「新しい有効な仮説を生み出すこと」、ただ、それのみ。

「新しい有効な仮説を生み出すこと」、ただ、それのみ。

中計合宿クライマックス

これは私が言ったことではない。すべて、社員のみんなが言ってくれたこと。私はただただ感動しながら聞いていた。昨夜の中計合宿の夜の振り返りの時間でのことである。実に4時間、ひとりひとりが自分のことばで今の心境を語ってくれた。素晴らしかった。

ほんとうにたくさんあるのだが、今回、ひとつがけ取り上げたい・・・それは・・・

「これまでは会社にある仮説に乗っかっていただけ。それではダメなんだということが分かった。そうではなく、自分が『新しい仮説を生み出すこと』、それが大切なんだとわかった」と。新卒5年目の男性社員である。これからは自分が新しい仮説を生み出す。「そうなんだよ、それなんだよ」私は嬉しくて思わずことばが口をついて出ていた。「究極、仕事とはそれだけなんだ!」そのためにすべての知識がある・・・、人脈がある・・・、経験がある・・・、そう言いたかった。「こいつは、真理を自分でつかんだな。」とても頼もしかった。感謝の気持ちが沸き起こった。

 

箱根合宿の目的

箱根に来た目的は、これまで3・6・9年後の未来の数字や戦略モデルの話をさんざんしてきたので、それを「日常」につなぐこと。明日から(今日から)、どうやって仕事に臨んだらいいか、それを腹から理解すること、である。なんどもなんども確認した。みな口に出してくれていた。それでも、どうしても抽象的になってしまう。極端には、「これやればいいじゃん」と外部のコンサルが言うような発言をしてしまう。「自分には当事者意識がないんじゃないか、自分はバカなんじゃないか・・・」夜の振り返りで悔し涙を流した者もいた。でも、次の夜はそうじゃなかった。これも技術・技能の問題なんだ。ものの見かた・考え方の問題なんだ。認識・あり方の問題なんだ。要は「仮に〇〇が〇〇になれば、KPIのこの数字は2倍になる、3倍になる」そうした淀みない文章を生み出すこと。「〇〇が〇〇」には、手で触れられるくらいの具体的なことばを入れること。科学的思考やフレームワーク、そして、経験や知識もすべて、そのための道具。使わないならそれでもかまわない。

3・6・9年の数字と日常は、こうした「有効な仮説」を生み出して初めてつながって感じられるのである。その時はじめて「当事者意識」を強烈に感じることが出来るのである。その時初めて、ひとは行動力を手にするのである。

「箱根の目的は達成された」、みんなの反省の弁を聞きながら、私はひとり、満足感でいっぱいだった。

 

ビジネススクール、限界の本質

MBAを教えるビジネス・スクールは、まずモデル(フレームワーク)を教える。そして、それを事例の分析に即してシミュレーションを行う。事例は世界の有名企業が多い。しかし、ここには決定的な落とし穴がある。それは思考のプロセスが実際とは全く逆だということである。実際の現場では、まず、頭に浮かんだ仮説がある。その仮説を確認するために、モデルやフレームワークを使う。先に現場での知的・精神的格闘がある。それが抜けたら実は何の意味もなさないのである。ビジネス・スクールにはこれがない。いや、これ「だけ」がないのである。現場・現実の混沌を、あらん限りの知恵と知識で突破しようとする、その「気持ち」それだけがない。それがもっとも重要にもかかわらず、である。ビジネス・スクールは、口だけが達者で何も出来ない、そうした無責任な人間を大量輩出する運命である。ビジネス・スクールは事業の主役ではない。MBAは補助ツールでしかない。主役は現場・現実である。それに昨日、みんなが気が付いた。今の日本社会では、まず、起きそうもないことである。

でも、そこに100億の壁がある、事業の壁があるのである。育成など、究極、できない、のである。「ほんとう」は、自分で気が付く以外にない。他者が出来るのは、そうした「気づき」のチャンスを用意するのみ。本質は知識などにはない。腹をくくることである。勇気である。科学的思考の本質も「作為」でしかなかった。自分がこの社会を変えてやろうと思うかどうか。「新しい有効な仮説」がそのための唯一の武器である。

 

「合理」は「非合理」が生む

科学的思考もフレームワークも、本当の知識も、合理的なものはすべて、人間の「情念」という名の「非合理」が生む。社会を変革するエネルギーは、すべて、人間の内側から湧き出る「どうしようもない情念」が生むのである。そこに理由などない。しかし、近代は、その「情念」を枯渇させようとするメカニズムである。どこまでいっても矛盾するメカニズムである。

だからこそ、そこに仲間が必要なのである。仲間との連帯意識が必要なのである。仲間と共に、何かを達成したい、という理由なき感情が必要なのである。

仲間との時間を十分に愛おしむことである。こいつらのために生きたいな、そう思えるほどの愛おしい時間を育む理由である。

戦争で敵国の兵隊を殺すのは、国家のためではない。そこにいる仲間を助けるためである。仲間の人生を終わらせないこと、それだけのためでしかない。カイシャ組織も同じなのであろう。これも昨夜、ひとりの社員が言ってくれたことである。4年目の男性社員であった。

明治維新も、フランス革命も、アメリカの独立戦争も、合理的思考が生み出したものではない。それこそ「非合理的」な人間のどうしようもない「情念」が生み出した。なぜだかわからないが、「変えなければならない」と思ったのである。そうした理由のない情念をこそ、人間は求めるべきである。それが枯渇しないエネルギーを我々にくれる。

 

理由なき情念が生む「仮説」が、次の「仮説」を生む唯一のエネルギー

人間の内面も同じメカニズムでしかないのであろう。なぜかわからないが始まってしまった「情念」は、その次の「情念」を準備する。始まりに理由などない。「なぜあなたにはそんなにエネルギーがあるのですか?」よく聞かれる質問ではあるが、これには答えられない。理由など自分にもわからない。ただ、そう生きることが幸せに感じるのである。そう生きたい、それだけでしかない。そして、そのエネルギーは、なかば強引に生み出した「最初の有効な仮説」が生んでくれていた。自分の感情は、昨日の自分の感情が生み出している。感情が感情を呼ぶ。情念が情念を呼び覚ます。別に最初からエネルギーがあったわけではないのである。そこに理由はない。「たまたま、偶然、いい人に恵まれたから、なぜですかね?」それでいいのである。世界はそうして動いている。そうして、社会変革はなされてきた。明確な目的意識に、実は、理由などないのである。「合理は非合理が生む」、それが、人間社会のメカニズムである。

 

「新しい使える仮説」それが、すべての始まりである

オリジナルである。唯一無二である。自分がその仮説を生み出すのである。カイシャには実は、そうした仕事しか存在しない。10人いれば10通りの「仮説」、100人いれば100通りの仮説がそこにある。それがカイシャの理想的な姿であろう。それを実行の段階で組織的に絞り込むこと、それが中計の「ほんとう」でありたいものだ。あふれる「仮説」に、時間が限られているから優先順位をつける。そうシンプルに捉えたい。

 

昨日の箱根合宿二日目で、社員のみんなはそれに気が付いたのであろう。

みないい顔をしていた。たくましくなっていた。人前で話すことに、躊躇するものなどそこにはもはやいなかった。そんな社員の姿に、わたしは、ただただ惚れ込んでいただけだった。加える言葉など、いらないと思った。

 

仕事とは、究極、「新しい有効な仮説を生み出すこと」それのみである。私も改めて学ばせてもらった。多くを学ばせてもらった。箱根は明日への力である。あと一日、しかし、大成功である。

 

社員のみなさん、ありがとう。