全社員企画職_わたしたちの挑戦

全社員企画職_わたしたちの挑戦

経営に正義を_それが全社員企画職を掲げる本当の意味

ニッポンの困難を考えた時、何よりも重要なのは・・・、「健全な動機をもとに自ら企て問題を突破できる人を育てること」、それに尽きる。かねてからそう思ってきた。カイシャが集団でことをなす意味は、一人ではできないことを組織で実現すること、という側面もあるが、その本領は、組織を通じ結果的に人が育つことであると思う。そして、その急所が、

「健全な動機×問題を突破する力」をいかに育てるか、である。

健全な動機を持つだけでは不十分。問題解決できる能力を持つだけでは逆に害悪をもたらす可能性さえあるとき、その両者を備える人は少ない。近代社会の宿痾である「鉄の檻」の存在を認め、それから逃げるのではなく、健全に立ち向かえる人間をどう増やすのか。それが、民主主義社会におけるカイシャの本質的な存在価値であろう。

儲けることは当たり前である。それから逃げてはいけない。会社の第一の使命は「向こう2~3年の業績を作ること」。しかし、そうした業績を上げて意味のある社会が崩壊しようとしているとき、それを見て見ぬふりはどうやっても正当化できないはずである。働く人の数が一番多い以上、「鉄の檻」の存在を前提にした「実存を感じるハタラク哲学」の確率は急務なはず。長期的な業績への影響も大きいはずである。

カイシャの在り方が未来を占うバロメーター。日本の長期低迷も、アメリカの左右分断も、ヨーロッパの右傾化も、中国の権威主義も、すべて根は同じである。それは、民主主義陣営の弱体化。その原理となってしまっているデモクラシーの弱体化である。端的に、正義感をもって仕事にあたろうとする人の枯渇に尽きる。民主主義の最高権力者である市民一人一人が意思を放棄した時、世界は「鉄の檻」の吸引力に抗えなくなる。一人一人は意思を放棄しただけでは済まなくなる。資本制生産システムという回転に徐々に巻き込まれ、家畜化・昆虫化し、やがて植物のようにそこらへんを漂うだけとなるだろう。

近代社会において、それがいかに困難か、は問題ではない。「健全な」解決手段はそれしかないのである。人間を大切にしながら近代の「鉄の檻」に対処する術は他にない。

AIなどのコンピュータシステムで解決しようとする勢力はいる。GAFAなどのIT企業が拠り所にする正当性である。家畜になってもいいではないか、というより、もはやそれを防ぐ術はない、そう考える。ならば、そうした家畜たちを黙らせる方法を技術で実現すればいいではないか、と。それがコンピュータ・ゲームの隆盛であり、麻薬の合法化の議論である。何も考えない人々は、薬を打つか、ゲームで気を紛らわしてもらえればいいではないか、と。これをアクセラレーショニズムという。近代をもっともっと推し進めろ!日本語では加速主義。シリコンバレー的な正当化である。

「健全な動機で社会改革を企てられる人を増やすこと」

それしか、こうした「合理的」な勢力に対抗する手段は存在しない。多分本人は自覚していないと思うが・・・、安倍晋三や麻生太郎、菅義偉、小泉進次郎、小池百合子なども基本、アクセラレーショニストである。そのほうが国は統治しやすいと思っている。

 

前回、デービット・アトキンソンさんの「最低賃金UPに賛成」という記事を書いたが、中小零細企業の経営者に対するエールを、という意味では重なる議論である。日本は、もはや政府や大企業に頼ることは不可能である。小さな会社が頑張るしか方法はない。

 

読解力とか、知識とか・・・、それよりも何よりも・・・

そうした人をどう育てるのか。私たちが掲げる全社員企画職の要諦である。

企画職に重要なのは、読解力とか科学的アプローチとか論理思考とか知識とか・・・、さまざま言われるのだけれども、その本質的な能力を司るのは「正義感」である。要は、いつもいつも、全体の目的を第一に考えていること。一番かわいい自分自身よりも、世のため人のためを手放さないでいられる力、それが最も重要な要素であると思う。ちょっとした瞬間に、浅ましい自分が出てくることを自覚できる能力。ちょっとやそっとでは解決できそうにない問題にぶつかった時、自分の責任だと思って集中力を発揮できる能力。そうした力こそ基本である。

マネジャーや経営者になって日が浅い人や、大企業のように下からエレベーター式に出世してきて役員をやっているような人、もしくは、二世や三世として実力以外で経営者になったような人の中には、経営(=マネジメント)を知識の集積と思いこんでいる人が多い。財務や法務、人事やM&A、マーケティングなど、そうした学校で学べるような知識を積み上げれば自然と出来るようになるものだと思い込んでいる人々が多い。雨後の竹の子の如く、そうした人に出くわす機会の方がはるかに多い。しかし、「健全な動機」と「論理思考などのIQ的能力」とどちらがより重要かと言えば、それは間違いなく「健全な動機」の方である。「IQ的能力」はもちろんあるに越したことはないが、ここまで近代の病が浸潤した時代にあっては、健全な動機を持つ者に会うほうが確率は下がる気がする。特に日本においてはそうである。

だからこそ、健全な動機を持つものに、自ら企て、問題を突破する技能を根気強く身に着けてもらうことが私たち小さな会社の経営者に求められるのである。経営者の責任の第一は「向こう2~3年の業績を上げること」であることは論を待たないが、その次に重要なのは、この企画者の育成である。今の日本では、業績を上げるだけでは十分ではない。それでは社会全体を孫子の代に渡せない。社会の未来に誇れるカイシャには到底なりえない。経営者は正義感を捨ててはいけない。自分自身への自戒も込めて、そこをこそはっきりさせなければいけないと思う。

 

だから経営者は待つことが仕事の半分である

だけれども、実際の経営の現場はそれほど生易しいものではない。向こう2~3年の業績を上げながら、健全な動機と問題解決能力を備える人間を育てることは、完全なるトレードオフである。一方は短期的利益、一方は、長期的利益、あまりにも長期的な、しかも、カイシャの枠を超えた社会全体に向けての利益である。ゆえに経営者はその現場で、何度も、何度も、その矛盾に引き裂かれる。自分が答えてしまえば済む問題を、あえて、現場に任せて答えが出るのをじっと待つ。現場から出る答えはその多くがトンチンカンである。大枠の文脈(状況)さえ押さえていないことも多い。そもそも目的を忘れていました、と自己免責的に反省の弁を述べることを繰り返すものも多い。そんな時、わたし自身、自分は何をやっているんだ?とその目指すべきものの大きさを見失いそうになることもある。そもそも矛盾した話を延々聞かされることは、論理的なコミュニケーションの何倍も疲労する。夜も眠れなくなる・・・

 

実は、だからこそこの文章を書いている。自分の胸の内をはっきりとしたことばにして、また、明日から元気にチャレンジできるように、と。そして、この文章が巡り巡って私のような誰かに届き、その人が元気に明日からまた頑張れるように。そんな期待も込めて書いている。

経営者の仕事の半分は待つことである。最近、つくづく、そう思う。

 

自力で突破する_全社目的がいつも頭に浮かぶか?

そして、企画職についての具体体な課題の話。

企画職にとって重要なことの一丁目一番地をはっきりさせよう(もちろんデモクラシー市民にとっても同様)。それは一番大きな目的手段図式に浸っているか?ということである。寝ても覚めても、まずは、全社目的をこそ思考の始まりにすること。決して、部門の目的や職種の目的、自身のプライベートな都合を全集合にして思考を始めないこと、である。疲れていることもある。気が乗らないことも人間だからあるだろう。しかし、そんなときでさえ、一番大きな目的手段図式を決して忘れてはいけない。そうすれば、休むことも時に目的のためであることに気が付ける。他者活用という技術にも自然と気が付けるようになるだろう。座席争いやマウントのための勉強など人生の無駄だと気が付けるようになる。

そして、一番大きな目的手段図式に浸ることは、同時に、自分自身の「動機」をも問うことになる。もし、その会社の経営者が社会を本気で憂いているのなら、その会社の経営理念が正義感に裏打ちされていると感じることが出来るのなら、一番大きな目的を考えることは、イコール、自身の健全な動機を問うことに重なる。もちろん、まずは全社の業績が重要。それがなければ社会貢献の資格そのものを失ってしまう。しかし、業績のその先の目的をも含めて「一番大きな目的」とすることは、社会や世界のメカニズムを考え抜くことに繋がり、それは、自分自身の死や生を考えることに繋がらざるを得ないからである。

世界のメカニズムとはすなわち、仏教でいう「法(ダルマ)」である。社会は世界の内側を形成する。社会は世界の一部である。近代社会の資本制生産システムに裏打ちされた市場の法則も、そもそも、科学的アプローチと一般的に言われる西洋二元論的なものの見方・考え方も、すべて人類の大きな認識の歴史に位置付けられる。それは、人間はどこからきてどこに向かうのか、という問いであったり、死後、人間の意識はどうなるのか、という問いだったり、なぜ、人間は苦しまなければならないのか、という宗教的な問いと重なり合うものだからである。自身の動機を徹底的に考えると、結果、思考は哲学や宗教などの人類の認識史に向かうことになる。わかるとは何か。存在するとはどういうことか。そうして世界のメカニズムに関心が向く。

 

目的を中途半端に小さく切り取ってはいけない。市場で一番になるとか、要は、お金が稼げればいいんだろ、とか、株主価値を最大化すればいいんだろ、とか、開き直ることは許されない。そうした瞬間、自身はラクにはなるだろうが、次第にモチベーションそのものを失ってしまうことになる。生きる動機を失ってしまうだろう。そして、一番かわいい自分自身をかわいがること、自分の周囲にいる家族や仲間を労わることにかこつけたアリバイ作りが始まることだろう。爽快な気分は影を失ってしまう。自分自身で生きている意味を紡ぎだすことは出来なってしまう。次第に元気を失う。結果、身近な他者は、労わる対象ではなく、自身の葛藤を処理させる利用する物体と化してしまう。一番弱い他者である自分の子供が被害者となる。社会改革という大きな目的を持たない親ほど、この世で罪深いものはない理屈である。

 

「私の問題」ではなく「我々の問題」として

問題にぶつかったとき、大きな目的を思い出せれば、なにも自分自身で突破しなければならないと頑なになる必要がないことにも気が付ける。他者に頼ることは決して恥ずかしいことではないことに気が付ける。丸投げは論外だが、いつまでも抱え込んで情報を漏らさないようにすることなどさらに論外であることに気が付ける。自分が向き合っているのは常に全社の課題。「私の問題」ではなく、「我々の問題」であることに気が付ける。それを思出せれば、別の道も思い浮かぶはずである。自分自身がヒーローになることよりも、自分自身が上司から褒められることよりも、賞賛や承認を受けることよりも、軽やかに仕事の進捗スピードのあるべき姿や重点ポイントに気が付くはずである。自分自身の感情をも相対化し、自分を道具として感じる結果となるだろう。人の意見も聞くことが出来るようにもなるはずである。議論も活発に行えるようになる。

 

読解力が劣る時、どうするか_嘆いている暇はない

一方で、自分自身の読解力が劣る、理解力が他者より劣っていると感じた時はどう考えればいいのだろうか。

もし、自身の動機を感じる力があれば、それは継続するという根気で何とかなるものである。人はたいてい必死になれば、そして、その時間を何年も継続することが出来れば、大概のことはできるようになる。要は、自分自身にそれをやる大義があるかどうか。そのことに生きる上で最上の価値を感じているかどうかであろう。問われているのはそうした根本的な理解の方である。読解力などという、技術的な小手先の問題ではないのだろう。

 

それでもやはり、現場でぶつかる壁の多くが、この自分自身の向き不向きを気にする態度である。もしかしたら自分は企画職に向いていないのではないか、もしかしたら自分の能力は届かないのではないか、そうした、心配の声を多く耳にする。しかし、考えて見ればわかるのだが、こうした心配は根拠がないどころか論理的にもつじつまが合わないものである。自分には出来ないかもしれないという心配は、裏を返せば、将来、他者に承認してほしいという欲求の言い換えである。授かった生を社会正義のために使おうと本気で考える人は、向き不向きや他者と比較することなどしないだろう。そんな暇があったら目の前の問題に立ち向かう。そんな暇があったら今、わからないことを懸命に理解しようと考えているだろう。

世界はあまりにも膨大である。一生かかっても理解しきれることはないだろうと思えるほどに巨大で複雑である。それに挑んでいるのである。嘆いている暇はないことを、努力の人は知っている。

 

目的を見つめて努力を継続すること

一朝一夕でなされる事業などない。たいていは一つのことに一生をかけて集中したとしても満足のいく結果になるかどうかは疑わしい。それでも、今のあなたのその努力に、価値は存在しているのである。目の前に訪れた困難に見える問題に挑むその心意気。わからないことをそのままやり過ごす誘惑に打ち勝って、真正面から対峙しようとする集中力。それが結果的に自身の能力を引き上げ、社会貢献的な仕事につながるのである。

 

成果や評価は結果でしかない。直接的には触れられない結果に過ぎないものを嘆いたり心配したりして時間を無為に使うより、課題を検証し突破する方法をこそ考えよう。出来ない場合は「我々の問題」として上司に積極的に相談しよう。他者を活用しよう。

 

そうした一瞬一瞬の時間に気を付ける気遣いが、いつか必ず成果につながるのである。しばらくして後ろを振り返ったとき、昔よりちょっと成長している自分に気が付くことが出来るのである。そして、それこそが近代社会における正義の実現である。近代の「鉄の檻」に掉さす近代人の作法である。自分が家畜や昆虫にならずにすむ唯一の方法論である。

 

アクセラレーションニストをのさばらせてはいけない。

デモクラシーを育てる意思のある代表を選ばなければならない。

デモクラシーを育てる意味の分かる自分にならなければならない。

 

それが企画職の要諦である。

それがこの時代に、カイシャという最も一般的な組織で働く本当の意味である。