経営のカタチ(0)成長を放棄し、成熟を目指す

「成長」ではなく「成熟」を

私たちプレコチリコは、成長を放棄し、成熟を目指す。それは、私たちの使命でもある。それがなければ、存在意義がなくなると言える絶対的な運動である。その私たちなりの考え方を書き留める。

 

「成長」と「成熟」の違い

数字が伸びること、そのものを批判しているのではない。数字が伸びることは素晴らしい。多くの人を貧困から救い、経済的な豊かさを私たちに与えてくれるのだから。そうではなく、数字の伸びを「直接的に」求めることを「成長」志向として批判したいのである。もちろん自戒も込めて。

とにかく、やみくもに売上を求めること。売上を上げることに実存を賭けるような在り方をやめなければいけない。端的には、他社との数字の比較を目標に据えることをやめなければいけない。

でも、それは、この近代社会にあっては、本当に難しい。特に、会社を経営する立場からすると最も難しい精神的課題である。社長は、自分の会社が倒産することをもっとも恐れている。事業が継続できなくなり多くの人に迷惑をかける悪夢を見たことがない社長はいない。人間の心があればそれは当然である。身近な他者からの非難ほど苦しいことはない。だから、経営者は、必死に倒産から遠ざかろうとする。ゆえに、直接的「成長」に追い立てられる。

でも、それは、ビジネスモデルが成熟していないからである。成熟していないとは、売上をあげるポイントが1点しかない状態をいう。1本足で会社の売上を支えている。倒産しないためにそこに集中するしかない状態である。会社を作ったばかりならこれは仕方ない。だから、早く、この単純なビジネスモデルの状態から脱出しなければならない。ポイントを2つに増やすのである。価値サイドと顧客サイドの2つである。

ポイントが二つに増えると余裕が生まれる。この余裕を利用する。一気に、社会的価値創造の方向に舵を切る。物量をかます「覇道」型経営から、本質的価値の提供を志向する「王道」型経営へ、その目標を変換するのである。余裕が出来たからといって、そのまま拡大志向に走るのは罪である。それは経営者の傲慢でしかない。結果的に、売上があがってしまうのは仕方ない。占領型ではなく、市場から求められた結果の売上であるならば、それは健全である。この時、経営者は、身近な社員の顔を思い浮かべなければならない。近代の虜になってはいけない。

私は、こうした売上の形態の違いを、「成長」と「成熟」という言葉で際立たせたいのである。「成長」も「成熟」も、数字は上がるかもしれない。しかし、両者は、そのメカニズムが異なる。ビジネスとしての目に見えるメカニズムも、そこにいる経営者や社員の心理的なメカニズムも、である。

 

近代の代名詞「成長」とは、がらんどうな内面を育てる装置である

近代とは、豊かになるための装置である。だから、どうしても必要ではある。しかし、同時に、近代は、“成長スパイラル”という上昇を是とする渦を作り、それに個人の内面をも巻き込んでしまう。強力な磁場を持つその“上昇の渦”は、私たちから「感じる心」を奪い去る。あまりにも上手に、その上昇気流に乗ってしまうと、私たちの内面は、“がらんどう”になってしまう。近代にアジャストすればするほど、心にくっきりとした“穴”が浮かび上がってくる。あたかも強烈な台風の目のごとく・・・

この“穴”は、早ければ、20代の前半で一応の完成形を見るようだ。遅い人でも30代の中盤では完成してしまう。人生の目標が座席争いのみになってしまう。多くの人々は、この心の空洞に耐えられないので、ここから離脱する。しかし、これが唯一の逃れる方法である。つまり、社会からのドロップアウトである。一般的な意味での人生の挫折である。親の期待に応じることを諦めるとか、目指して入社した会社を辞めるとかがそれにあたる。

このまま、自分を負け組図式の中に閉じ込めてしまう人もいるのだろう。悲劇である。いわゆる、勝ち組・負け組図式は、どちらの側も、近代装置を盲目的に受け入れることではかわらない。心の穴は埋まらないままである。

 

近代に居ながらにして近代に抗う方法は、内省することである

では、近代に居ながらにして、近代から逃れる方法はあるのだろうか。それが「内省」という作法である。社会の中で、損をせず得になる座席を探すために、頭で考えるのではなく(決してそうではなく!)、自分の感情の理由(=メカニズム)を、ことばに変換する作業である。心の内奥に潜む襞(ひだ)の繊細な動きを、お腹のあたりで感じ取るように集中するのである。目を閉じてする瞑想そのものである。

ガンジーもキング牧師も、マンデラ元大統領も、この「内省」を起点に社会改革に挑んだそうだ。東大教授の安冨歩さんがおっしゃっている。おそらく真理なのだと思う。頭でする社会改革が成功したことはない、という。理性先行、イデオロギー先行の「善きこと」が身を結んだことはない。そのすべてが、結果的に多くの人を苦しめ、殺していった。

だが残念だが、その内省という方法が、すでに理解できないほどに内面が社会装置に奪い取られてしまっている人もいる。理性で考えることを、「内省」すること、と取り違えてしまっている人々である。とても多い。弁舌がさわやかだったりもする。でも、近代にアジャストしたいと力んでいる人に、人間存在の真実は見えないだろう。

だから、継続して「内省」するのである。近代社会にあっては、真理を見ている人こそが不安である。だから、いつも、自分自身を振り返る。振り返りながら、前に進む癖を付けるのである。

 

心を満たすビジネスモデルを目指して

近代の鉄の檻という社会システムは、今後も、問答無用で回り続けるのかもしれない。世界のビジネス界から、「成長」という言葉が消え去るまで、それはなくならないだろう。それは、イギリスとアメリカが中心で作り上げた社会システムである。国民国家を中心として、資本主義・民主主義とがコラボレーションしたものである。それが真理であるわけではないが、戦争に強かった。そうして世界を牛耳ってしまった。仏教など、出る幕がなかったのである。日本も、明治期にそれに巻き込まれた。そして戦後、1964年の東京オリンピックを境に、社会は完全に近代に変身した。

でも、最近では、当のイギリスやアメリカの投資家の間にも、モラルマネーなる概念が目立っている。ESG投資とか、SDGsなる言葉も紙面をにぎわす。近代社会システムに対する危機感は、日本よりむしろ震源地たるアングロサクソンの方に強いのかもしれない。なんだか残念である。大きな目で見れば、被害者でしかないここ日本で、それほどの危機感を持たれていない現実が悲しい。ESGSDGsの言葉の意味すら知らない人も多い。特に年長世代でそれは顕著である。たとえ意味を知っていても、「そんなもの絵にかいた餅だよ」と思っているのであろう。本気で取り組む素振りすら見せない。

しかし、本当は年長世代がすべて悪いわけではない。近代の鉄の檻に抗う、具体的なビジネスモデルを生み出せないだけなのである。内省を起点にした、それでいて、売上が上がるビジネスモデルが見つかっていない。具体的にどのように市場と対話するのか?具体的にどんな商品を開発するのか?具体的にどんな組織形態、人事制度にするべきなのか?それまでの負の遺産をどう処理すべきなのか?それがわからないのである。

これは、今を生きるすべての経営者の課題である。もちろん我々の課題でもある。それがなければ存在する意味はない。社会を不幸に陥れる会社が未来にわたって存在してよいわけがないのである。それは経営者の傲慢でしかない。

 

プレコチリコのキーコンセプトは内省・ことば・成熟

プレコチリコは、こうした課題に立ち向かうべく結成された。キーコンセプトは「内省」。そして、その「内省」を駆動させるのが、ことばである。私たちは、だから、“ことば”に徹底的にこだわるのである。「成長」を放棄し、「成熟」を目指す、私たちの具体的な方法論である。