「マネジメント」か?「リーダーシップ」か?

「マネジメント」か?「リーダーシップ」か?

Management is doing things right. Leadership is doing right things.

「マネジメントとは物事を正しく行うこと。リーダーシップとは正しいことを行うこと。」

マネジメントとリーダーシップについて、その違いを的確に表現したドラッカーのことばである。しかし、ふたつのことばほど、誤解が多いものはないかもしれない。また、この二つのことばの意味を改めてじっくり考えるということもあまりない。こうした「大きなことば」は日常、意味するところを明確にせず、なんとなくわかったつもりで使うことが多い。それでもなんとかコミュニケーションできてしまうように感じるからなおさらだ。でも、会社で働く私たちにとって、とてつもなく重要なこの二つのことば。今一度、立ち止まって考えてみたい。

 

「Management is doing things right. (物事を正しく行う)」とは何か

ドラッカーは一方で、会社の中にはマーケティングとイノベーションしかない、と喝破している。「マーケティング+イノベーション=マネジメント」と言ってしまって差し支えないだろう。では、マーケティングとは何か?それはコトラーがマーケティング5段階としてうまく表現している。すなわち、①リサーチ、②セグメンテーション、③ターゲティング、④ポジショニング、⑤仕事の設計である。それぞれイメージしやすいのですんなり腹落ちできると思う。しかし、それがどうして「物事を正しく行う」ということと同じ意味になるのか。それが知りたい。

 

私はずっと世界の5大宗教について考えてきた。なぜなら、「世界は人々の思い込みで出来上がっている」という勘が働いていたからだ。創業以来ずっとそうだった。そして、この人々の思い込みに何度となく跳ね返されてきた。世界の中でもっとも動かし難いものである、今はそう確信している。「経営とはすなわち人々のものの見方・考え方を動かすこと」そういっても差し支えない。だから、どうすれば目的に沿って人々(顧客・取引先・社員)のものの見方・考え方をまとめられるのか、それが知りたくて人間の内面の源流でありカタチである世界宗教を探索するようになった。そうしないと気が済まなかった。

宗教の中では、仏教の「唯識論」というのがもっとも科学的である。科学的というのは、世界の真理・摂理をありのままに表現しているという意味である。空や縁起、無常・無我という仏教の世界表現は、真理と摂理の構造分析モデルである。それは最先端の理論物理学と瓜二つである。世界は人々の思い込みが複雑に絡み合った何ものか(唯識論)。そして、そこに実体はない(空)。あるのは思念だけであって、実際、その思念がお互いつながり合っている(縁起)。宇宙の法則も、近代社会の法則も、資本主義市場の法則も、仏教の構造分析モデルを理解するとすんなり腹落ちする。まさに瓜二つ。ドラッカーのマネジメントは明らかにこの世界観を前提に理論化されている。

一方、儒教や他の一神教は、よって立つ神話をその基盤に据える。儒教は「歴史(書)」だし、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教はそれぞれ異なる聖典である(旧約・新約・クルアーン)。地上ではない、すなわち形而上けいじじょうの存在(神話・歴史)に私たち一人一人は支配されている、そうした構造を有する。形而上の存在に認められることが現世での目標、そうした明確な物語りである。これは日本を振り返ると幕末から明治維新にかけて盛んだった武士道の精神に酷似する。山鹿素行やまがそこうの『中朝事実ちゅうちょうじじつ』を起点に起こった日本固有の国学に端を発した天皇教(尊王思想)である。天皇は実在するが、居ながらにして形而上の存在とした。端的に神である。吉田松陰や坂本龍馬、三島由紀夫に至るまでこの心的構造を内面化していた。

 

物事を正しく行うには、まず世界を正しく把握すること

「物事を正しく行うこと」がマネジメントだとして、正しく行うには何が必要か。それはまず、世界を正しく把握すること、もっと言えば、世界の真理・摂理を正しく理解することだろう。すなわち仏教の世界観である。唯識で空。無常で無我で縁起する世界観である。つまり近代社会の構成原理。近代資本主義社会・民主主義社会の構成原理である。

この世界はトポロジカル(位相空間)ということも可能である。つまり、座標軸などどこにも存在せず、ただ、その時代の、その地域の「あたりまえ」という名の普通が座標軸のごとく人々にプレ・インストールされているだけ。世界史的偶然が複雑に絡み合い積み重なった想像上のイメージ。人々の「意識・無意識」が社会的に形作った集団イメージである。

そして、そこに意味はない。原理的に人生は無意味である。仏教の開祖ブッダも、人生はただただ苦であると言い切っている。苦とはすなわち無意味。ゆえに、輪廻転生(生まれ変わり)を断ち切り、永遠の無になることを目標とする(涅槃ねはん)。

 

「正しいことを行う」とはどういうことか?

だからこそ、ほかの宗教、すなわち神話が人類には必要になるのである。人間の生きる意味はこの「神話」が作り出す。

3つの一神教における聖典も、儒教における歴史書も、人間が書いたものである。決して天上にいる神様が書いたものではない。信仰心のある方には申し訳ないが、聖典や歴史書に根拠はない。正しいかどうかという証拠はないのである。形而上学的な宗教に論理的な根拠は見いだせないのである。ここの徹底した理解が私は重要だと思う。

だからである。リーダシップに必要な「正しいこと」とは、論理的に「正しいこと」ではなく、その時、その時代に、「人々が正しいと認識したこと」でしかない。しかし、それが歴史上、人類を動かし世界を形作ってきたのである。何千年にもわたって、人間の意識という織物は「ほどかれては編み込まれ」を繰り返してきたのである。そして、人類はそこにこそ意味を見出してきたのである。

この世界は論理的には無意味である。しかし、人間は意味を作り感じることはできるのである。

正しさとは、そこにあるものではなく、みんなでつくるものである。

リーダシップとは、すなわち、物語りを作ることである。

人々が感動する物語り、それが「正しいこと」である。

 

再び、マネジメント=マーケティング+イノベーション

人々の思い込みが編み込まれた「今日の世界」を正しく認識しようとする活動がマーケティングであり、そこに、いささかのショックを与えて刷新するのがイノベーションである。現実的には、自分たちが携わることのできるカタマリを取り出し(セグメンテーション)、狙いを定め(ターゲティング)、刷新のための物語りを作ること(ポジショニング)、そして、イノベーションが実際に社会で起きるような接触のしかたまで設計する(仕事の設計)。

それがすなわち「物事を正しく行うこと=マネジメント」である。そして、その過程で「社会を善き方向に変えようとする物語りを作ること」がすなわちリーダーシップである。

マネジメントとリーダーシップの正確なその意味は、近代社会というプラットフォームの正確なメカニズムを前提に捉えられるものということになる。

 

誤解のいくつか

部下(人々)を管理することがマネジメントではないことは明白である。また、強いリーダーを望むことが想定されていないことも明らかであろう。近代民主主義を理想とする私たちが棲む社会では、ひとりひとりが人生の主役である。「民主」とは、私たち市民に絶対的な権利があるという意味である。そして、その意味は、ひとりひとりがマネジメント(マーケティング+イノベーション)をし、リーダーシップ(物語りの創造)を発揮するということに尽きる。

強い人間しかリーダーにはなれないとか、人々を従え管理することがマネジメントだ、といったような誤解をしていると、こうした近代社会が理想とする姿(変革の原理)は見えてこない。マネジメントとリーダーシップなることばへの正しい理解は、近代社会に生きる私たちにとってとても重要だと気が付く。

 

人類が求める社会の姿

私は、いわゆる「強いリーダー」のような古い意味でのリーダーシップはすでに不要になっているのではないかと思う。IT革命やグローバリゼーションで世界の織物はさらに絡み合い、ひとつになろうとしている。スマホの存在がそれをさらに加速させるだろう。もはや30年前のように世界は分断されていない。

こうした時代背景にあっても、人々が盲目的に従うべき強いリーダーは必要なのだろうか。もちろん世界はいまだ平和ではないから、時に、強引な「リーダーシップ」は必要な時もあるだろう。しかし、原理的・理念的に今必要なのは、説得力のある「ことば」なのではないか。真の意味での、そして、ドラッカーが言おうとしているところの説得力のある「ことば」を紡ぐ「リーダー」が求められているのではないか。そして、それは決して少数の目立ったポジションにある者によってではなく、私たち一人一人の内面から発せられる素直な「識しき」、つまり「思うこと」なのではないか。

 

Management is doing things right. Leadership is doing right things.

(マネジメントとは物事を正しく行うこと。リーダーシップとは正しいことを行うこと。)

ドラッカーのことばを考えるにつけ、そんなことに「思い」を巡らせた。