ファシリテーション・モデル
マネジメント・スタイルをモデル化する
合宿前にひとつ、私が勘違いしていたのは、「俯瞰する視座を理解させること」と、「それを実行させること」とは全く違う、という点であったのだと思う。現場を育てたい一心で(これがダメなんだと思う)、かなり困難な課題を課していたのだろう。どこで線引きするべきかを間違っていた気がする。そこで、今回の合宿の「予期せぬ成功」をもう一度、マネジメントの観点から整理してみたい。ファシリテーションを繰り返す中で気が付いた、現場マネジメントのためのモデルを考えてみたい。「ファシリテーション・モデル」とでも呼ぶことにしようか。
モデルへの「あたり」
以下の6つが、今回の合宿をファシリテーションする中で気が付いた、マネジメント領域における学習の成果である。モデルに向けて「あたり」をつけてみた。
①知的領域は「8割がた」マネジメントの責任領域である
②マネジメントの責任領域を現場に丸投げしないこと
③社員自らが答えを導くように「待つ」こと
④可能な限り褒め、決して非難しないこと(説明は十分にすること)
⑤現場の反応を見ながら必要なモデル(フレームワーク)を追加すること
⑥中計合宿の詳細な設計は、すなわちマネジメントの設計であること
思い出していたのは、オービックの連続最高益達成の記録更新である。いつも合宿(勉強会)を繰り返しているという。私はオービックの中を詳しくは知る立場にないが、こんな感じでマネジメントしているのではないか、となぜか想起させられていた。その他、キーエンスやニトリといった日本の名立たる好業績企業のエッセンスに思いを馳せていた。なんとかそのエッセンスをつかみ取りたい、その一心で考えていた。われわれは現在、100億規模。理念に沿って、ここから10倍のイノベーションを無理なく起こすためのエッセンスである。
マネジメントと現場は、どこで線引きするか?
「①知的領域は『8割がた』マネジメントの責任領域である」
「②マネジメントの責任領域を現場に丸投げしないこと」。
最初のポイントは、マネジメントと現場の線引きをどこでするか、という点である。これはマネジャーの力量が問われる最初の関門である。自身が学習を継続しない限り、達成できない課題である。マネジャーは現場の社員より強く学習しなければならない。経営企画の新設はそのための武器である。
もちろんこれはモデルである。現実は少々複雑である。それが「③社員自らが答えを導くように『待つ』こと」という気づきにつながる。マネジャーは答えを持っている必要がある。しかし、現場の社員が答えを自ら出してくるのを「待つ」。そして、成果を現場に譲る。ファシリテーションという立場にあると説明したくなる衝動に駆られるのだが、そこは我慢である。あくまで成果は現場の社員のもの。マネジャーは社員が成果を挙げるのを助けるコーチの役割に徹するべきである。しかし、そこにも限度というものはあるのだろう。そこが一番、難しい。きれいに整理整頓して道筋を示す必要がある時も、また、あるのではある。
コトラーのマーケティング5段階のフレームワークに沿って整理すると、これは第一段階から第三段階、「リサーチ・セグメンテーション・ターゲティング」までをマネジャーの責任領域にする、ということである。そのうえでマネジャーは現場の勇気づけに徹するのである。決して、不慣れな論理展開をけなすような真似は控えるべきである。現場の社員は、何度も繰り返すうちに必ず出来るようになる。時に何年かかったとしても、それを「待つ」こと。それがマネジメントの責任である。
中計合宿の文脈に乗せるならば、これはプロジェクトの範疇である。今回は、プロジェクトが完成する前に合宿に突入したが、本来はプロジェクトは完成させる必要がある。知的領域で言えば、8割ほどがマネジャーの領域である。それを「戦略領域」と呼ぶ。現場は「戦術と戦闘」活動に専念する。
マネジャーとは、スポーツチームのコーチのような役回りを演じなければならない時があるのであろう。本当は自分がバッターボックスに立った方が早いと感じることもある。自分がわからないからと言って、現場に丸投げして非難して煙に巻きたくなる時もある。それをこらえてこそ、一流のマネジャーと呼ばれる。かつて西鉄の金田が400勝を挙げた時、彼は監督として自分自身をマウンドに立たせたそうである。彼自身はそれで前人未踏の記録を達成するのではあるが、チームは万年最下位を独走していたそうである。自己顕示欲を抑えられない人間がリーダーになると、組織は悲惨な運命を辿るいい例ではないか。
ポジショニング&具体的活動をやり切るまで
社員に主にやってもらうのは、コトラーのフレームワークで言えば「ポジショニングと仕事の設計・実行」という領域である。マネジャーが舞台を整え、社員がその舞台で精一杯に演じること。マネジャーは、社員の演技がうまくいくようにあらゆるサポートをするのである。それが、「④可能な限り褒め、決して非難しないこと(説明は十分にすること)」「⑤現場の反応を見ながら必要なモデル(フレームワーク)を追加すること」につながる気づきである。
褒めるといっても嘘をついてはいけないと思う。そんなこと普通の大人ならいい気持ちはしない。あくまで正直に評価したうえで、いいところを逃さないようにするのである。合宿でも感じたことだが、社員は結構やる。舞台を丁寧に設計すれば、想像を超えて前に進む。ポイントは設定する「問い」に細心の注意を払うことであろう(もちろん、これもマーケティング的対話の結果、固まるものである)。
「復習」こそすべて
社員に促さなければならないのは、むしろ現場の活動が終了した後のことである。家に帰って翌日の休日、少しでもいいから「復習」の時間を取ってもらうように促すことである。「復習」は「予習」の10倍の効果がある。恥をかきたくない、といってする「予習」より、知識を定着させようとする「復習」は、自身の能力を格段にレベルアップさせることを伝えるべきである。時間は5分でも構わない。大切なのは「思い出すこと」である。思い出した「回数」が、記憶の定着を助ける。人間はそうした能力を持っている。
発表で恥をかきたくないと言ってする「予習」は、それほどの効果をもたらさないが、未来へ向けて知識を定着させようとする、健全な動機に裏打ちされた「復習」は絶大な効果を発揮する。それは人間の能力が、健全な動機に支えられているからではないか。また、その人の「動機」と「成果」は切っても切れない関係になっているからに違いない。恥をかいても会社は潰れないが、自身が成長しないと会社は潰れるのである。そうした健全な動機が組織を根底から支えてくれるのであろう。人間社会の真理である。
とはいえ、全体を想像できることはモチベーションの源泉
ここまで、マネジャーと現場社員の活動の仕分けを考えてきた。しかし、である。これは別の見方をすれば「近代社会」の悪い部分を増幅させる危険を孕むことをも強調しておかなければならない。分業は近代社会の必然ではあるが、それは決して「分断」であってはならない。組織は必ず「協働」しなければならないのである。そうしないと、必ず、後に弊害が出てくる。コミュニケーション・コストが上昇し、動きが悪くなる。いや、悪くなるどころではない。そのコストは恐ろしい結果を招くことなる。コストアップの3倍、4倍は当たり前。極端な場合、10倍に膨れ上がることだってあるのである。無駄な仕事が増える速度は、生産性向上のための努力を簡単に凌駕する。パーキンソンの法則として古くから知られているメカニズムである。それは、癌細胞にも似た増殖スピードで組織を一気に蝕んでいく。
そうしないためにも、全社員が全体像を理解するために「時間と予算」を割くことである。それは明確にトップの意思として、スケジュールと金額を明示するべきである。私たちは今回、金額面では1000万円という予算を用意した。プロジェクトはまだ始まったばかりだから、年間に換算するとまだ2倍ほどになるだろう。スケジュールも詳細に設計している。合宿の時間割もさることながら、経営トップである私の時間の実に三分の二を当てる算段である。
でも、それだけの価値はあると思う。経営トップが時間を割く価値は十分にある。私は合宿を通じて、そのことを思い知らされたのである。社員たちは、十分すぎるほどに能力がある。重要なのは、マネジャーがそれを引き出せるかどうか。事業の成功はそこにこそ鍵があるのではないか。
この気づきが「⑥中計合宿の詳細な設計は、すなわちマネジメントの設計であること」である。
マネジャーは自分が「わかって」こそ
全社員を前にした隠し事のない合宿は、マネジャーの能力を裸にする。それまでの知識や経験を総動員しても、そんなにうまくは出来ないことだろう。ファシリテーションは、自身の弱い部分をあぶりだす。しかし、だからこそ価値があるのである。社員の発表を必死に聞いているだけに見えるその裏で、脳ミソはフル回転で話を整理している。どうすれば成果をあげてもらうことが出来るのか、どうすれば「いける感」を感じてもらうことができるのか。論理一貫性と現実妥当性のバランスはどうか。どのモデル(フレームワーク)を使うべきか。そんなことを必死に考える。合宿の主役はあくまで社員ひとりひとりである。しかし、その陰で、マネジャーは成長していくのであろう。そんなことも感じることが出来た合宿であった(まだ続くが)。
合宿マネジメント・モデル
おそらく合宿を目の前で見ていない人には理解しにくいことではあろう。ゆえに、つとめて社内のマネジャー向けの話ではある。そこはご容赦願いたい。
合宿マネジメントのモデルは、結論、こうである。
一階部分、すなわち、マネジャーが「土台」として責任を持つべき領域は、「リサーチ+セグメンテーション+ターゲティング」までである。社員は「ポジショニング+仕事の設計+その実行」を担う。結局、コトラーのマーケティング5段階に収斂してしまった。本意ではないのだが、真理とは、そんなものなのであろうか。
別の表現を借りれば、「戦略」がマネジャー、「戦術と戦闘」の領域が現場の社員が担当する。これもまた、いい古された表現ではある。
それが私が到達した「合宿マネジメントのモデル=ファシリテーション・モデル」である。マネジャーたちの意見も聞いてみることにしよう。