マネジャ、それは知的戦士

マネジメントとは疑似戦争である

会社におけるマネジャとは何か。それは部下の管理ではない。目の前の仕事を整理することでもない。戦う上司を助ける秘書でもない。その定義は唯一「自ら戦うこと」である。自らの足で立つことである。

ファイティングポーズを解くことは許されない。それは「敵前逃亡」である。本当の戦争では死刑である。仲間を見捨てる最大の罪。それが敵前逃亡。マネジャの任務は戦うこと。その腹のくくり、開き直りが自らを潔く、快活に現象させる。唯一、卑怯から遠ざける。凛とした空気を醸成する。

でも、それは本物の戦争ではない。本物の戦争を避けるための人類の知恵である。だから絶対に死ぬことのない戦争である。ドラッカーがヒトラーの全体主義を研究し尽くし、たどり着いたメカニズムである。近代社会という矛盾をマネジャの内面が吸収する。だから主戦場はマネジャの内面である。マネジャが「苦しむ」ことで世界の平和が保たれる。人類に幸福が訪れる。そうしたメカニズムである。

私たちが棲む近代社会には、人間にはコントロール不可能な「自由市場」が存在する。それが構造の真ん中である。そして、それは星の運航に似た自然現象である。理解することはできても、制御は不可能である。私たちはこの土台の上に乗っている。一方、人間の本性は怠惰である。できればラクしていい思いがしたい。変化などご免である。昨日の安穏が今日も明日も続くことを望む。

ここに決定的な矛盾が発生した。「近代」と「人間の本性」と。近代の自由市場は私たちに変化を「強制」する。そうしなければみんなが沈む。誰かが市場と戦わなければ、私たちの「安穏願望」はすべて奪われる。「変化を強制する市場」が「変化したくない人間の心」を襲う、そういう図式である。その間に立ってマネジャが戦う。

国の中小・零細及び中堅企業が、知的探索を行わなければ、その国の経済は沈む。みんなで貧乏になる。その構造的圧力に事業は常に晒され続けている。その一部をミドル・マネジャが負担する。それが社長を支えるという意味である。マネジャの本質である。マネジメントとは、部下の管理や秘書業務ではない。本質的に知的ケンカである。

 

マネジャの仕事はマネジメントという意味

人間は何千年も前からゴロゴロ寝転んで時間をつぶしてきた。しかし、近代に入り、市場の変化は、星の運航の如く、身体の生理の如く、意思・意識とは無関係に私たちを襲い続ける。その矛盾を吸収するのが「マネジャの仕事の本質」である。そして、その社会的矛盾を吸収する技術が「マネジメント=マーケティング+イノベーション」である。変化を強制してくる市場に唯一、意思をもって働きかける技術がイノベーションである。イノベーションのチャンスを知るためにマーケティングがある。ゆえにマーケティングとは市場の学習である。市場を”わかる”ことである。

ゆえにマネジャの仕事の核心は学習である。知的探索である。市場を学習することである。一方、市場はバランスシートの連鎖である。だまし絵の如くお金の流れとしても捉えることが可能なのである。だから、マネジャの共通言語は財務諸表(P/LB/S)となる。それは星の運航の如く。我々の生理の如く・・・マネジャは市場という星の運航を学習するのである。それは、人間の意識が絡み合う織物のごとき現象体系である。

 

マネジャは具体的に「戦」う、一般社員は抽象的に「闘」う

しつこく確認する必要がある。マネジャの仕事は戦うことである。市場と格闘することである。そして、近代社会ではそれは知的探索というカタチをとる。ゆえにマネジャの内面にはそれ相応のストレスがかかる。内面の葛藤には金銭で報いる。それが原則である。

会社には本質的に、2種類の仕事が存在する。市場と戦うストレスを引き受ける仕事。端的に数字である。そして、一歩下がって個人的な知的探索を行う仕事である。「一歩下がって」とは、マネジャが弾を受けてくれている(数字と戦う)その背後で、という意味である。前線部隊(具体=数字)と後方支援(抽象=ことば)。その2種類である。

言い換えれば、市場の見える敵と明確に「戦う」仕事と、内面で静かに抽象的に「闘う」仕事である。両方とも「タタカッテ」いることには変わりないが、ストレスの程度は違う。マネジャは「ことば」を「数字」に変換しなければならない。

「戦う」にしろ、「闘う」にしろ、武器は「読解力」である。マネジャには「ことばの世界」を「数字の世界」に変換するプロセスが加わる。

読解力とは、「ことば」を読み解く力である。文字とことば、ことばとはロゴス、つまり論理である。論理は動き続ける世界の全てを記述することは叶わないが、しかし、唯一のコミュニケーション手段である。

つまり、マネジャの仕事はコミュニケーションともいえる。その本質はことばによるホウレンソウである。マネジャは、それに数字によるコミュニケーションが加わる。仮説検証のループを頼りにコミュニケーションを行う。

 

知識社会という前提で戦(闘)うということ

この世界を構成している織物の構成要素は「知識」である。それは「ことば」、つまり、論理のつらなりと言える。だから、戦いは「ことば」を巡って行われる。「ことば」とは論理、つまり、説得力=感情を動かすメカニズムである。相手の「納得」を獲得して世界を動かす。「納得」が世界を動かす。イノベーションの原理である。大規模な納得(一定集団の認識変化)をイノベーションという。

「納得」は、“わかった!”という個々人の内面の現象がその原理である。しかし、人間の内面は他者との連なりをも形成している・・・ひとつの知識の織物である・・・ということは自分の意識も織物の一部、そして、“わかった!”という気づきも織物の一部と言うことになる。あたかも水面に小石を投げた時に広がる波紋のように、あなたの「意識」も「気づき」も他者に伝播する。そして、他者の「気づき」や「意識」もわたしに届くことがある。

とすれば、自分が新たな学びをして、“わかった!”を積み重ねていくことは、結局は社会全体を善き方向に導くことにつながる。波紋を通じて世界中に伝播するはずである。

善き社会のために、社会貢献のために、わたしは、あなたは、何をすべきか?端的にそれが「学習」である。「知の探索」である。マーケティングである。イノベーションである。マネジメントである。そして、あなたの内面が近代社会の主戦場である。唯一の戦場である。

 

伝統主義が打破されて近代はマーケティング社会になった

変化を望まない心。それは古代・中世の人々のエートスである。キリスト教予定説や武士道的予定説がその心象風景をひっくり返した。英雄の出現である。19世紀、それは本当の戦争というカタチで現れた。日本でもそれは切腹などの作法として定着していた。20世紀は戦争の世紀になった。合計で1億人を殺してしまった計算である。

それを経て21世紀。IT革命・グローバリゼーションによって世界が一つになろうとしていて、殺し合いが出来なくなった。惨い行為はSNSで瞬時に世界中に知れ渡る。世界は衆人監視の中にある。

しかし、だからと言って伝統主義、つまり変化を望まないエートスに戻すわけにはもはやいかない。メカニズムはすでに近代である。星の運航の如く人間疎外の運動がその中心に位置する。市場である。市場を活用することは人類福祉のために必須なのである。今求められているのは、血の気をマイナスした武士道精神である。

 

ゾンビランド日本を救う武器は知的武士道ともいえる覚悟だけである

残虐な血を見る行為を避けるつもりで、変化に立ち向かう内面における戦いまで避けてしまったのが今の日本の姿である。その結果、経済は官製経済に成り下がった。すでに平成の30年間、平均賃金は先進諸国で日本だけが下がり続ける。アメリカや韓国、北欧諸国が2倍から2.5倍に増えているのとは対照的である。借金だけがこの間増加した。

 

すべきことは明白である。ひとりひとりが知的怠惰を戒めて、自分なりの知的探索をすることである。そして、それが「会社で働く」の最低限の必要条件である。そして、マネジャにおいては、そこに「数字」を読解するという知的作業がもうひとつ加わる。それは義務であり、仕事である。

その時、内面は若干のストレスに晒される。ことばにしがみつくことは論理にしがみつくことであり、怠惰とは反対方向のエネルギーである。しかし、そうした秩序化こそが人間が人間であるゆえんであり、エントロピー(老化)に抗う唯一の方法(ネゲントロピー)である。

 

マネジメントとは「課題の抽出であり、実践して検証し改善する責任を持つことである」とドラッカーは喝破している。そして、そのマネジメントは疑似戦争の如く「覚悟」を要求する。その覚悟をいかに調達するのか。それがいま問われているのだと思う。21世紀の最大の課題である。

そして、それが唯一、実際の戦争を避ける手段である、とドラッカーは考えていたのである。

ひとりひとりの内面における知的戦争。それが実際の戦争を避ける唯一の防波堤となる。

マネジャは、いうなれば知的戦士である。

人を傷つけない知的武士道のサムライである。