プレコチリコ ブランドの起点(3)

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安冨歩さん『ドラッカーと論語』

ここで私たちが社内の精読会で使わせてもらっている安冨歩さんの『ドラッカーと論語』が理解を助けてくれる。ドラッカー自身が書いた『マネジメント』や『現代の経営』『イノベーションと起業家精神』『経営者の条件』『創造する経営者』の5部作は長大でもあるので、安富さんのドラッカー思想の神髄を論語の概念で読み解こうとするこの本が私たちに道を示してくれる。

安冨さんは、タイトルでも示している通り、ドラッカーを論語で読み解いてくれている。その概念の神髄は「学習」だ。論語は学習という概念の大切さ、人間として生きる上でのその基本を示すところから始まる。「学びて時に之を習う、また喜ばしからずや」。意味は、「書籍などで学んでのちに、時折、“わかった!”という膝を打つように身につく瞬間が訪れる、なんと喜ばしいことではないか。」である。「習う」は復習とは違う、と安冨さんは言う。あくまで、膝を打つような“わかった!”という瞬間のことを指す。ここが第一の肝である。

「学習」という概念も、これまた巷では誤解されている概念である。学校よろしく暗記することは学習ではない。これは「学ぶ」という学習の一側面でしかない。そこに“わかった!”という得心がなければ、学習は完成しないのだ。安冨さんはいう。岩波文庫で伝統的に訳出されているものは、この学習という概念を取り違えていると。私も企業の日々の現場で感じる最重要項目を考えると、この安冨さんの解釈がしっくりくる。

感情は他者との関係から起こる。これは仏教の縁起思想の原理である。他者が人間であろうとそれは同じ。その他者を理解すべく自ら学習回路を開いているときにはじめて、私たちはその他者に敬意を払っていることになる。学習とは他者にレッテルを張ることではなく、自分自身の理解という文脈を刷新することなのである。“わかった!”という感情を伴わない“習う”は、本来の“習う”ではない。そんなつまらないこと、孔子が言うわけないではないか、そう安冨さんも言っている。私も同感である。

 

マーケティングとは顧客を学習すること

では、マーケティングとは何か。この学習という原理を伴うものである。市場をよく見て、自分自身の理解を刷新していく。学んで“わかった!”を繰り返す。市場に商品やサービスを投入し、お客様からの反応を売上データという形で受け取り、それを文脈として読み解く。そして、“わかった!”を生む。会社にある日常活動はすべてこのマーケティング活動、すなわち、顧客を“わかる!”ための作業なのである。

顧客は最終顧客の場合も、そこに到達するまでの間接的顧客である場合もある。ドラッカーは前者をプライマリーカスタマーといい、後者をサポーティングカスタマーという。管理部や人事部などの間接部門は、この間接的顧客=サポーティングカスタマーを直接マーケティング(学習)の対象とする。そこには、言われたことだけをやるという「アイヒマン」は存在するスキがない。

 

イノベーションとは自分自身を変え、顧客を変えること

イノベーションはどうだろう。それはマーケティングと地続きである。しかし、マーケティングとは違って作業ではない。それは現象である。

マーケティングの結果、たくさんの小さいけれども体系的な“わかった!”を積み重ねていったその先に、ある時、顧客の側に変化が起こる。起こすといったほうが適切かもしれない。“わかった!”が体系化されると、会社はその提供する商品やサービスを、“あるべき顧客”に合わせて刷新する。すると、それが顧客に受け入れられると、顧客の頭の中に劇的な変化が起こる。「あっ、そうそう、そういうのいいよね。今までなかったけど、そういうの待ってたのよ」と。そして、経済的価値という大きく急拡大する売上がその提供企業に訪れる。これがイノベーションの原理である。

技術革新もたしかにイノベーションの一つではある。しかし、そのすべてではない。ドラッカーは『イノベーションと企業家精神』でそれを7つの機会として整理して提示してくれている。その7番目。一番確率の低い、しかし、確かに時代を揺るがすほどの巨大なイノベーションである。その実例をいくつも挙げてくれている。

安冨さんは、このイノベーションを、自分自身が変わること、と定義している。マーケティングの結果、自身に起こる刷新をイノベーションと定義する。しかし、厳密にはドラッカーはそうは言っていない。ドラッカーはイノベーションは市場で起こるという。ゆえに私は、整理しなおしている。安冨さんの書籍は大いに参考にさせてもらうが(学習の概念はその通りだと思う)、それに少しだけ付け足したい。それが市場(=顧客)の側に起こる内面の変化である。そう、顧客も「学習」するのである。

 

原理は「わかった」を積み重ねる学習にあり

安冨さんは、この「学習」というメカニズムを原理としてマーケティングとイノベーションを解釈する。私もこれに賛成である。そして、「マーケティング+イノベーション=マネジメント」という式を提示してくれる。マネジメントとは「部下を管理すること」ではないのである。

中国では経営を管理と書くそうである。取引先の中国人社長が以前、教えてくれた。大学の学部がそうなっているとのことであった。日本もひどいが中国もおんなじであった。マネメントの本質は管理ではない。

朝、会社に来てまずパソコンを開く。そして、今日やるべきことを確認する。この時点で、その人は会社に仕事をしに来てはいない。ドラッカーは会社の中にはマーケティングとイノベーションの機能しかないと喝破しているのである。そこには学習が伴う。自らの内面に、日々、小さくとも“わかった!”を生み出さないのであれば、それは原理的に仕事ではないのである。

 

学習なきところにアイヒマンが生まれる

逆照射されて「アイヒマン」が浮かび上がってきた。「アイヒマン」は新しいことを恐れる。自分自身が変わることを恐れる心そのものなのである。言われたことをただこなすだけの仕事は生産性を高めないばかりか、その人自身をも学習サイクルから疎外させ、「作る」作業から遠ざけてしまう。いくら長時間働こうが原理が変わらなければ同じである。逆に、短時間でもいから新たな学習(小さな“わかった!”)を自らに生み出すべく集中力を高めなければならない。敵は自らの内面に巣くう変わることを拒む浅ましい心なのである。

マーケティングとイノベーション、そしてそれを総括する概念であるマネジメントは、巷に流布するような陳腐な概念では決してない。それは、人間が人間として生きる上でとても重要なメカニズムである「学習」という原理を伴うものである。「学習」という原理は、他者との関係から起こる。他者から新たな学びをいただき、そしてそのうえで、“わかった!”という膝を叩くような得心を生む。それが習うという意味であった。

それがモノだろうが、人だろうが、市場だろうが、経営だろうが、同じである。他者との関係から何か新しいものを作ろうとすること。独断でも独善でもなく、地に足をつけた形で学びを繰り返していくこと。それが安冨さんが解釈するドラッカーであり、論語の本質である。

私もドラッカーは何十回も読んでいる。手元のそれはもうボロボロである。そうして20年、現場の経営の試行錯誤に使わせてもらっているその実感からいうと、安富さんのこの慧眼はその骨格において素晴らしい。そこには善き人間社会に通用する論理一貫した理論体系を明確に感じとることができる。

 

ドラッカーは「アイヒマン」を生み出したヒトラー率いる全体主義への防波堤としてこのマネジメントなるものを生み出した。そして、この防波堤は、マネジャー一人一人の「変わろうという勇気」にその源を発する。当然、ストレスもかかる。だから、そんなに大そうに考える必要はない。日々の小さな“わかった!”を積み重ねさえすればいいのである。他者と囲んだ具体的な小さな「場」において、知ったかぶりをせず、学ぼう、と意識すればいいのである。知らないことを知らないと言えればいいのである。

 

プレコチリコは何を作ろうとしているのか

さあ、いよいよ、私たちの事業、プレコの起点の話に戻ろう。問われているのは自分自身である。それが「実際人」の使命である。「知識人」である安冨さんや内山さん、ドラッカーの助けを借りて、私たち「実際人」であるわれわれは何を「作る」のか。その答えがプレコチリコには詰まっている。