ドラッカー5つの質問の前に隠れる「問い0ゼロ」

「integrity of character」それが「問い0」の正体

ドラッカーの中で最も重要なキーワードを一つ上げろ、と言われたら多くの人が「integrity of character 」を上げるのではないか。しかし、この言葉ほど日本人にとってわかりにくいものはない。上田淳夫さんの訳では「真摯さ」となっている。他に「誠実さ」と訳されているものもあるが、大体において「真摯さ」である。

integrity of characterを直訳すると「人格の統合」である。つまり「人格の統合=真摯さ」。一体、どういう意味なのだろうか。また、どういう意図で上田さんは「真摯さ」と訳されたのだろうか。

ドラッカーに有名な5つの質問というのがある。すなわち、1.使命は何か 2.顧客は誰か 3.顧客は何を価値と考えているか 4.成果は何か 5.計画は何か である。この5つの質問に、それこそ「真摯」に答え続けることで巨大な事業を作り上げたと豪語する稀代の経営者もいるほど、この質問には威力がある。私も創業以来、この質問に取り組んでいる。

しかし、創業から20年、現場で経営に取り組んできて、どうもこの質問だけでは足りないのではないか、と考えるようになった。それが「問い0ゼロ」の存在を考えるようになった理由である。

「問1」の「あなたの会社の使命(=事業)は何か」といくら問うても、何か虚しさのようなものが残る。社員との合宿などでこの質問に取り組んでも、いつもいくばくかの違和感とともに煮え切らなさを残して終わってしまう。私は、なんでだろう、なぜ、うまくいかないのだろう、と考え続けた。そして、その違和感の正体にようやく気が付いた。それが「問い0」の存在である。

「問い0」は、「あなたはなぜ生きているのですか?」「あなたは何のために存在しているのですか?」「あなたはどうやって覚えられたいのですか?」「あなたとは誰ですか?」という日本人にはなじみが薄い宗教的な問いである。ドラッカーはこのことに明確には言及していないが、別の言い回しで確かに触れている。それは哲学者キルケゴールを見出した論文であり、自身のコンサルティングのポリシーであり、なぜ自身が経営者をやろうとしないのか、という質問への答えである。

ドラッカーはこの問いに導かれていない経営者のコンサルティングは拒否すると明言している(問題を自身の責任と感じない経営者とは仕事をしないという言い方であるが)。キルケゴールとは、世界のメカニズムと内面の無意識とのつながりを特に強調した哲学者である。ドラッカー自身が経営者をやりたくない理由は、この問いに導かれていない「できない社員」に耐えられそうにないから、というものである。彼は実際人より社会生態学者としての知識人を選ぶと明言した。

 

日本企業にとってアメリカ発のMBAでは不十分である

「経営学」はアメリカ発のMBAがベースになっている。私のような創業経営者は、MBAにあまり興味を抱くことはないのだが、一般的にキャリアアップを考えているビジネスパーソンはMBAを知のよりどころにしている人が多い。しかし、このMBA、日本社会の現場ではなかなかうまく機能しない。なぜか。

それは、端的に戦後日本社会に宗教性が失われてしまったからである。敗戦後のアメリカ占領下の新憲法において天皇が人間宣言を行うことで、日本社会は急速なアノミーに陥る。仰ぎ見るべき天を失った日本人は、一瞬にしてソリダリテを失う。そして、すがりつくように「偶像」をこしらえていく。その代表が終身雇用であり年功序列賃金制度である。近代社会という鋼鉄の檻のごとき原理を有する市場システムを無視してでも、すがりつくべき偶像を必要とした。日本型雇用慣行は、戦後日本社会にどうしても必要な「信仰の対象」だったのである。

しかし、21世紀、グローバリゼーションとIT革命の波がその偶像を破壊してしまった。大企業の間では、そのカタチだけは維持しているようだが、平成の失われた30年はそれに代わる「信仰の対象」を立てられなかったことにこそその原因がある。戦後の日本社会にソリダリテを供給した「偶像」が、虚像のごとく、産業構造改革の前にいまだ立ちはだかる。

MBAはこの事実を知らない。アメリカの知識人も、日本企業の構造的な困難を知らない。唯一、その構造を本能的に感じ取っているのは、日本の歴史ある中小企業の経営者である。経営合理化協会なる小さな組織が、本能的にその困難を嗅ぎ分ける。

一方、急成長を是とする企業は別の道を取る。社内公用語を英語にするとか、外国人を多数採用し日本人色を消し去るとか、である。要はどうやって戦後日本の呪縛を切り捨てるか、である。本社を海外に移すことを考えている日本のグローバル企業の経営者も多いことだろう。すべてこの構造的困難を乗り越える手段である。一概には責められない。

 

組織目的を考える前にエニグマの存在を認めることが必要

しかし、それでは日本社会は救われない。呪縛を切り捨てるだけでは日本社会は沈んでいくしかない。経済は停滞し、犯罪は増加し、地域コミュニティーは崩壊するしかない。人々の紐帯(ソリダリテ)は、「古き良き会社」の中からも姿を消すだろう。

本当に必要なのは心ある政治である。しかし、心ある政治家は選挙には勝てない。政治家を選ぶのは私たちひとりひとりの国民である。多くの国民は「毅然たる態度」を取る中身の空っぽな「偶像」に投票する。「カギの掛かった箱に入ったカギ問題(ビデオニュースで宮台真司さんが使うセリフ)」は、こうして永遠に解決されない。

ひとつひとつの企業が、その力は小さくとも、健全なる経営を志向することである。少なくとも、そうすることが21世紀の日本社会に責任を持つ企業経営者の使命であろう。

そのカギを握るのが「問い0」の存在なのである。

ドラッカーの5つの質問は、暗に近代社会を前提にしている。アメリカを中心に考えているのだからそれは当然だろう。しかし、アメリカ社会は、今だ80%の国民が何らかの形でキリスト教を信仰している。もちろん濃淡に差はあるのだろうが、アメリカ大統領の就任式ではいまだ聖書に手を乗せて宣誓の儀式を行う。大統領の最後のことばはいつも「God bless America(神よ、アメリカを祝福し給え)」である。

でも、私たち日本人の多くはキリスト教徒ではない。戦前の日本人のように天皇教に戻ることも叶わない。日本社会は「底」が抜けてしまってすでに75年を経過する。宗教とは社会を形成する「底=基盤」である。原理的に思い込みでしかないが、それでも社会をひとつにまとめる「基盤」である。

今さら急ごしらえで宗教を作ることには無理がある。「宗教」という言葉は、日本人の心にうさん臭さというどうしようもない淀みを感じさせてしまう。

しかし、「宗教的な構造」はどうしても必要なのである。それは人間が死ななくて済む唯一の基盤である。宗教はソリダリテ(連帯・紐帯)の源であった(日本以外の地域ではいまだにそう)。信仰という内的構造は、生きる意味を供給してくれるものである。近代社会は「生き残る手段」ではあっても、「生きる意味=死なない理由」は供給してくれない。

近代社会の内側には、生きる意味は存在しない。それは近代社会の外にこしらえる必要があるのである。近代社会は、人間が生きる上で必要な「人間存在のわからなさ」を政教分離や表現の自由というカタチでその内側に閉じ込めてしまった。それはもう200年も続いている構造的事実である。簡単には変えられない。私たちは、この近代という構造とは別に「生きる意味」を供給するメカニズムをこしらえなければならないのである。21世紀の日本企業に求められているのは、この基盤を作り続ける仕組みである。ドラッカーの「5つの質問」に答えるパワーを供給するエネルギー源としての「問い0」である。

 

内省を基盤にエニグマの存在を浮き上がらせる

私は、わが社で毎週行っている「振り返りシート」なるアイデアを、知り合いの中小企業の創業経営者から教えていただいた。その社長は33年間、欠かさず続けているそうだ。しかし、始めたころは社員が一気に辞めてしまったそうだ。

戦後日本人は内省が苦手である。それは学校で一切教えてくれないことが大きいだろう。一般的な家庭でもそんな話、めったに話題に上ることはない。食事の前の「いただきます」という言葉すら、今は死語に近い。

現代の「教育」とは、「近代教育」のことである。「近代教育」とは「生き残るための」訓練でしかない。それそのものが、近代社会の内側のシロモノである。哲学や人文科学は、理系学問の前にその存続が危ぶまれている。こうしてアノミー社会である戦後日本には、一神教社会では当たり前な「内省=自分の内面と向き合う作業」そのものが消え去ってしまったのである。

でも、「自分自身と向き合うこと=大いなるものとの対話」は、人間が生きる上で必須の作法である。特に私たちが生きる近代社会では必須である。繰り返すが、近代社会は私たちに「生きる理由=死なない理由」は教えてくれない。

内省を起点に、この世界の不思議(エニグマ)に出会うのである。私たちはどこからきてどこに向かうのか、誰も明確に答えたことがないことを知ることである。近代社会の内側には生きる意味はないのだということを腹の底から納得することである。私たち人間には、原理的に生きる理由は存在しない。この世界には意味などないのである。それを徹底的に知ることである。

 

エニグマ(エネルギー)+組織使命(方向性)=らしさ

それでもしかし、私たちは生きることを選ぶだろう。徹底した論理思考の末に、この世界には生きる意味はないと知ったとしても、それでも私たちは簡単に死んでしまったりはできない存在でもある。ちょっとした他者との紐帯がそれを支えているのだろう。

だとしたら、その紐帯をこそ自分自身で、自分たち自身で、作り上げることを日常的な習慣にしなければならないのだろう。それが「内省」の習慣である。

「内省」でエニグマに触れ、その生み出したエネルギーをもって近代社会に戦いを挑む。ぶん回る近代という「複雑怪奇な織物」を読み解く知的エネルギーを蓄える。

自分自身のいたって個人的な「内省」も「ことば」にすることで「わたしのような誰か」が拾い上げてくれるかもしれない。ひとりひとりの手元に格納されるスマホをデバイスとする21世紀のインターネット社会では、それを構造的に叶えてくれるのである。アジアの極東という「世界の端っこ」にいる私たちが、これまた世界の端っこであるルーマニアやモーリタニアの人々と瞬時につながることが可能な世界である。

 

近代市場と闘うエネルギー、それが「問い0」が促す何かである

21世紀の現在、日本はいまだにアノミー社会を脱し切れていない。茶番のような政治やマスコミの報道がそれを物語る。

しかし、経営はそれではいけない。会社は、日本国のように無尽蔵に返す当てのない借金を繰り返すことはできない。デフレ経済であろうと何であろうと、来月の社員の給与を自力のマーケティングとイノベーションで賄わなければならないのである。市場(=近代メカニズム)と闘うエネルギーの供給源が奪い取られてしまった、そうした状況で、である。21世紀の日本企業は、その「源」を自力で調達しなければならないのである。座席争いを促すニンジンを体系的にぶら下げる方法論では、社会を根底から崩壊させてしまうのである。それ以外の方法論を編み出さなければならない。

ドラッカーが「5つの問い」の前提にしていたもの。Integrity of characterとは、人間一人一人が発するエネルギーの供給源を指す。それが訳者である上田淳夫さんが日本語で表現したかった「真摯さ」の意味であり、ドラッカーが到達した近代マネジメントの基礎であろう。ヒトラー全体主義の再来を防ぐ唯一の防波堤であろう。

日本人には「問い0ゼロ」が必要である。市場と闘う会社の目的を問うその前に、エネルギーを供給する内面の「0ゼロ地点」の創造が必要なのである。それが21世紀の会社が求められている経営のカタチだと思う。ドラッカーが一番言いたかったことだと思う。

日本人にとってドラッカー5つの質問は、必然的に「6つの質問」となるのだろう。

それが私が感じてきた違和感に対する答えだと思う。