合宿報告➄_学者であり・政治家であり・しかも教師でもあり

合宿報告➄_学者であり・政治家であり・しかも教師でもあり

中計合宿を通して感じたこと

学者のように事の始まりを突き詰めてモデルを抽出するような仕事のやり方が必要であることは、身に染みて理解していた。ここまでの20年間、それだけで、それのみの技能で仕事を前に進めてきた気もする。

政治家のように、言い出しっぺとして絵を描いたその結果、どんなことになろうとも結果責任を取っていくこと。それも経営者として当然だと思ってきた。逃げようと思ったことなど一度もない。良くも悪しくも、会社で起こることは全て私の責任である。それがたとえ、入社したばかりの社員が起こしたことであっても、である。

しかし、ひとつ大きく欠けていたのかもしれない、と合宿を通じて思ったことがある。それが「教師としての役割り」である。そのイメージは、合宿報告④で触れたことだが「近代人としての発射台としての教育」ということである。

これまで私は「教育」ということばがなんとなく胡散臭いような気がして嫌いだった。そこまで行かなくても、なんとなく敬遠してきたところがある。このことばを使うやつが、なんか偉そうに感じられて嫌いだったのもある。偽善者に映っていたのかもしれない。しかし、今回の合宿で気が付いたことは、それでは、この会社を創業した意味がないのかもしれない、創業の精神と論理一貫性が保てないのかもしれない、ということだった。自分がこの会社をやっている意味そのものがなくなってしまう。自身が入れ替え可能な「社長機能」でしかなくなってしまうではないか、そのことだった。

 

今の教師は、「教師」という座席に座る入れ替え可能な存在でしかない

多くの人は気づいている。この社会は実は「クソ」であるということを。特に若い人の中にそんな感覚を抱く人が増えているような気がする。何を目指して頑張ればいいのか。会社で働くってどんな意味があるのか、と。極端な話し、こんな社会、崩壊してしまえばいいではないか、という感触を持っている。アポカリプティック・パターンである。ハルマゲドン待望論とでも言おうか。

しかし、今の社会構造の中で、自身に「幸福感」や「エネルギー」を感じられないとするならば、それは、モノゴトのメカニズムを知らないからである。自身の頑張りが善き社会の実現のためになる、という実感に繋がらないのであれば、それは、近代社会というものの正体を知らないからである。

それは、本当は、教師が義務教育で国民全員に教えるべきことである。小学校・中学校、そして、高等教育のフェーズに入った後も、基本、「先生」が教えるべきことは、近代社会への対応の仕方であって、座席争い方法論ではない。教師自身が心細い人生を送っているからといって、若いやつらを自身の慰めモノにしていいはずはない。それでは教育が、社会のためにあるものではなく、自己責任論の範疇に矮小化されてしまう。尊い職業としての教師という役割にも失礼である。今の日本では、基本、「教師」が「人間」ではない。教師という座席に座っている「入れ替え可能な機能」でしかなくなってしまっているのである。

 

ヤケになる気持ちは可能性の現われ

「近代社会」で「幸福感」を感じながら生きる方法は、「作為の契機」を自身が持つことに尽きる。要は、「神の目」を自身の思考癖に内蔵することである。目の前の現象に集中しながらも、それをもう一人の自分が幽体離脱のような感覚で見る視座とでも言おうか。一生懸命、仕事をするのだが、それでもどこかで冷めた自分を内蔵しているというか・・・。そして、その俯瞰した視座(冷静な冷めた自分)を磨いて(=科学的思考を磨いて)未来をつくれる感触を抱くことである。座席はそのための手段として用意されているのである。この社会が「クソ」だとしても、誰しも、出来ることなら、その「クソ社会」を自分の手で改善したいと思うだろう。誰だって自分の人生に意味を感じたいと思うだろう。若いうちは、その具体的方法論がわからなくてヤケになる。でも、そんな「ヤケになる気持ち」は、見方によっては「可能性」でしかない。エネルギーのやり場に困っているだけ、そういうことも可能である。

近代は、自己疎外の機能を内蔵する「資本主義システム」でもある。いくら羨ましい座席に座っていたとしても、それだけで、近代の本質が見えているという保証はない。いや、むしろ、ひとも羨む座席に座っているほうが近代社会の疎外構造に気が付いていないケースの方が多い。論理的にいって当然の帰結である。社会システムに下駄を履かせてもらっていながら、その下駄に疑問を持つことは困難な理屈である。本質を失った現代の教育制度から排出された今日のエリートは、かつてのエリートのような気概を持つことは原理的にはないのである。

 

システムの外に出る視座

教師役に必要なのは、この座席争いのシステムの外に出る視座である。自身も生きていくために座席争いに加わっているのではあるが、人間にはなぜか、それでも想像力で「Out Of Box化」する能力が備わっている。意識をすれば、この地球から離れて、宇宙のはるか彼方から自身を眺めることだってできるのである。その視座の構造的転換の契機が、自身にエネルギーを与えるのである。それが「作為の契機」、デモクラシーを根本で動かすエネルギーの正体なのである。人間は、何かに翻弄されたままであると感じるとき、「やらされてる感」を感じてしまうとき、エネルギーを失って元気がなくなる動物である。そんなアポカリプティック・パターンにハマる芽を、「近代教育」という機会が摘んでおく必要があるのである。それは、その人個人のためというよりむしろ、社会全体への責任である。

 

今は、気が付いた誰かがやるしかないではないか

本当は教育制度の中でやればいいのである。スウェーデンのようなプロテスタンティズムが根付く先進国では、もちろん迷いながらではあるのだろうが、この「近代教育」の是非が国会などで真正面から議論されているそうだ。首相が国民に「勉強するように!」と語りかけるそうだ。マスコミもその意味するところを理解し、国民に向けた啓蒙活動を自身の使命としているらしい。ドイツやイギリス、アメリカなどでも基本、こうした議論が蔑ろにされることはない。全国民が理解することなどないのだろうが、社会のリーダーになろうとする人の中では、基本、近代社会の基本構造は共通認識であろう。国連に参加する世界中の国の代表が意識していることでもある。

ところがわが日本では・・・、テレビの悲惨な現状を筆頭に、国民の誰も「近代」という人間疎外の原理に無頓着である。人類の誰もが逃れることが出来ない大問題であるのにも関わらず、そのことに注意を向けるような番組など皆無である。常に番組の企画は近代社会の枠の中、視聴率視座から出ることはない。

だからこそ、気が付いたものがやるしかないではないか、そう思う。それが経営者だろうと部長や課長だろうと、新卒社員だろうと構わないではないか。もうそんなこと言っていられるようなフェーズではない。ソ連が崩壊してから30年、自由主義経済圏に属するわれわれは、格好つける必要がなくなってしまい、建前が崩れ本音が露わになっている。理想を掲げるなど胡散臭い、そんな感覚が世界を覆っている。トランプやルペン、安倍や菅、小池百合子の台頭はそれを如実に物語っている。

でも、いくら本音で生きたところで、近代社会の構造がなくなるわけではないのである。ウェストファリアは終わらない。世界70億の人口を維持することを考えると、近代資本主義の基本枠組みを崩壊させるという選択肢はありえないのである。物理的なその構造はもう変えることは叶わないのである。

私たちに唯一出来ることは、その「意識」=「視座」を変えるきっかっけを持つことである。近代の原理・基本構造を知ること、それなのである。

人間には不思議な能力が備わっている。それを知れば、気を付ける。我々、人類は同じ「どうしようもない」構造の船に乗っている。その事実に気が付けば、連帯(ソリダリテ)するチャンスが生まれる、そういうことである。

 

とすると、別に経営者だけが教師の役割をしなければいけない、ということではないのかもしれない。誰がやってもいいのであろう。

本音の本音のまたその奥の、どうしようもない私たち近代人の原理的・構造的本音の部分に光を当てる、その作業を、気が付いたものからやっていくこと。それもまた、「カイシャ」の役割のような気がする。そうしないと、この会社を創業した意味がない。そんなことを合宿を通じて感じた。

これが私の、合宿報告➄である。