは本質的なマルクス理解ではない。マルクスは近代社会のメカニズムを明らかにしたのであって狂信的なイデオロギーを主張したわけではない。ソ連や中国が便利に政治利用しただけでしかないのである。共産主義とはそういうものではない。

マルクスは企業人こそ読まなければならない古典である。

マルクスは近代世界の困難を明らかにしたのである。資本の論理によって世界はどんな不幸を抱え込むことになるかを明らかにしたのである。しかし、学者は現実を直接的に変える武器を持たない。思想は大事だが、下部構造に直接的に手を触れる術を持たない。そこは実際人である企業人がバトンを引き継ぐべきなのである。理論家が行った有効な仕事を、実際人である企業人は自社のマネジメントに引き継ぐ責任がある。それこそがドラッカーが訴えたマネジメントの責任である。売上だけに耽溺している場合ではないのである。

 

MBAでは不十分である。MBAは社会の一側面にしか光を当てていない。MBAは業績を上げるために「使命」を利用しようとする。「使命」の前に「業績」が鎮座する。それでは企業人にとっての不都合な真実を外部化することにしかならないのである。

マルクスが明らかにした「商品」という「奇怪な」メカニズムを転倒させ、ドラッカーのイノベーションを実践すべきである。そして、それぞれに可能なコモンの創造を使命とすべきである。そして、そうした理念と地続きのクレドを打ち立てるべきである。そうしなければ、次世代にこの地球を今のような美しいままでは残せない。子供たちに申し開きが出来ない。未来の子供たちは売上を世界一上げたモンスターより、正義感に満ちた企業人を尊敬することになるはずである。

 

今こそ企業に働くものがマルクスを読むべきである。

マルクスの本質を事業の実践に生かすべき時である。

21世紀、それが真のレスポンシブル・カンパニーへの近道だと思う。